2009年07月18日
プライベートでモーターレーシングに参戦すると、本当に学ぶことが多い。ライセンスの取得やドライビングのスキルアップなど、自分自身に関することはあたりまえ。別にどうということはない。
マシンの製作や部品調達のコストの管理、レースのエントリーから参戦にいたるまでの事務手続きから、サポートしてくれるメンバーの確保と彼らに対する最低限のケア。スターティンググリッドにマシンを並べるまでに、すべてを大過なく済ませておかないと、好成績などは覚束ない。
本当に一人では走れない。それを実感しつつ、サポートしてくれるチームのメンバーに気を配り、少なくないお金を細心さと大胆さを併せて管理しながら、より良い結果を求めて行く。これって、会社の経営じゃない?レースに熱くなっているときは、ただ勝ちたい一心で無茶やった感がナキニシモアラズだが、後から振り返ってそう思った。
まあ、僕の場合、裕福な御曹司レーサーの生き様に感化されて、月よりも遠いF1の世界を本気で夢見てしまったわけです。今考えるとまったくの漫画で、分別のある大人だったら絶対にしないことだというのが分かる。
若さは馬鹿さだ。否定的な意味で言うのではなく、基本的に無知で、限られた情報で猪突猛進できるのが若さの良いところ。いつの時代も変化をもたらすのは情熱溢れる若い馬鹿さ。分別で凝り固まった大人に現状を突き抜けるパワーなどない。
情報が密になりすぎた現代では、空っぽの馬鹿になるのが難しい。溢れ出るエネルギーを一点に集中することができる空っぽさがないと、小狡く要領よく立ち回る輩だらけになってしまう。
変わらなければならない時に、変われない。僕は今がまさにその時だと思っているのだが、いままでのままでいたい既得権益者が老若にかかわらず行く手を阻んでいる。
足掛け4年間のプライベート参戦で、2度大きな出費に頭を抱えた。記憶はいい加減で何年のどのレースかは忘れた。たしか本格参戦を開始した76年のフレッシュマンレース。予選で初めてフロントローに並んで、今日はいけると思った時だった。よーいドンでクラッチを繋いだが、全然加速しない。
???ズルズル後退しながら、それでもアクセルを踏み続けると、低く唸っていたエンジンがいきなり『ドンッ!』。コンロッドが折れて、エンジンブロックに大穴が開いた。経験の少ないYが施した油圧計(ブルドン管)のラインが振動とGでもって折損し、そこから大量のオイルが吹き出してピストンが焼きついたのだった。
経験のなさは僕も同じで、エンジンが吹け上がらない理由が分からず、無理やりスロットルを開け続けたことがブローアップの直接の原因だ。勝てる時に勝っておかないと、勝負運は離れて行く。勝負の世界で良く聞かれる話だが、結局フレッシュマンシリーズでは2位がベストリザルトとなった。
エントリーレースでもなんでもいいから、一度勝ち方を身体に入れておいた方がいい。いまさらながらではあるけれど、これからモータースポーツを志そうという人に僕ができる数少ないアドバイスのひとつだな。
エンジンの次はボディ。GCマイナーツーリングにステップアップしてすぐの事だったと思う。たしかJAF富士GPの後だ。スタートは定位置の10番前後だった。よーいドンッで先陣争いをしながら、1コーナーをクリアし、260Rから名物の100Rに差しかかったその時、直前のマシンがスピン。コースのど真ん中でこっち向きに止まった。
隊列はパニックで回避行動に移ったが、僕はそのマシンを『見てしまった』。こういう時は対象物から目を切らないと、意識がフリーズしてそっちに吸いよせられてしまう。よくビギナードライバーが狭い路地などで電柱が寄って来た、などと言って笑わせるが、あれはあながち嘘ではない。
レースの出費で悩ましいのは必ず付いて回る修理代だが、実はボディがいっちゃった時のほうがエンジンブローより痛い。2代目の愛機は初代よりずっと安い、ヤレが目立つボロになった。さすがに世代がひとつ古くなった中古車に出物は少なくなっていた。
あのリメイクはよくできたな。正直どうやって支払いを済ませたか分らない。GCマイナーにステップアップすると、もう1馬力でも余計にパワーが欲しくなる。ピストンは鍛造がいいと言われれば「お願いします」で10万円。コンロッドも軽量なチタンなら耐久性もいいの? 行っちゃえいっちゃえである。トップチームはさらに高回転化を目指し、バルブも軽量チタン化したが、さすがにそれには付いて行けなかった。もう、10万円が1000円くらいの感覚。完全にインフレ頭だけど、それでも勝つためには……と貪欲になっていった。
着実にGCマイナーツーリングに溶け込めるレベルに上がっていたと思う。しかし、オイルショックによる逆風は、ただでさえ資金力に乏しいプライベートアマチュアから次第にエネルギーを奪っていった。
1973年の第一次石油危機から1978年のイラン革命に端を発する第二次石油危機の間にレースを始めた者に大成した例はない。これは自虐を含む持論で、歳は下でもオイルショック前に活動を始めていた日本人初のF1レギュラードライバーNSや眼鏡を掛けたトップコンテンダーとして有力視されたWTは、暗黒の70年代を難なく乗り越え、無限の成長が信じられた1980年代にプロフェッショナルとして成功を収めて行くのだった。
78年になってもなかなか戦績は上向きにならず、出費は反比例に大きくなっていった。僕の上昇志向と、川崎の片隅で身の丈に合ったレースに満足していたチームの面々と意識のズレが生じてきてもいた。借金をする勇気が持てなかった。
ここが貧乏人の限界ということなのだろう。5位か6位でチェッカーを受けた8月のVICICのレースを最後に、僕は一旦撤収を決断する。マシンを売り払い、売り掛けの借金を精算すると65万円が戻ってきた。常識的に考えれば『良くやった』だろうが、勝負師の資質ということでは全然駄目ということになる。
後日、サーキットで先輩筋のプライベートドライバーと話をした際に「お前借金はいくらくらいあった? ないの、全然? WTはいまも1000万以上抱えてる。やる気があるから面倒見てくれる人がいる」自分に自信さえあれば、借金など怖くはない。
そこで常識に逃げるようでは駄目だよね……そういうことなのだろう。後に国内トップフォーミュラまで上り詰めたWTは、GCマイナーツーリング時代作った借金をプラスに転じさせたと聞いた。
僕にはやっぱり、今の道しかなかったのかもしれません。
Posted at 2009/07/18 18:04:50 | |
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