遠く離れた被災地の惨状は、メディアを通してしか分らない。動画にしても写真にしても、撮影したカメラマンの視点で見えるものにかぎられる。これは常日頃モーターショーなどを取材して痛感することですが、しょせん個人がカバーできるのは蟻の眼に等しく、全体を隈なく伝えることは物理的に困難と言わざるを得ません。
被災者の感動的なシーンに胸を熱くしている間にも、人知れず救いを求めている人々が数多く存在してしまう。誰を責めるわけでもなく、そのことに気づいた瞬間、震災の巨大さをあらためて思い知る。時間の経過とともに情報の質と量が増してくるに連れ、今を乗り切ることもさることながら、これから始まる難問の多さと大きさに武者震いのする思いでいっぱいになります。
震災直後から救援や募金などの活動に積極的に動き回る知人をはじめとする多くの人々の奮闘ぶりを見るにつけ、翻って俺は何もできないな……忸怩たる思いのまま9日間は流れるように過ぎ去ってしまいました。
あらためて報道というものの難しさを痛感しています。真実を伝える前に、スポンサーシップやらしがらみやらがあって、個人レベルでは問題を感じることがあっても、所属するソサイエティの一員としてはその価値観に従わざるを得ないということなのだろうか。
御用なんとかと呼ばれてしまう存在はどこにでもいるけれど、厚顔無恥をTV画面で観るにつけ、つくづくなんとか村の人にはなりたくないと思う。孤立感を覚えるのは日常茶飯事だけど、多くの読者に支えられている実感は誰よりも深くあります。
阪神大震災の時にも、思いは現場に馳せたけれど、ついに足を運ぶことはなかった。行けば何かできたかもしれないけれど、何ができるか思いあたるところがなかった。今回は現地に飛ぶ衝動にかられながら自制している。
時代を変える大事件。東北関東大震災は、後の歴史にそう位置づけられるのは間違いない。できれば、その現実を自分なりに後世に伝えてみたい。八戸・蕪島、宮古・浄土ヶ浜、松島、女川……。取材で巡ったことのある海辺の景色の現実をこの目で確かめたい。落ち着いたら。
世界中が注目するフクシマの現実についてはやはり
大前研一さんの動画がなによりも説得力がありますね。TVニュースが報じるライブパフォーマンスに一喜一憂するのではなく、これから確実に浮上する大きな問題を鮮やかに切り取っている。
政府や東電には原子力の真のプロがいないことを知って、ことの推移に納得。内向き志向でドタバタやっている間に、世界から相手にされなくなりつつある。日常あちこちに散見できる、しがらみでがんじがらめの"ムラ社会"で小さくまとまろうとする体質が問われている。
ウォーキングルートにある近所のドラッグストアに寄ってみたら、トイレットペーパーやら何やら本当に品切れ状態になっていた。そういえば、上海の友人とメッセンジャーで話したら、突拍子もない事態が起こっているという。上海ではフクシマの原発の模様がニュースで報じられると人々が『塩』の買い占めに殺到し、あっという間に10倍の高値になってしまったというのです。
塩は海水から作られる、その海が放射能で汚染されたら塩が作れなくなる……デマが生んだパニックの類だとは思いますが、そのくらいフクシマは今世界の注目を集めているということです。情報を出し渋る政府も東電も、いったい何を守ろうとしているのでしょうか?
Posted at 2011/03/20 02:33:54 | |
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