
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を巡り紹介してくださってるレッズレノンさんのブログを辿るように栃木県小山市をドライブしてきました。
助手席の御方様は「大河ドラマ」が大好きなので、高ポイント獲得が見込まれます(^-^;)
小山市は、総人口数約17万人、県庁所在地の宇都宮市に次ぐ栃木県第2の都市。
地名の由来は諸説あるようですが、思川沿いの台地が、西から望むと小さな山の形に見えるという説もあるようです。
自宅から約1時間半で「天翁院(てんのういん)」に到着です。
平将門を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の直系子孫とされる太田行政の子(または孫)、小山政光(おやままさみつ)が開基した寺で小山氏の菩提寺です。
政光の後室である寒河尼(さむかわのあま、さむかわに)は源頼朝の乳母であり、源頼朝が挙兵した時(1180年)、小山氏が頼朝方に立ったことにより、鎌倉幕府成立に大きく貢献したそうです。
13人の一人、八田知家(はったともいえ)は寒河尼の弟。市原隼人が演ずるようです。
源頼朝の乳母は数人おり、「鎌倉殿の13人」に登場するのは草笛光子が演ずる比企尼(ひきのあま)。
適当にTVを見てる私は、比企尼と寒河尼を混同してましたが、助手席の御方様から「違うんじゃないの?」と厳しくご指摘を受けました。減点~!(;^_^A)
小山城(祇園城)の一角にあり、周囲に堀や土塁が残っています(北曲輪?)。
ニャンこがいました~。
すぐお隣の「城山公園」にクルマを移動し、小山城(別名 祇園城(ぎおんじょう)国指定史跡)を北から攻城です。
祇園社(現在の須賀神社)を城守りの神としてを祀ったことから、祇園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
一部、土塁を切削し、曲輪を橋で結び、見学して回れます。
西側は思川の断崖で、掘は深く、守りは堅いですね。
法面(?)は工事中なんでしょうか?
戦国末期、北条氏によって祇園城は陥落し、小山氏は追放。江戸幕府成立後には本多正純が城主に、その本多氏も宇都宮に転封となり、祇園城は廃城となったとありました。
そのすぐ南が小山市役所で、堤防に「小山政光・寒川尼石像」があります。
政光は思川の水源「日光男体山」を指しているそうです。
小山市役所にあるという「史跡・小山評定跡」(徳川家康が関ヶ原の戦いのため上杉景勝討伐をやめ、西に向かう評定をした場所)、見逃してきました・・・。(>_<)
その後、「須賀神社」へ。
940年(天慶3年)、藤原秀郷が創建、小山城の守護神とされ、江戸時代初期、小山藩藩主となった本田正純によって現在地に移転されたと伝わるようです。
手水舎は自動水栓でした!
境内にある「七ツ石」は、もとは小山城にあり、落城し接収されると夜中に小山を懐かしんで泣いたと伝わる石です。
書道の上達を祈り、使い終えた筆を収める「筆塚」もありました。
レッズレノンさんのブログによると、南北朝時代の東国最大の内乱「小山義正の乱」の舞台となった「鷲城(わしじょう)跡」へは「小山総合公園」の駐車場から歩いて行けるとのことで、行ってみました。
「小山総合公園」は何かイベントがあったようで、結構賑わってました。
で、誰もいない公園の北端まで歩き、土塁や虎口、横矢を見つけながら攻城。
本丸跡にある「鷲神社」。
お昼は、公園のすぐ近くにあった「大竜」という中華屋さんで(ラーメン\500、タンメン\600、チャーハン\600)。

街中華、おいしいナ~
食後に「間々田八幡宮(ままだはちまんぐう)」へ。
藤原秀郷が平将門討伐の際、戦勝を祈願し、また、源頼朝も奥州藤原氏討伐に向かうときに参拝したと伝わります。
「頼朝手植えの松」(1905年に枯死)は二代目でしょうか。
江戸時代には例幣使が道中必ず参拝する習わしとなっていたそうです。
たくさんのネコちゃんがいました~💛
そしてすぐお隣の「間々田思川の桜並木」へ。
菜の花は満開。桜はまだまだでした。
すぐ近くの「山下通り」の桜は満開でした!
最後は「網戸(あじと)城跡」(網戸神社)と「称念寺(しょうねんじ)」です。
「網戸城」の初代城主は寒川尼を祖母とする網戸十郎朝村(ともむら)。
お隣の「称念寺」には寒川尼と朝村の墓があるそうですが・・・見つかりませんでした。
それもそのはず、こちらは「称念寺」ではなく「長慶寺」でした。(゚Д゚;)
「生井桜づつみ」の見頃はおそらくまだと思い、帰路につきました。
お天気も陽射したっぷりで(ちょっと暑かった?)、オープンドライブを堪能できました。
レッズレノンさんのおかげで楽しいドライブができました!ありがとうございました。m(__)m
Posted at 2022/03/30 06:59:17 | |
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