
人生は出会いという。人は誰でも生涯を決定づけるmentorと呼べる人と、少なくとも一度は遭遇するのではないだろうか。それと気づかず、全然異なる結果となっていることを含め、世の幸不幸は人が人と出会うところから始まるようだ。
もちろん、僕にもそういう人がいた。あれはたしか21歳の頃だった。川崎市の北部に中野島というJR南武線の駅が最寄りの町がある。多摩川の堰堤沿いを行く市道のガソリンスタンド(GS)でアルバイトを始めた。すでに2年生を2度やった大学はドロップアウトしていた。70年安保後の無気力の風が充満したキャンパスになじめず、音楽を志す高校の同級生のバンドに加わったりしながら、今でいう自分探しをしていた。音楽ではないな……やってみて悟った僕は、やはり高校の同級のヨコヤマの伝を頼ってそのGSに通いつめるようになった。そこで手にすることになった一冊の本がここに至るきっかけとなったわけだが、話が長くなるのでまたの機会にしよう。
その人はGSのお客さんとして現れた。時折講読していた雑誌の編集者で、もらった名刺には編集部キャップとあった。10歳年長であることを知ったのはずっと後の話。その頃僕はすでにレースに挑戦すると決めていて、23歳だった1975年秋にデビュー戦を迎えるのだが、GSのガレージが"チーム"の拠点となっていた。マシンを製作している姿が目に留まったのか、その人はちょくちょく店に姿を現すようになった。
「ウチでバイトしてみない?」ある時、そんな誘いを受けた。GSのバイトにバイトを持ちかける。言う方も言う方だが、乗ってしまう僕も僕である。何度か取材に同行したと思う。レース挑戦は順調とは言えなかったが、それなりのリザルトには恵まれた。ただ、資金的な限界は当然の結果をもたらした。足掛け4年25戦。77年のJAF富士GPマイナーツーリング3位表彰台はニュースになったが、振り返ればあそこがピークだった。ただ、ニュースはニュースで、その人の見る目を変える効果はあったのかもしれない。
「これからは必ずフリーランス(ライター)の時代になる。ウチでやってみないか?」思わぬ提案を聞いたのは、レース続行に困難を感じていた頃だったか。それまで文章など一行も書いたことはなかった。それでもやってみようと思ったのは、その人への信頼が根底にあったからだろう。運転には自信があり、バイトを始めた当初から運輸省・工業技術院の村山テストコースでテスターとして重用されたりもした。
しかし、ライター稼業は走ってナンボではなく、一文字何円の文章勝負。往時を知る編集者(もうほとんどがリタイアしたが)は誰一人として、締め切りを守れず、何度も原稿を落としたことがある僕がここまでサバイバルするとは思わなかったはずである。フリーライターでやって行く。腹を決めた1978年9月から33年、曲がりなりにもやってこれたのは、時代のおかげ、皆さんのおかげということに尽きると思うが、何よりもチャンスを与えてくれたその人の唆(そそのか)しがあったればこそと思っている。
フリーランスで行くと決めてからはほとんど一緒に仕事をすることはなくなった。後に二輪誌の編集長や営業部長を歴任し、その出版社初の新卒という生え抜きとして専務取締役まで登り詰めたが、仕事面で僕に口利きをすることは一切なかった。フリーは自力で何とかするもの。言外にそのことを示してくれたのだろう。低空飛行が続いた時は恨めしくも思ったが、だからこそこの才能でここまでサバイバルできたのだと、今は振り返ることが出来る。
フリーランスになった翌々年の1980年5月、僕は結婚することになった。今から思うと、本当に無謀な話という他はない。やる気だけはあったということだろうが、それはともかくその人に仲人のお願いをしに行った。さすがに業界に引っ張り込んだという責任を感じるところがあったのだろう。生涯唯一の"大役"を渋々ながら受け。「これが最初で最後だ」その時彼はまだ38歳だったことになる。
30年という時の流れは、経験してみないと分からない。人間は忘れ行く動物。すべてを記憶することは不可能だが、その質量というか重みは身体全体のメモリーに刻まれている。出会いは必ず別れを生む。失った時に、あらためてその出会いの意味をかみしめることになる。さようならだけが人生だ。そういうことなのだろうか……。
石居崇範さん 享年68 ここまで連れてきて下さり、本当にありがとうございました。心の底からご冥福をお祈りいたします。
Posted at 2011/05/02 12:20:56 | |
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