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ねも.のブログ一覧

2020年11月29日 イイね!

クルマ・ジャケ「SUGAR BOY BLUES」/伊藤銀次

クルマ・ジャケ「SUGAR BOY BLUES」/伊藤銀次クルマ・ジャケコーナー第42回は、伊藤銀次の「SUGAR BOY BLUES」(1982)です。


伊藤銀次、ご存知でしょうか?



私が伊藤銀次を知ったのは、大瀧詠一・杉真理・佐野元春のトライアングル作品「Niagara Triangle VOL.2」(1982)から。


↑ コレを聴いたのは、もちろん、「A LONG VACATION」/大瀧詠一(1981)にハマったからです。

永遠のフェイバリット

で、次に、伊藤銀次が編曲で関わった「Heart Beat」/佐野元春(1981)


そして、「Baby Blue」/伊藤銀次(1982)

「Niagara Triangle VOL.2」リリースの1ヶ月後に発表されてます。


そしてそして、伊藤銀次がCo-Produerを務めた「Someday」/佐野元春(1982)

コレにもハマりましたねえ。
LPには「手作りポケットブック」なるものが付いており、ナイアガラなページもあります。





そうそう、ナイアガラと言えば、vol.1を忘れちゃいけませんネ!

「Niagara Triangle VOL.1」(1976)/ナイアガラ・トライアングル(大滝詠一、山下達郎、伊藤銀次)


『幸せにさよなら』って伊藤銀次 作詞・作曲だったんだあ、達郎だと思ってた・・・(^-^;

「POP STEADY #8」(1984)にも収録されてます。


まあ、こんな御大たちと一緒にアルバムを創ったなんて、ねえ・・・。



「銀次」という名は、本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』の主人公”戸川万吉”の相棒”片目の銀次”から取ったのだそうです。

番長を補佐する役割が「まるで自分みたい」だと思い「銀次」と名乗ることにしたという。

でも、「Baby Blue」以降はもちろん主役です!

その「Baby Blue」からわずか5ヶ月でリリースされたのが、本日ご紹介のアルバム、
「SUGAR BOY BLUES」/伊藤銀次(1982)です。


「Baby Blue」で5曲の作詞をした売野雅勇(うりのまさお)が、このアルバムでも7曲を手がけています。

中森明菜の『少女A』(1982)、チェッカーズの一連のヒット曲など、80年代を代表する作詞家ですね。

「バリエーション〈変奏曲〉」/中森明菜(1982)



さて、「SUGAR BOY BLUES」、全曲いいんですが、『Audio-Video』は・・・
バグルスの『Video Killed the Radio Star』(1979)の影響かなあ・・?

「Baby Blue」は『雨のステラ』が入っているせいか、どちらかと言えば夏のイメージですが、「SUGAR BOY BLUES」は『真冬のコパトーン』で冬のイメージ。

どちらも甘酸っぱい詞とメロディー、甘い歌声(ヘタウマ? 失礼!)・・・いいですねえ。


ジャケットはイラストレーター原田治氏の手によるもの。

“OSAMU GOODS”、見たことありますよネ!


かわいいイラストは、多くの企業に採用されています。

カルビーポテトチップス (通称「ポテト坊や」)


ミスタードーナツ


ECCジュニア


日立製作所(エアコン「白くまくん」)



ちなみに・・・
「Baby Blue」(1982)は横尾忠則氏。 へえ~、そうだったんだあ


「STARDUST SYMPHONY '65~'83」(1983)は秋山育氏。


さて、ジャケのクルマは・・


キャデラック・エルドラドかなあ・・・

【登場車両】
Cadillac Eldorado(1954~1956)


【自己採点】
クルマ度   5点(古き良きアメ車。バンパーの突起は何かなあ?)
魅惑度    7点(OSAMU イラスト!)
音楽度    7点(「Baby Blue」と並ぶ傑作?)
Posted at 2020/11/29 11:21:43 | コメント(3) | トラックバック(0) | クルマ・ジャケ | 音楽/映画/テレビ
2020年11月28日 イイね!

クルマ・ジャケ「CITY ADVENTURE」/クリスタルキング

クルマ・ジャケ「CITY ADVENTURE」/クリスタルキングクルマ・ジャケコーナー第41回は、クリスタルキングの「CITY ADVENTURE」(1983)です。



「クリスタルキング」、クリキン、ご存じですか?






栗きんとん、じゃありませんよ~


男性ツインボーカルが売りの日本のロックバンドです。


1971年(昭和46年)、ムッシュ吉﨑(左のグラサンの方)を中心に九州で結成されました。

1979年の世界歌謡祭グランプリでの優秀賞受賞をきっかけに「大都会」で再デビュー。累計150万枚以上のミリオンセラーを記録!

「世界歌謡祭(World Popular Song Festival)」は、ヤマハ音楽振興会が主催し1970年から1989年まで日本武道館で開催されたポピュラーソングのコンテストです。

第10回のグランプリは、ボニー・タイラーの「哀しみのオーシャン(Sitting on the Edge of the Ocean)」と、クリスタルキングの「大都会」。

「Goobye To The Island(グッバイ・アイランド)」/Bonnie Tyler(1981)


「CRYSTAL KING」/クリスタルキング(1980)



こちらは「第14回世界歌謡祭スペシャル」(1983)というレコで、第14回~第5回のグランプリ受賞曲が収められています。



第9回「夢想花」/円 広志
第8回「あんたのバラード」/世良公則&ツイスト
第6回「時代」/中島みゆき 等が入っています。


クリキンに話を戻します。

パンチパーマとサングラスがトレードマークの低音のムッシュ吉﨑と、高音の昌之の2人の組み合わせがとても新鮮でカッコ良かった。

個人的には、演歌的な吉﨑より、和製ロバート・プラントの異名を博したハイトーンの田中(右側)ですね!


「クリスタルキング」といえば、一発屋のイメージがあります(失礼)が、、、

「大都会」に続いてリリースされた「蜃気楼」(1980)も資生堂の夏のキャンペーンソングに起用され75万枚のヒットを記録。

『蜃気楼』(1980 2ndシングル)


CMのキャッチコピーは、「輝けナツコSUN」

資生堂 非売品レコ


モデルは田中ちはる



「ザ・ベストテン」では『大都会』と『蜃気楼』で2曲連続1位を獲得してます。


『明日への旅立ち』(1980 4thシングル)



『PASSION-LADY』(1981 5thシングル)


ショートパンツがセクシー💛(笑)


『海南風』(1981)  COCA-COLAスーパー・レコード

コーラのプルタブを集めて応募し当たるともらえたレコらしいです。


『瀬戸内行進曲 (IN THE MOOD)』(1984)は、映画「瀬戸内少年野球団」の主題歌


インサートにはメンバーのこんな写真が!


『愛をとりもどせ!』」(1984)は、テレビアニメ『北斗の拳』の主題歌に起用され50万枚のセールスを記録しています。


『北斗の拳』は大好きでコミックは全巻持ってますが、アニメの方は全く知りません。(^-^;

パチスロ機『北斗の拳』で、10連チャン大当たりの曲だったそうですが、こちらも知りません~。


中島みゆきの12thアルバム「御色なおし」では、2曲の編曲と演奏を担当し、バンドとしての実力の高さをみせています。

「御色なおし」/中島みゆき(1985)


「御色なおし」はその名の通りセルフカバーアルバムで、クリスタルキングのほかに、甲斐よしひろ、センチメンタル・シティ・ロマンス、後藤次利などを起用していますね。


その後、1986年に田中昌之らが脱退。
「クリスタルキング」の名前の使用を巡る裁判沙汰などもあり、吉崎と元メンバーの関係はかなり悪いようです。
ロックバンド的ではありますが、やはり残念な感じ・・・。

現在、「クリスタルキング」はムッシュ吉﨑のソロプロジェクトのようです。


さて、今回ご紹介の「CITY ADVENTURE」/クリスタルキング(4th 1983)のクルマですが、、、


なかなか判らなかったのですが、少し前に、どこかで見た気が・・・

「スモークドガラス越しの景色」/伊勢正三(1981) のクルマに似てる・・?

も、もしかして同じクルマ・・!!??

クリキンも正やんと同じ、キャニオン所属でした~。


【登場車両】
Jaguar XJ12L Series II Sedan(1974) ?




【自己採点】
クルマ度   6点(Jaguar! ちょっと高級すぎるかナ?)
魅惑度    4点(ちょっと男が多すぎ~?)
音楽度    6点(高低ツインボーカル)
Posted at 2020/11/28 19:12:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | クルマ・ジャケ | 日記
2020年11月15日 イイね!

愛知・静岡ドライブ(3日目)

愛知・静岡ドライブ(3日目)愛知・静岡ドライブ最終日は、「高天神城址」以外はほぼノープラン。

で、朝になってスマホで「近くの観光」で調べると、、、
「犀ヶ崖」! 行き忘れた~~
9時からだしな~、今回はあきらめましょう・・。



「中田島砂丘」! コレ、おもしろそう~

ということで、来てみました。「中田島砂丘」(浜松市)

「遠州灘海浜公園」の前にありました。


東西4km・南北6kmもの広さがあり、「鳥取砂丘」や「九十九里浜」に並ぶ『日本三大砂丘』だそうです。全く知りませんでした。




アカウミガメの産卵場所だそうです。

いやあ、歩くのが大変でした。靴の中、砂だらけ~

遠州灘を眺めながら朝ごはんを食べました。


ちょっと風が寒かったけど、気持ちよかったです。


さあ、最終目的地「高天神城址(たかてんじんじょうし)」(掛川市)です。


北口駐車場に停め、搦手門から攻城です。


ここ「高天神城」は、信玄・勝頼と家康が激しい争奪戦を繰り広げた城です。


「第一次高天神城の戦い」(1574年)で、勝頼は、父・信玄でも陥とせなかった高天神城を落城させ、大いに武名を上げますが、増長し、「長篠の戦い」(1575年)での大敗を招いたという説があります。

「第二次高天神城の戦い」(1580年)では、家康の兵糧攻めに、落城します。勝頼は援軍を送れず、そのことがその後の味方が寝返りにつながったとも言われています。


「搦手門」

北側の入口。信玄に攻撃された時には250人が守備したところと伝わっています。


「三日月井戸」


「的場曲輪跡」


「大河内政局石牢道入口」

最後まで武田への降伏と開城に反対した大河内源三郎政局(まさちか)が7年間幽閉されていた石牢があります。(そこまで行きませんでした(>_<))

「本丸跡」


「元天神跡」



落城後、高天神城は廃城となり、その後も城郭として整備されることはありませんでしたが、個人によって模擬天守が建造されたことがあったようです。

「御前曲輪跡」にコンクリートの土台が残っていました。




天守跡から少し下り、南西に向かうと平場に出ます。

「かな井戸・井戸曲輪跡」


地元の(?)方々が草を刈ったり、案内板を立て直したりしてました。
こういう人たちがいなかったら、あっという間に荒れ放題になってしまうことでしょう。

ありがとうございます。

急な階段を上ると、山頂に高天神社がありました。






約290年前に「御前曲輪跡」から移築されたそうです。


「堀切跡」


駐車場で、しばし撮影タイム



さて、好天に恵まれた愛知・静岡ドライブも、あとは無事帰宅するのみです。

「高天神城址」から30分ほど走ると、目の前に茶畑が広がりました。




「牧之原大茶園」です!

静岡の茶の生産量の約40割を占める日本一の大茶園です。


お昼は、焼津漁港にあるお店で「桜えびとしらすの釜あげ丼」をいただきました。


帰路は渋滞があり、結局、ひたすら圏央道を走り、無事帰宅しました。

メモ
高速料金
1日目 \7,880
2日目 \1.380
3日目 \4,980   計 \14,240

う~ん、速旅、使った方が得だったかも・・・
システムが分かりづらすぎ~


出発前に、コロナ第3波のようになってきてしまい、「Go To」 少し悩みました・・・。

3日目(11/15)朝のTVニュース


言い訳がましいのですが、この3日間、密になる所はほとんどありませんでした。
ずっと、オープンだったし・・(^-^;

老後の楽しみ、備忘録の長文駄文ブログに最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
Posted at 2020/11/23 15:07:50 | コメント(1) | コペン | 日記
2020年11月14日 イイね!

愛知・静岡ドライブ(2日目)

愛知・静岡ドライブ(2日目)愛知・静岡ドライブの2日目です。


ホテルを出て、名古屋市内を少しドライブしました。



「那古野神社(なごやじんじゃ・なごのじんじゃ)」




織田信秀が再建(1540年)したり、秀吉が社領348石を寄進(1595年)したりした歴史があるそうです。

「名古屋東照宮」(県指定文化財)


徳川家康が祀られています。

少し走ると、、、おお~っ!


「名古屋城二之丸大手二之門」(国指定重要文化財)








掘の向こうに「名古屋城」が見えました。


徳川家康が築城し、尾張徳川家の居城でしたが、名古屋大空襲(1945年)で大部分を失いました。鉄筋コンクリートで外観復元されています。

「四間道」



名古屋城下の商人町で、元禄13年(1700年)の大火の後、防火と商業活動のため、道路幅を四間(約7メートル)に広げたので、その名前がついたといわれています。

名古屋市から岡崎市に向かいます。

途中、「熱田神宮」(名古屋市)に寄りました。
以前、家族で来たことがあるのですが、助手席の御方はまったく覚えてない、というので・・(^-^;





ここでの私的見どころは・・・

「信長塀(のぶながべい)」



織田信長が桶狭間出陣の際、ここで戦勝を祈願し、勝ったお礼に奉納した塀です。日本三大土塀の一つだそうです。


社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、1955年に再建されたもの。




三種の神器の一つ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」が、ここ熱田神宮の奥深くに神体として安置されているのだそう。

そのせいか、参道に「鬼滅の刃」の出店がありましたよ。



「桶狭間古戦場伝説地」(豊明市)にも立ち寄りました。(国指定史跡)


ボランティアの方が、詳しく話をしてくださいました。

ボランティアの方の後方に見える病院を建てた時に、たくさんの武具が発掘されたという話も聞けました。

「桶狭間の戦い」(1560年)での、今川義元の本陣の場所には諸説ありますが、ここは織田軍が奇襲に成功したとする「迂回攻撃説」の場所で、約1km離れた「桶狭間古戦場公園」(名古屋市)は「正面攻撃説」の場所とのこと。

今川軍の重臣・松井宗信の子孫が建てたとされる「桶狭弔古碑」には、信長の奇襲などについて記されてあり、桶狭間の戦いを紐解く貴重な資料ということでした。


「今川義元の墓」


ゆっくり話を聞き、見て回りたかったのですが、先を急ぎます。

お昼は、早い時間帯に、高速のPAで「名古屋どて肉みそ定食」と「名古屋コーチン親子丼」をかき込みました。


次に訪れたのは、「大樹寺(だいじゅじ・だいじゅうじ)」(岡崎市)です。
出発の前日に知った寺です。(^O^)/

一層方形二層円形の多宝塔は、国の重要文化財です。






「大樹寺」は徳川氏(松平氏)の菩提寺。

「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して命名されたと伝わる寺で、他に例が無いそう。



「桶狭間の戦い」で、義元討死の報を聞いた松平元康(家康)は、この寺で自害しようとしますが、住職から「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど、えんりえど)」の教え受け、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたそう。

家康の遺言に「位牌は三河大樹寺に祀るべきこと」とあることにより、徳川歴代将軍の等身大の位牌が安置されています。

撮影NGのため、ネット上から画像をいただきました。

5代将軍綱吉の位牌は124.0cmで、背むし男だったらしく、それゆえ、生類憐みの令を出した・・・とは、聞こえてきたガイドさんの話。

墓地の奥にある「松平歴代当主の墓」


「三門」


「三門」前には「岡崎市立大樹寺小学校」があり、学校の塀が「大樹寺の土塀」のようです。校庭の向こうも歴史ある門のように見えました。


「大樹寺」の三門を通して2kmほど離れた岡崎城が見えます。この直線上には高層建築を建てることはできないことになっているんだそうです。






その「岡崎城」(岡崎市)に着きました。(駐車料金は30分\100)
家康の生地です。




「清海堀を探索しよう2020」というイベントをやっていたので、参加してみました。


空堀の中に降りて、石垣をまじかに見ることができる体験イベントです。
(11月の土・日に開催されているようです。(\200))




ガイドの方が、石垣の種類などについて説明してくれました。


自然石をそのまま積む「自然石積み」


割った石材を積む「割石積み」
ノミ跡がわかる石もありました。




いやあ、面白かったです!


再建天守に上がりました。




「大樹寺の見つけ方」を参考に、、、


分かりますか?


この辺りですね!



この日、最後に訪れたのは、信長・家康と、武田勝頼が戦った「長篠の戦い」(1575年)の場です。


決戦地である設楽原(したらがはら )には、信長が鉄砲隊を配置したという場所に「馬防柵」が再現されてありました。




「馬防柵」に守られるスチグレ君。(笑)


「土屋昌続戦死之地」の碑がありました。


土屋昌続は、御膳担(歌会では信玄の隣に座ることを許された)であったという。
ここで、武田家の名だたる武将の多くが討死にしたんですね・・・


「新城市設楽原歴史資料館」に寄りました(「長篠城址史跡保存館」との共通券\440)。


武具や火縄銃などがたくさん展示されてありました。


もう4時近く・・・。長篠城址へも行きたいので、急いで見て回ります。

でも、こんなことはしてます。(^-^;
 
     

2日目、最後の訪問地は、「長篠城址」と「長篠城址史跡保存館」です。

「長篠城址」(新城市)(国指定史跡)




「長篠城址史跡保存館」


「血染の陣太鼓」

長篠城の籠城の際に使用されたとされる陣太鼓で、背負って命令を伝達したそうです。

「長篠の戦い」で勝頼軍に包囲され、落城間近の状況を約65km離れた岡崎城の家康へ伝えに行き、城に戻る途中、武田側につかまり、磔にされた「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」関連の展示がありました。


武田軍が本陣を置いた「医王寺」などは行けませんでした・・・


が、ホテルに入る前に、ポイントを使い、少し掘り掘り。
こんなジャンクレコをGETしましたヨ。


夕食は、居酒屋で。最初、お方様の猛反対をくらいましたが、、、

密にならない、入り口ドア外のビニル仕切りの場所に座れるということで、なんとかお許しを得ました。


・ご縁焼ぎょうざ


・三方原じゃがと焼きそば


安くて美味い、コレですよね~!
Go To クーポン\2,000分も使えました~。



いつも長文駄文のブログにお付き合いいただき、ありがとうございます。
3日目に続きます。
Posted at 2020/11/23 14:27:52 | コメント(0) | コペン | 日記
2020年11月13日 イイね!

愛知・静岡ドライブ(1日目)

愛知・静岡ドライブ(1日目)二泊三日で、愛知・静岡の主に城(址)を訪ねるドライブをしてきました。


朝、5時前に出発。



一番の目的地は、助手席のお方様が2年ほど前から「行きたい!」と騒いでいた「犬山城」(愛知県犬山市)です。

富士山が見えた頃からオープンにしました。


コンビニおにぎりを食べながら、ひたすら高速を走り、約5時間で犬山城第一駐車場に到着。

「犬山城」と一緒にスチグレ君を撮れるポジションに駐車することができました!




検温し、\550を支払って攻城です。


「現存天守12城」、「国宝5城」の一つ「犬山城」です!


「三重四階、地下二階付」というつくりで、屋根が3、床の数が4です。


「穴蔵」と呼ばれる部分から上がっていきます。ここを入ったところが地下二階と思います。


天守に入って階段を上ると、地下一階です。


天守を支える太い梁の表面は手斧(ちょうな)の削り跡がはっきりわかります。


一階です。

一階の「武者走」は敷居があり、部屋に仕切られるつくりになっています。

「石落としの間」があります。石垣より突出している「付櫓(つけやぐら)」です。

石を落とす所が見当たりませんでした。

城主のための「上段の間」の奥には「武者隠し」があります。「納戸の間」ともいうそうです。


二階です。


「武者走」で囲まれた「武具の間」で武具棚が備えられてあります。




三階です。
二階の入母屋造(いりもやづくり)の大屋根に床を作って三階としています。

「唐破風(からはふのま)の間」です。


南北に施されている唐破風は成瀬氏によって増築されたそうです。
東西には入母屋破風が施されています。



四階です。
高欄(こうらん)と廻縁(まわりえん)がまわる「望楼(ぼうろう)」となっています。


現存12天守の中で廻縁も高欄もあるのは、高知城と犬山城だけとのこと。この高欄(こうらん)が低くて怖かったです。
この回廊も成瀬氏による増築とされています。


歴代城主が紹介されてありました。

ここで簡単に歴史を振り返ってみましょう。


信長の叔父、織田信康の創建です(室町時代の天文6年(1537))。



「小牧・長久手の戦い」(天正12年(1584)秀吉vs徳川家康・織田信雄(のぶかつ))では、池田恒興に攻め落とされ、秀吉が入城。小牧山城に布陣した家康と長期間のにらみあいの後、和睦となり、犬山城は信雄に返されました。


その後、犬山城主は、秀吉の家臣、家康側の武将とめまぐるしく変わります。



江戸時代に入り、元和3年(1617)、尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領し、改良が加えられ、以後、成瀬家が幕末まで城主を務めます。



昭和10年、国宝に指定。全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。





攻城後、「針綱(はりつな)神社」や、「三光稲荷(さんこういなり)神社」を参拝し、城下町を散策しました。






「旧磯部家住宅」(国の登録有形文化財)を見学させていただきました。

間口が狭く、奥に長くなっている建物で、かまぼこ状にふくらんだ「起り(むくり)屋根」が特徴です。




ランチは「町家処 どんでん」というお店で。
こちらも間口が狭く奥に長い町家と思いました。




味噌煮込みうどんをいただきました。


食後に、城下町に残る、掘や土塁の「総構え跡」を見ようと、ふらふら歩きましたが、うまく見つからず、「ライン大橋」まで戻ってしまいました。

「ライン大橋」から見ると、木曽川のほとりの小高い山にあり、「後堅固(うしろけんご)の城」であることがよくわかります。


駐車料金は\900でした。城下町中のコインPの方が少し安く上がりますね。でも、コペンと犬山城の写真が撮れたから満足です。


次に、「小牧山城」(小牧市)を訪れました。


織田信長が美濃攻略の拠点として築城(1567年)した城です。

美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されず廃城となっているため、急造の砦に近いものとされていましたが、近年の発掘調査で、城郭を取り巻く三重の石垣や、町割が発見され、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城と考えられているそうです。

「小牧・長久手の戦い」では、家康がこの城跡を改修し本陣を置き(1584年)、犬山城の秀吉とにらみ合いを続けました。


北駐車場に停め,搦手口から攻城です。


家康の時代の土塁が良好な状態で残され、断面が見られるような場所がありました。



貝塚でこのような展示は見たことありますが、土塁は初めて!

帯曲輪にあった中学校を城外へ移転したりし,現在も発掘調査・保存に力を入れているようです。










山頂には、一個人が建設し、小牧市に寄贈したという「小牧市歴史館・小牧山城跡情報館」(\100)が建っています。


秀吉が聚楽第に築いた飛雲閣がモデルということですが、なぜなんでしょう?

立体パノラマの「小牧・長久手の戦い」がありました。


4階の展望室からは、信長や家康の気分で四方を見渡すことができます。(笑)


が、そんな気分ではなく、、、
実は、高速を降りたころから、アイドリングでカタカタカタカタ・・という異音がしてました。

小牧山城跡の駐車場でマフラーがこんな感じ。グラグラしてます・・・


大丈夫と思いましたが、お方様が許してくれません。

小牧山城攻城の後、小牧ダイハツで見てもらうと・・・

マフラー落ち。落城~

とりあえず、簡易溶接してもらいました。

\4,400也~ チ~ン
(Go To トラブルだよ~)

まあ、これでなんとかドライブを続けられる、かな?


ホテルには無事到着し、うちとしては、かなり贅沢な夕ご飯を食べました。




ポイント、大量ゲットです~。(^-^;


長文駄文のブログにお付き合いいただき、ありがとうございます。
2日目に続きます。
Posted at 2020/11/23 12:56:06 | コメント(1) | コペン | 日記

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