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ねも.のブログ一覧

2022年07月23日 イイね!

会津若松市ドライブ

会津若松市ドライブ「鶴ヶ城、行ってみたい~!」の一言で、行くことに。

自宅を朝4時前に出発。

RAさん、DEBURIさんに教えてもらった「ローソン西郷上川向店~セブンイレブン天栄松本店のルート」はこれまでに2回走ってます。



8th 福島ABCCSミーティング(2019年)

山形・新潟ドライブ(1日目)


白川街道?




岩瀬グリーンロードを走り、猪苗代湖の「青松浜湖水浴場」で休憩。




猪苗代湖を時計回りに北上し、クネクネ道を一気に下って会津盆地へ。


猪苗代湖は、面積日本第4位。湖面の標高は514mで全国でも有数の標高の高い湖。
一方、会津盆地は標高200m前後。

盆地のほぼ中央を流れる阿賀川は、越後山脈を蛇行し、新潟県で阿賀野川と名を変え日本海へと注いでいるっていうんですから驚きました。

クネクネ急坂を駈け下りるとそこに「旧滝沢本陣」がありましたが、9時前だったので中には入りませんでした。


「飯盛山観光案内所」のある「市営観光駐車場」(無料)に停め、「飯盛山(いいもりやま)」見学開始~。


急な階段の脇には「スロープコンベア(動く坂道)」(上り専用・有料)がありましたが、当然、歩きます。


チケット売り場には、NHK大河ドラマ『八重の桜』(2013)で主演、新島八重を演じた綾瀬はるかの写真が飾ってありました。


売店にも「綾瀬はるか来店!」てな写真が飾られてありましたが、おみやげを買わないのでチラ見だけ。 (^-^;)


階段を登り切った左手の「十九士の墓」(白虎隊の墓)・・見逃しました。(゚Д゚;)

「イタリア記念碑(ローマ市寄贈の碑)」


昭和3年(1928)に、白虎隊の武士道の精神に共感を覚えたというローマ市から寄贈されたもので、なんと、柱はベスピオス火山の噴火によって廃墟となったポンペイから発見された古代神殿のもの?!

「昭和3年」を調べると・・・「治安維持法が猛威を振るった年」。

ドイツの外交官も会津の若き少年を賛美し、昭和10年(1935)に碑と十字章を寄贈している・・・。

昭和15年(1940)の「日独伊三国同盟」につながっていくのか・・・

白虎隊が美化され、戦争に利用されてしまったのか・・・


「白虎隊自刃の地」


会津藩の軍制はフランスに倣い、年齢別に4段階に分けられていたそうで、最年少の16歳~17歳が白虎隊。

もともと白虎隊は予備兵力で、少年たちは藩校「日新館」で勉学に励んでいたが、出陣嘆願書を提出し、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の護衛という任務で滝沢本陣に。

その後、猪苗代湖に近い戸ノ口原で西軍(新政府軍)を迎え撃ちますが、軽装備だったため、新政府軍の近代的な兵力に太刀打ちできず敗走。

城下に昇る煙を鶴ヶ城落城と錯覚し、ここで自刃・・・

眺める先には鶴ヶ城が・・・



白いポールのようなものの後ろになんとなく見えました。


「会津さざえ堂 (円通三匝堂)」へ。 国重文 \400


1796年(寛政8年)建立。高さ16.5m、六角三層。上りと下りが全く別の一方通行。感染対策万全です。





助手席の御方様が「明るくてつまらない」と言ったとか言わなかったとか・・・(゚Д゚;)

「さざえ堂」を下り・・・


「厳島神社」


「弁天洞門」


白虎隊は戸ノ口原からこの洞穴を通って飯盛山に辿り着いたと伝えられています。


「飯盛山」の見学は私の逆順がおすすめです。


飯盛山を後にし、「七日町通り」でちょっとおやつ。




「甲賀町口門跡(こうがまちぐちもんあと)」(国史跡)


若松城下を囲む外堀と城内を結ぶ16あった郭門(くるわもん)の石垣。


いよいよ、本日のメイン、「鶴ヶ城(つるがじょう)」へ。


「南口観光駐車場」を予定してましたが、「飯盛山観光案内所」のお姉さんが『こちらが一番近いですよ』と教えてくれた「西出丸」の駐車場へ。 2時間\300?


結構、内部に入るので面白い~


地元では「鶴ヶ城」、よそでは「会津若松城」と呼ばれることが多い? 文献では黒川城・会津城?

鉄筋コンクリートで復元された城なので「若松城跡」として国史跡指定されています。

パンフ「会津 鶴ヶ城」には「若松城管理事務所」









天守閣、もとい「若松城天守閣郷土博物館」、攻城です。 \520(「茶室麟閣」含む)


階によって撮影可or不可。



印象に残った展示では「泣血氈(きゅうけつせん)」。

明治元年(1868)9月22日、約1カ月にわたる籠城戦の末、鶴ヶ城が陥落。
降伏の調印の場に敷かれた約4.5m四方の緋毛氈(ひもうせん・赤いフェルト)を会津藩士たちは無念さを忘れないため持ち帰ったそうです(後に「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれる)。



実際には絵と違い、「緋毛氈」は新政府軍の側だけに敷かれていた・・・?!


「新島八重(にいじまやえ)」


幕末のジャンヌダルク。砲術師範 山本権八の娘。同志社を創設した「新島襄」と結婚。








「茶室麟閣」(移築復元・県指定重文)


千利休の死でその茶道が途絶えることを惜しんだ会津の領主、蒲生氏郷が利休の子を会津に匿うために造った茶室と伝えられているそうです。

↑ を見に行ったため、売店の奥の「南走長屋・干飯櫓」、見逃してきました・・・ (>_<)

いやあ、鉄筋コンクリート製とはいえ、見応え十分!


籠城中、藩主 松平容保(まつだいらかたもり)が指揮を執ったという「鉄門」。





お昼は会津若松市内の「めでたいや」で。


「大名ソースかつ丼」(\1,210)




「中華そばとミニソースかつ丼セット」(\1,210)    


美味しかったけど・・・食べきれませんでした。


「ハードオフ会津若松店」、帰り道と逆方向だったので掘れず・・・(T_T)


「会津三十三観音第二十一番札所左下り観音堂」に立ち寄ろうとナビで探しましたが見つからず・・・




「大内ダム」


通行止めでした。



6th 福島ABCCミーティング(その2)(2017.07.17)の「早帰りTRG」で立ち寄った所です。

↑ 懐かしいなあ~


そして最後に「大内宿」(南会津郡下郷町)へ。 駐車料\500












「早帰りTRG」の時、「ねぎそば」を食べたお店ですね。



↑ こちらも懐かしい写真。

「ねぎそば」食べたかったのですが、さすがに無理でした・・・。


「塔のへつり」はパスし、帰路につきました。

矢板の辺りで急なドシャ降り!4号線なのでなかなか屋根を閉められず、ビショ濡れ~(;^_^A)


思ったより暑くなく、ほぼオープン走行でき、下道のみで走行距離約430km。燃費約16.5L/kmでした。

長文駄文ブログ、お付き合いいただきありがとうございました。m(__)m
Posted at 2022/07/26 13:27:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | コペン | 日記

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