2009年01月03日
実家巡りの反動で、今日は一日引きこもり。原稿を少し書いて、懸案の質問に対するお答えに集中しました。まずは、speedと目です。長いので覚悟して読んで下さい。
Posted at 2009/01/03 23:55:31 | |
トラックバック(0) | 日記
2009年01月03日
質問1の意図は、多くの人が納得できるスピードはどのあたりのレベルにあるのか。ハードとしてのクルマの性能だけで、優劣を競い合うことにノーマルな神経の持主なら限界を感じているはずです。
クルマは、ハードのシステムとして自己完結していますが、それだけでは基本的に動くことができない。動かすドライバーが加わるマン-マシン・システムとなのことで、初めて動くことが可能になります。
しかし、マン-マシン・システムだけでは、モビリティツールとしての機能を果たすことはできません。
走る道路や保管する駐車スペース、交通をコントロールする信号や標識、さらにはそれらのインフラストラクチャーを管理する法体系や一般認識としてのマナー……などがシステムとして重なり合って初めて、クルマはクルマとしての機能を発揮することができる。
そのようなインフラ全般を仮にフィールドと呼ぶことにしましょう。ようするにクルマは、『人とクルマと道路』が重なり合ったシステムにならないとクルマにならない。
私はその状態を語呂合わせも考えて、『クルマ=人・道・車…3重のシステム』と呼んでいます。誰もが知っているあたりまえの話ですが、ともするとクルマはハードとしてのメカの集合体としてのみ語られることが多いですね。
性能の指標というか尺度になっているのはspeedです。そしてスピードを得るための仕事量としてのpower(馬力)があるわけですが、ここで注目したいのが誰一人として質問に対して最高速を挙げていない、という事実です。
いっぽうでオーバー300㎞/hを実現するスーパーパワーに深い憧憬を表わしながら、現実的にはその半分以下で満足という意見が大勢を占めました。
サンプリングの数に限りがあったので断定は難しいですが、大方のイメージを描くことは可能だと思います。速度の極大化は、資源・環境・安全という自動車が背負いこんだ十字架と鋭く対立します。
何よりも、そもそも日本の法定最高速度は高速道路で100㎞/h、一般道路で60㎞/hです。その性能は、すべての軽自動車で得られるようになっている、という現実をどう捉えるか。
わたしはレース育ちの、ある意味ではスピード狂なので、速いクルマ、パワーの大きいクルマ、スピードが楽しめるクルマには目が無いタイプです。
しかし、モータースポーツを始めたタイミングが第一次石油危機の直後で、厳しい排ガス規制への対応に迫られて自動車メーカーがワークス活動から撤退するなど、社会のムードは反自動車に大きく傾いていました。
1973年のオイルショック時にはガソリンスタンドでアルバイトをしながら資金作りをしていたので、当時の大混乱を肌で覚えています。
今ほど情報化が進んでいなかったので、買い占めによる需給バランスの急変によって店から在庫が失せてしまう。
デマによってトイレットペーパーが店頭から消えた話は有名ですが、ガソリンスタンドにも客が殺到し、1台10ℓに制限せざるを得なくなりました。常連客にどれだけドヤされたことか。
実際には、中東からのタンカーは予定通り日本に向かっていて、供給不足の恐れはなかったといいます。しかし石油元売りによる便乗値上げなどもあって、市場は完全にパニック状態に陥り、ガソリン価格も結果的に暴騰してしまいました。
話が飛びましたが、fan to driveと資源/環境問題(1970年頃は公害問題や交通戦争と呼ばれた安全問題がピークを迎えていました)の両方に18歳で免許を取ってからずっと向き合わざるを得なかった。
このアンビバレントな原体験が、常にわたしの評論の核になっている。いったいスピードをどう捉えて行くのか。
法定速度を変えるのか、それとも最適効率とスピードのバランスを考えながら最適解を探すのか、はたまた徹底的に過剰性を追求して蕩尽の限りを貪るのか。
決定的だと言えるのが、公道上では現実的に使われることが稀なスピードやパワーを競い合う時代は終った。非日常的な過剰性能を備えるクルマを楽しめるのは、バーチャル空間かレーシングトラックなどのクローズドコースに限られる。
その辺はもう行き詰まって先がないドイツを中心とする欧州あたりに任せて、リアルワールドで高効率で楽しいクルマ作りに転換することが日本のサバイバルの方向性だと思うわけです。
パフォーマンスレベルは1970年頃を参考にしたい。比出力は8.5kg/ps(車重1200㎏で約140ps見当)もあれば十分。駆動方式は当然FR。スタイリングとパッケージングとハンドリングの鼎立を期待するならそれ以外の最適解はない。
近代西欧合理主義から生れたトランスアクスルFFは、そもそも2ボックスを基本に考えられたレイアウト。デザイン、スタイリング、プロポーションの自由度を考えれば、FRの選択が必然となる。
そこにスピードもデザインの範疇に入れるセンスが加われば万全といえるだろう。造形とダイナミクスの融合以外に、21世紀のクルマ作りの解はないはずだ。
当然のことながら、ここで語ろうとしているのは純ICE(内燃機関)のクルマについてです。ハイブリッドやEV、FCVを考えるなら、当然FFベースのほうが合理的だし、生産設備の再利用の面でも有効です。
これからは、どれが最高・最強・最善かという一等賞を競い合うノックダウンのトーナメント方式ではなく、それぞれにメリットもデメリットもあるパターンを網羅して、トータルで環境負荷を下げながら持続可能性を追求する時代。
どう取り繕っても、これまで通りでは立ち行かなくなると思います。高価な高級セダンや超高性能スポーツカーは成功した時の楽しみとして取っておきたい。可能性は誰にでもあるのだから、その存在を否定する愚行は避けたいですね。
いっぽうで、普及型のICE車には徹底した効率とデザインの追求から編み出される、軽量だが存在感のある商品性の創造を期待したい。
風の便りで、4気筒のFRが今年登場しそうな気配が漂ってきました。このところパワージャンキー方向に振れている企業体の仕事なので、ちょっと心配。ここでコケると次はもうないからね。
パワーに依存しなくてもfan to driveを成立させられるのがFRの最大のメリット。ここに気がつく必要があります。50対50とか、トラクション性とか、スピードに目が眩んだ20世紀型の枝葉末節に囚われないよーに。
今年は本当にお先真っ暗だけど、希望がまったくないわけではない。インサイトにプリウスにレクサスの新ハイブリッドセダン。三菱i-MiEVの市販化もある。これらに対抗し得るかどうか。
これからのICE車の評価は旧態依然とした走りのパフォーマンス=スピードだけじゃなく、それでもガソリン車が欲しいと思わせる魅力的なコンセプトを持っているかどうかに注目したいですね。
おっと、question2の答。『目』でいいと思います。drivingに必要な情報の大半は目によってもたらされます。そのことは、目をつぶった状態では5秒と続けて走らせることができないことからも分かります。
次がハンド…手ですね。ステアリングホイールを介して伝えられる『情報』がいかに多いかは、10m手離しで走らせれば分かるはずです。
目の話は、始めるとまたまた長くなるので、次の機会にしたいと思います。
「長い文章は読まないって言ってるでしょ!! 大体クルマの話はチンプンカンプンなんだから」また川崎の姉に叱られそうです。
Posted at 2009/01/03 23:50:57 | |
トラックバック(0) | 日記