
助手席の御方様がどこぞで情報を得て、
「『常陸風土記の丘』のシダレザクラを見に行きたい!」と急に騒ぎ出しました。
しかし、ネット情報ではまだ一分咲き? お天気もイマイチ?
それでも「行く!!」と仰せなので、石岡市ドライブに行くことにしました。
「常陸風土記の丘」が大外れの可能性が高いので・・・
まずは
「大覚寺(だいかくじ)」(茨城県石岡市)へ。
鎌倉時代、後鳥羽天皇の皇子、「周観大覚(しゅうかんたいかく)」が開山し、後に浄土真宗の親鸞に帰依し、浄土真宗本願寺派となったとのこと。
「親鸞聖人関東教化中法難の遺跡」として有名だそうです。
山伏弁円(べんねん)が、親鸞の布教する浄土真宗により、自分の修験道場のさびれていくのを悔しく思い、板敷山に待ち伏せしたが、結局、親鸞に敬服し、自分の弟子三十人を連れて、親鸞に帰依したという伝えがあります。
「親鸞聖人説法石」
本堂内のホワイトボードには、
「親鸞聖人が茨城に来られて、今年で八百六年目となりました。皆様と共に聖人が関東に来られたご縁に感謝し、お念佛申し上げて参りましょう。 南無阿弥陀佛」
とありました。
どこからみても景色が良い「裏見無しの庭」と呼ばれる池泉回遊式の庭園。
とてもきれいなお寺でした。
そして
「常陸風土記の丘」へ。
「さくらまつり協力金」として駐車料\500をお支払い。
ソメイヨシノはほぼ満開、シダレザクラはやはりまだまだでした。
一番いい感じのところ。
満開だったらすごい感じです。
以前来たことがあるので、有料エリア(\310)はパス。
園内を歩いていると「昭和グッズ」の幟!
のぞいてみると、旧車のカタログやミニカー・・・
ん、これは!?
自分で組み立てるミニカーのようです。
\500 の値札。コレ下さいと言うと、\300でいいと。
財布の中には100円玉が2個しかなく、そう言うと、\200でいいと!
ありがとうございました!(#^.^#)
「中華ダイニング大正亭」(かすみがうら市)というお店をやってらっしゃるということで、店内はレトログッズで溢れているそうです。今度行ってみたいと思いました。
帰宅して調べると、2003年頃のDyDoのキャンペーンの当選グッズ『DyDo 徳大寺有恒が選ぶ!!俺のこだわり名車』シリーズ。全20種類あったようです。
私が手に入れたのは、「No.8 Honda S600 イエロー」。
ヨタハチもあったので買えばよかったなあ~(悔)
組み立てるかこのままとっておくか・・・(激悩)
次は
「常陸国分尼寺(ひたちこくぶんにじ)跡」(国特別史跡)へ。
741年(天平13年)、聖武天皇が各国に命じされたのが「国分僧寺(こくぶんそうじ)」と「国分尼寺」の国分寺。
「国分尼寺」の正式名称は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。
1590年、大掾(だいじょう)氏が佐竹氏に攻められた時に焼失してしまい、現在は礎石を残すのみですが、寺域、約1町半(164m)四方という広い敷地がきれいに保存されてあります。
一直線上に南大門、中門、金堂、講堂が並ぶ東大寺式伽藍配置(塔なし)。中門左右から出た回廊が金堂を囲んで講堂に接続され、その北側に建物跡があります。
「金堂跡」
「回廊跡」
「北方建物跡」
続いて
「常陸国分寺跡」(国特別史跡)へ。
常陸国分尼寺跡から南東へ約500mの位置にあります。
案内板によると、創建時の僧寺跡は、現在の国分寺と重複し、東西約270m・南北約240m。伽藍として中門・金堂・講堂を一直線上に配置し、中門左右から出た回廊が金堂に接続する形式。
正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」。
「中門跡」
ここにあった「仁王門」は1908年(明治41年)に焼失してしまったそうです。
939年(天慶2年)の平将門の乱や、1585年(天正13年)の佐竹氏・大掾氏の兵火で焼失。以後衰退し、現在は国分寺跡の遺構上に後継寺院にあたる国分寺(浄瑠璃山東方院国分寺)が建っています。
「薬師堂」
「本堂」
1910年(明治43年)、筑波四面薬師の1つを移築したものだそうです。
「講堂跡」
「旧千手院山門」(市指定文化財)
1919年(大正8年)に国分寺と合併して廃寺となった「千手院」の山門。
山門にある彫刻は、鷲が小猿をつかまえ、猿が苦悶の表情をしているもの。
『鷲は慈悲深い観音様の化身であり、猿は煩悩に身を焦がして奈落の底に転げ落ちようとしている人間を現しており、それを救済するために鷲となって助けている』との解釈があるそうです。
「七重塔の塔心礎」
寺域東にあったと推定される「七重塔」の塔心礎が境内に移され保存されています。
「都々一坊扇歌堂」(市指定文化財)
都々逸(どどいつ)の創作者、都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)がここ府中で没した(1852年)ことから、1933年に建立されたもの。
七・七・七・五が基本で「諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた」(都々逸坊扇歌)などがあります。
お昼は、「石岡イベント広場」に車を停め「むつみ食堂」で。
かつカレー(\730だったかな)
デミロースかつ丼(\830)
味噌汁、冷ややっこ、サラダ付き。とても美味しかったのですが、ボリュームたっぷりで2人とも食べきれませんでした。
感染対策厳しく、私たちしかいないとき、マスクを外していたら注意されました(そのぐらいじゃなきゃネ (;^_^A)。
「石岡の陣屋門」(県指定文化財)
江戸中期から幕末まで、この地を治めた府中松平家の陣屋の表門。
府中松平家は水戸徳川家の分家として定府(じょうふ 江戸定住)の大名であったため、領地に陣屋を置き、群奉行以下総勢20余名に民政を担わせたそうです。
現存する門は1828年(文政11年)の建築で、石岡小学校の校門に用いられた歴史もあり、何度か移築されているようです。
そして石岡小学校の敷地内にある
「石岡市立ふるさと歴史館」へ。
「第27回企画展 東大橋原遺跡 -石岡市の縄文時代-」の最終日で、企画展担当者の方がていねいに説明をしてくださいました。m(__)m
土器のくぼみの型を取り、そこに入っていたと思われる種子から、縄文人が品種改良を行っていたのでは?という仮説を検証しているそうです。
常設展示には「常陸国分寺復元模型」がありました。
奈良・平安時代には日本に約60の「国」があり、それぞれに役所「国府」があり、現在の茨城県の範囲とほぼ同じだった「常陸国」の中心は現在の石岡市にあったのです。
平成10~18年度の発掘調査により、石岡小学校の敷地内地下に国府中心部の存在が明らかになりました。
係の方のちょうど後ろあたりが「国丁正殿跡」だそうです。ていねいにご対応いただきありがとうございました。
すぐ脇には「府中城の土塁」(市史跡)や「箱式石棺」が残されてます。
大掾(だいじょう)氏の府中城は幾重にも土塁や堀を巡らし堅固な城郭でしたが、1590年(天正18年)佐竹氏に攻められ落とされ、650年続いた常陸大掾氏も滅亡しました。
そして最後に、お隣の
「常陸國總社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)」へ。
古代、国司は国内の全ての神社を一宮から順に巡拝しており、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになったそうで、ここが常陸国の総社にあたるとのこと。当初の社名は「国府の宮」。
右手の石岡小学校との境は土塁?
本殿(市指定有形文化財)
9月の例祭「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」とも称され、関東三大祭りの1つに数えられており、盛大なお祭りだそうです。
見てみたいですネ!
シダレザクラ、お天気が今一つでしたが、ほぼオープンドライブできました。
「善光寺楼門」(国有形文化財)、見逃してきました・・・(>_<)
今回のドライブやブログ作成に下記のサイトを参考にさせていただきました。
1300年の歴史の里<歴史の里石岡ロマン紀行>