1974年の年明けはとても重苦しいムードに包まれた。レースをやると決めて、サーキットにも通いはじめたのに、オイルショックで世の中のムードは一変してしまった。73年のGC最終戦のアクシデントは、時代の変化を象徴する出来事のように思われた。
フェアレディ240Zを含めると30台以上の出走(73年まではGCとGTSの混走)という大盛況。排ガス対策や安全問題の表面化などもあって、すでに日産、トヨタ、マツダなどのメーカーチーム(ワークス勢)はサーキットから去っていた。
高度経済成長期に盛り上がったT(トヨタ)N(日産)にプライベートチームのT(タキレーシング)が挑むTNTの時代も過去のものになっていた。富士グランチャンピオンシリーズは、メーカー主導から、経済成長の結果生れた富裕層がプライベートチームを作り、タイトルを競い合うという、新しいレースのスタイルを日本に根付かせた。
あの盛り上がりが急減速。きっかけはオイルショックであったわけだが、状況的にはサブプライムローン問題の結果として起きた昨年の金融危機の前と後によく似ている。それまでの好況を一夜の内に暗転させたリーマンブラザーズの破綻と、オイルショックをリアルな形で印象づけたGC最終戦のアクシデントは、全然タイプの異なる事象だが、それまでの活況から一気の暗転という意味で何となく重なる感じがする。
明けた74年はとにかく自粛ムードが強烈に漂った。FISCOの屋台骨を支える看板シリーズとなっていたグラチャンシリーズからも、開催を危ぶむ声が聞かれた。記憶違いかもしれないが第一戦はキャンセルとなり、
6月2日の第2戦がシーズン開幕戦となったのではなかったか。
僕はこのレースに父親を誘って出掛けた。本当なら大学を卒業して就職している時期。いまで言うフリーターの境遇でレースをやると言い出した息子を、どのような目で見ていたのだろう。僕としては、やると決めたその意志をきちんと伝えようと思ったのだと思う。誘うと、父親は何も言わずに同行を承諾した。
シビックSB1で出掛けた。グランドスタンドの最終コーナー寄り。当時はまだ立派なピット上のホスピタリティルームもなく、ストレートと同時にヘアピンコーナーが見下ろせる観戦ポイントがあった。
レースは2ヒート制で、スタートはローリング方式が採用されていた。初めてサーキットで生のレースを観ると、ほとんどの人がマシンの集団が発する轟音に魂を奪われる。
それは大音量のロックコンサートなどで経験するトランス状態と多分同じだ。
僕がサーキットに足を踏み入れたのは73年のシーズン開幕頃。すでにこのレースが行なわれたタイミングではある程度慣れていたが、18台の2Lマシンが一斉に火を入れて動き出すローリングには鳥肌の立つ思いをしていたはずである。
ただ、このレースのスタートシーンは明らかに異様だった。第1ヒート。ローリングスタートは、オフィシャルカー(確か240Z)の先導で1周。最終コーナーで240Zがピットに向かい、ポールシッターがペースメーカーとなってコントロールラインを通過するところから、レースは正式なスタートとなる。
ところが、ポールシッターのKの動きは素人目にも変だった。低速で加減速を繰り返しているのか、スピードが全然乗っていない。結果、後続は隊列を維持することができず、眼下のスタートラインを通過する頃には2列の編隊は横に広がる団子状態に崩れ去っていた。
Kは、後続に呑み込まれ順位を5、6番下げるが、何とか2位でストレートに戻ってきた。その後の2位争いは
大接戦のスペクタクルだったようだが、そこは記憶に残っていない。ただ、得も言われぬ嫌ぁな雰囲気のままチェッカーが振られた、なんだかなぁという気分を抱いたのは確かだ。
昼は何を食ったのかな。多分いつもの焼きそばだ。第2ヒートは午後2時のスタートだった。第1ヒートの混乱に不吉な予感を覚えながら、その時を迎えた。
ローリングスタートは、1周では隊列が整わずもう1周。緊張感が倍増したところで、第1ヒートを制したTのリードでレースは始まった。大音響に身が共鳴し鳥肌を立てながら隊列を見送った。次に目に飛び込んできた光景は今も瞼に焼きついている。
コントロールラインを通過して10秒足らず……それまでに見たことのない炎の塊がひとつ、ふたつ、みっつ……やがて紅蓮の炎の上にどす黒い煙が覆い被さり、事態が呑み込めた。
しばらく動くことができなかった。「見に行ってみよう」父親に促されて、現場に向かったのは事故発生からかなり経ってから。すでに完全に鎮火し、焼け焦げたマシンの残骸が点在する現場付近から人影が引き始めた頃だ。思わず息をのんだ。
『お前、これをやるのか?』その時発した父親の言葉を今でも覚えている。しかし、それに対してどう答えかはまったく覚えていない。何も答えられなかったのかもしれない。やると決めたらやる性格である。
親の立場になってみれば分かるが、子供の性分は大体掴めている。親は親としての価値観を不当に子に押しつけないほうが上手く行く。これは子から見た勝手な推測だが、多分その時父親はそう考えたのだろう。
あからさまな反対はなく、後にレース活動は実現した。そして、その結果として今の自分がある。もちろん、その間四方八方にずっと迷惑掛けっぱなしではあったけれど。
事故はモータースポーツという競技中に出来事。今では警察が介入することはほとんどなくなったが、未曾有の規模ということで刑事事件扱いとなった。Kは、業務上過失致死傷の疑いで書類送検されたが、結果的には不起訴処分で終っている。
2人の有能有望なレーサーの死は、1モータースポーツファンとして心から悔やまれたが、僕にとっては個人的に残念なことがあった。亡くなった鈴木誠一選手は、後にエンジン製作からレースサポートまで頼りにすることになる東名自動車の社長でもあった。
実家から10分の身近さもあって、チューナーとしても才能を発揮していた未来の師匠筋に薫陶を受けるのを楽しみにしていた。
その後のKとの因縁は浅からず。評価は人によって異なるが、この一件を機にKはレース界から追放の形となり、しばらく表社会から姿を消す。
その彼と偶然仕事を一緒することがあった。1978年8月に登場したトヨタ初のFF車ターセル/コルサの企画で、当時川崎市にあった多摩サーキットというダートコースでタイムトライアルをするという。そこにゲストとして現れたのがK。こっちはばっちり知っているが、彼から見ればただの小僧である。僕はこの時にはレースを一旦諦め、マシンも売り払ってライターで行く腹を括っていた。
D誌の別冊で、取材スタッフは元AS誌の面々。当時のD誌編集長が元AS編集長だった関係のつながりだった。そこで、さあタイム計測となったわけですが、何度か走った結果いずれも僕のほうが速い。「まあ、素人じゃないから……」Kは言い訳がましいことを言わなかったと記憶している。
しかし、出来上がった誌面を見て「?」。全部僕のタイムのほうが遅く書いてある(笑)。なるほど、これがマスコミか……カルチャーショックを受けた覚えがある。その後も紆余曲折があったけれど、それはまたの機会としよう。ちなみに、当時のD誌K編集長は、モータースポーツの本筋の立場からKを擁護した人で、BCG(後のBC)に活躍の場を提供した。後に知った話である。
1974年6月2日以降この年がどんな年だったか……まったく思い出せない。それくらいショッキングな出来事であり、オイルショックによる時代の変化と方向性を決定づける重大な転機だったのだろう。それでも、レース挑戦をやめようとは思わなかった。
つづく
Posted at 2009/07/16 09:24:34 | |
トラックバック(0) | 日記