B110サニーを手に入れた僕は、相当有頂天になっていた(ように思う)。プロフィールにある通り、どういうわけかストレートで大学受験に成功。滑り止めだったけれど、我が家の家系で初の大学通いということで、親父としても面目が立ったようだった。
その時はあまり考えなかったが、運の良さは高校受験から続いていた。学校は神田の本校舎通いが基本で、体育が週一回実家からそう遠くない生田。ここにはクルマで通ったような……。神田はもちろん電車通学だったが、入学当初からあまり身が入らない。
もともとがサッカーを続けたくて第一志望を関東一部リーグ(だったかな)の某大としていたのだが、これは叶わず。入った学校は詰め襟角刈りのばりばり体育会系で、それは嫌だとブラブラすることになっちゃった。
僕はどちらかというと夢見る夢男くんみたいなところがあって、サッカーには相当執着していた。高校時分には、後の日本人初のプロサッカー選手となった奥寺康彦(1FCケルン~ベルダー・ブレーメン)を擁する相工大付属(現湘南工科大)と対戦したことが自慢にならない自慢の種だ。0-5でコケ負けしたのがいい思い出になっている。
後年、CSTV局で持っていた
自動車のレギュラー番組で1時間の特番をやろうということになって、誰か呼びたいゲストはいますか? ディレクターの問いに答えたの誕生日が3日しか違わない奥寺康彦さん。現横浜FC・CEO兼GMだった。収録はあっという間に終ったと記憶している。
本当はやはり同い年の作家村上龍さんを所望したのだが、JMMを主宰して経済に興味を集中していた彼からの答えは「今はクルマに興味はない」けんもほろろだった。
時折生田にクルマで通う内に、その近くに高校の同級生がバイト勤めするガソリンスタンドに出入りするようになった。大学生活にはまったく身が入らなかった。70年安保の嵐が去った後のキャンパスには妙に温い風が吹いていた。
ノンポリだった僕が言うのも変だが、無気力の雰囲気が充満していた。大学通いで唯一覚えているのは、フランス語の教授が教室に入って来るなり言ったひとこと『三島が死んだね』何のことを言ってるの?いぶかしがったが、それが後で知る市ヶ谷の三島事件(自衛隊の市ケ谷駐屯地で三島由紀夫が割腹自殺)だった。
結局僕は2年を2回やった3年目に、学費滞納につき除籍という処分を受けた。学費は親からちゃんともらっていたはずなのにね。クルマを手にした僕は、当時伊勢原市で合宿をしながらメジャーデビューを目指していた高校の同級生YTに付いて回って、音楽の真似事をしていた。担当は4弦。完全にインチキではあるけれど、茅ヶ崎、等々力と2度ほど舞台を踏んでいる。
YTは、フォーライフに出入りしミッキー・カーチスのプロデュースでもう少しでデビューところまで行ったが、その後の社会変動の荒波に揉まれてチャンスを逸してしまった。僕はというと、やっぱり音楽は違うだろう……違和感を覚え、違う世界を模索し始めた。
生田から近いガソリンスタンドに入り浸る内に、そこでバイトをすることになった。生徒会長を務めた同級のYKが整備士の資格を取るとか言って辞めるのと入れ代わりに、僕が後釜に座った。
当時の三菱石油のスタンドを経営するオヤジさんには本当に世話になった。二人いる息子がやはり高校の同窓の先輩後輩ということもあって、アットホームな居心地の良さにレースマシンを処分し、フリーランスでやって行くことを決める78年9月まで、つかず離れずの雇用関係を続けてもらった。
75年から足かけ4年のレース活動のベースは、この多摩川沿いの小さなガソリンスタンドのガレージだった。そもそも、レースを始めようと思い立ったのもこのスタンドでの小さな出来事がきっかけなのでした。
この元売りをスポンサーとする生沢徹さんの著書『生沢徹のデッドヒート』が、三菱石油の東京支店から送られてきた。そこに描かれていた生き方にコロリとやられてしまったわけです、あの頃の僕は。
(レース参戦が叶った後に、当時のFSWの名物男Sさんの口添えもあって、その三菱石油東京支店でスポンサー契約をしてもらえることになったのだが、その契約書の原稿はなんと生沢選手のもの。こっちの金額は5万円ぽっきりと比較にならない低さだが、薄紙の契約書だけは立派だった)
有名な画家生沢朗の子息という御曹司ゆえのサクセスストーリーを己に当てはめてしまうあたりが、もうどうしようもないガキんちょではあるけれど、あの時その気になっていなければ今はない。しかし、本気でF1を目指そうと思っていたんだよ。
余談ながら、生沢さんとはその後レースリポートの仕事をするようになってから取材対象として話をする機会を得たし、何度か個別のインタビューも経験した。81年のスーパーシビックレースでは同じスターティンググリッドに並ぶという光栄にも浴した。
僕はドライバー誌のエースドライバーとして”有限シビック”(笑)を駆ってこの日本初のワンメイクシリーズに参戦していた。あるレースで、トップ10争いを繰り広げる内に、目前の生沢選手の37番と当時F2で売り出し中の坂本典正が激しくやり合い出した。危険を察知した僕はほんの少し下がった。
……と、鈴鹿の130R手前で両者が激しくサイドを打ちつけ合い、最後は腹を見せながら2台揃って130Rの藻屑となっていった。
おっと、これは1981年のところで書くべき話題でした。
それはともかく、当時最大のスタードライバー生沢徹に感化された僕は、本気でレースに打って出る準備を始めるのだった。
つづく
Posted at 2009/07/14 17:39:32 | |
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