2009年07月22日
初渡航はヨーロッパ。海外旅行が初めてなら、飛行機に乗るのも初めてだった。いやなんのことはない、新婚旅行である。ただ、いくつかの点で普通じゃなかった。旅程で予め決まっていたのは往復の飛行機と一泊目の宿だけ。
せっかく行くのだから……英国のシルバーストーンで行なわれるヨーロッパF2選手権(ホンダがF2にカムバック。RA260-E V6搭載のラルトRH6、ドライバーはN.マンセル)とルマン24時間を取材して、多少なりとも旅費の足しにと考えた。
初めて乗るジェット旅客機。機材はたしかボーイング707、エアラインはエールフランスだった。テイクオフのBGMがビリー・ジョエルの"Honesty"だったことは、はっきりと覚えている。飛行機にはまるで不慣れだったので、最後列シートに押し込められても『まあ、そういうもんだろう』何の疑問も抱かなかった。
当時は、もう成田が開港していたけれど、飛行ルートは懐かしのアンカレッジ経由北回り。計16時間ほどは要したのではなかったか。その3年後、とあるロケで出掛けた南回り"各駅停車"は、マニラ・バンコック・カラチ・ドバイ・イスタンブール・アムステルダムと乗り継ぎ、旅程は優に30時間を超えたはずである。停まる度に機内の匂いが変わった。
パリの一泊目は、ポルトマイヨールのコンコルドラファイエット。☆☆☆☆でアメリカンタイプのシティホテルである。新婚旅行だから、着いたその日くらいはね。翌日はチェックアウトして、まずは市内で宿探し。一泊ずつ☆☆☆と☆☆の渋い宿を渡り歩いてパリをゆらゆら。
さあどうする?週末のシルバーストーンまでにはまだ間がある。もう少しパリに滞在しようかということで宿探しをすると、どうも変である。どんなちっぽけな宿を当たっても予約で満杯。不安になって覚束ない英語で尋ねてみると「アンタ知らないの? 明日からローマ法王がパリを訪れるから、まず宿はないわよ」親切そうな女宿主は言う。
フランスは敬虔な信者の多いローマンカソリックの国。ポープが訪れるとなれば全仏から花の都にやって来る。知らないもんねぇ。東京ではその頃ローマ法王がやって来るなんて情報は耳に入らない。入ったとしても、直面した状況に思いが至ったとは考えにくい。そもそんなこと考えもしなかった。今よりずっと情報の薄い時代である。
仕方なしにパリを出ることにした。どうやって? 僕はまだフリーランスでやって行こうと決めて3年目。お金もなければ信用もない。運良く、その時高校を出て銀行勤めをしたことがあるカミさんがアメックスを持っていた。タクシーをつかまえて、レンタカー屋に行っとくれ」着いた先はeuropcarという、当時の日本ではまったく知られていないレンタカーだった。
まあいいや、一番安いやつを貸して下さい。本当に小学校レベルの英語でどうやって交渉したのか。まったく覚えていないが、とにかくキーを手に入れた。タマはルノー5(サンク)。エンジンを室内まで深く進入させ、前方にミッションを置くことで変則的なFFレイアウトを成立させていた、なんともフランスらしい、またルノーらしいFF2ボックスカーだった。ラジオ? 当然付いてません。安さ優先でした。
スーツケースをトランクに押し込み、意気揚々と乗り込んで走り出した。と、しばらくして途方に暮れることになった。地図をみても、今自分がどこにいるか分らない。タクシーでビュンと連れてこられてポイと降ろされた。そりゃあ分からんでしょう。
現在位置がわからなければ、進むべき方向もわからない。動物的勘を頼って東西南北を特定しようにも、パリは同じ高さの建物が延々並ぶ。フランス語を理解できないエトランゼには途方に暮れるしかない街並みなのだ。
冷や汗だらだらで右往左往し、やっとのことでペリフェリック(パリの高速環状線)に辿り着いたのは6時間後? ナビがあたりまえの現在では考えられないアドベンチャーである。
一般にペリフェリックの内側がパリだといわれている。rueなんとかというようにすべてに名がつく市内の道はもう一通だらけ。この時悩んで学んだことが後々のために役立っている。
道路の真ん中に駐車したり、ドンドンドンと斜めに差すように停めたり、バンパーきちきちに詰めて"あれどうやって出すんだろ?"凄い光景のオンパレードだった。
ペリフェリックから一路ジュネーブを目指し、リヨンを回って行くオートルートA5(だったかな)を進むことにした。しかし日の長い6月とはいえ、時間は時間だ。少し行ったサービスエリアに入ってみると、SOFITELというちゃんとした☆☆☆級のホテルがある。即決。
翌朝早めに出て、スイスを目指した。走り出してから"ハタ"と思った。リヨンまで南下して再び北上してジュネーブを目指すオートルートを行くより、直線的に下道を行ったほうが効率が良さそうだ。こういうとき無知の決断力は潔くしかも早い。
つらつらフランスのカントリーロードを進むと、向こうに工事用の柵みたいなものが並んでいる。"国境?"だった。右側にある小さな小屋に赴くと、パスポートをチェックされスタンプをポン!!そう大きくない川に架けられた橋を渡ると今度はスイス側の税関の小屋。入国は何ともあっけなかった。
昼下がりになっていたのかな? ちょっとプランがまとまらないので、ここらでコーヒーでも飲みながら考えよう。そういえば、ジュネーブの街の記憶はあまり残っていないなあ。
ローザンヌの手前、たしかピュリィとかいうレマン湖畔の小さな町を彷徨っていると、小さなレストランが目に留まった。ここでコーヒーとクロックムッシュかなんかをつまみながら、ひと息。と、"!!" どえらいことに気がついた。お金がない。
ひょいと小さなフランス/スイス国境を越えてしまったために、両替の機会を逸していた。フランスとスイスは同じフランでも別の通貨だ。しかもその日は日曜日。頭を抱えていると、偶然というか運良く他のテーブルに英語が喋れるアリスおばさんがいた。スイスはフランス/ドイツ/イタリアの3つの言語圏に大別され、ジュネーブやローザンヌあたりはフランス語が日常語だ。
事情を話すと、「宿は決まっているの? まだ?なら、ここに泊まっちゃいなさい。私が店主に紹介してあげるから」この小さな店は、ホテルも営業する小さなホテルレストラン。名前は『oasisオアシス』だった。いまさらながらできすぎた名前である。
とても素朴で優しい人々のやっている宿で、翌日銀行に行って両替を済ませたら、もっと泊まって行けば? 結局3泊もすることになっちゃった。
そこからいろいろ行ったなあ、という話は……。
つづく
Posted at 2009/07/22 23:14:19 | |
トラックバック(0) | 日記