
盛岡の土曜の夜は、けっこうな賑わいを見せていた。ホテルから間近の大通りという繁華街をパトロールしたら"がんばろう東北"の幟がはためく下を若者が元気よく気勢を上げている。震災どこ吹く風といった感じだが、前を歩く地元ではないような青年二人が「被災地と全然違う」ボソッと呟いた。
朝6時半に起き、なるべく早く出立を試みるもブログやメールやツイッターをチェックしているともう9時。宮古までどれくらい? 駐車場の青年に尋ねると日曜は空いているはずですが、2時間以上はかかるのでは? 僕はまだ被災地に足を運んでません。国道106号線はなるほど空いていたが、2時間近を所要した。
宮古市内に差しかかっても、ほとんど傷んでいる感じがしない。土地勘なく、街のレイアウトも頭にないので、まず目に入ったものから判断することになるわけだが、港の間際まで来て浄土ヶ浜に向かおうと港内をまたぐ高架道路を進むと国道45号線と宮古市内の表示が。左に折れて市街地に入ると、人気が失せた町並みが。建物は形を残しているものか多いが、どこにも解体OKの文字がスプレーで書かれている。
これか……思いながら、浄土ヶ浜に向かう。7年前プリウスの連載企画で訪れた。あの時は下の娘も一緒だった。まあ、思い出をたどるという何か理由がないと、広範に及ぶ被災地のどこに行こうか迷ってしまう。浄土ヶ浜のアプローチは海に迫った小高い山に進み、頂上付近にある駐車場から徒歩で下る。途中浄土ヶ浜大橋まで進むと何台もクルマ停まって景色を眺めている。何だろ? 少し先のスペースにクルマを停めて眺めてみると、海も島も平然とあったが、眼下の海岸の遊歩道の橋桁が落ちていた。
道路の反対側に行って思わず息を呑んだ。手前のお寺とお墓はほとんどそのままだが、その下に広がる広大なスペースは言葉を失う瓦礫の山。これだったのか! !まずは浄土ヶ浜の状態を見に行ったが、管理人から聞いた現状はかなり深刻。確認に行くと、島の景観は壊れていないが、海岸の破壊はかなりものも。レストハウスも、売店もトイレも、遊歩道の舗装も復旧のめどがたたないほど。
浄土ヶ浜を後にして、眼下に臨んだ瓦礫の街にクルマを進めると、言葉を失う光景がそこにあった。何事も第一印象がその後の判断を左右するが、最初に宮古市内に入って見た案外壊れていない感は、まったく見当違いだと悟った。ここだけではなく、対岸にあたる地域もひどかった。
宮古はまだましなほう、駐車場のおじさんの言葉を半信半疑に南に進むと、納得せざるを得なかった。山田町や大槌といった知名度の低い町は根こそぎ状態。さらに進むと、沿岸部はほとんど壊滅しており、釜石、陸前高田、気仙沼という比較的大きな街もほぼ完全に平らげられていた。釜石あたりで日没を迎え、陸前高田と気仙沼は月明かりのみの暗闇にまみれてしまった。いま引き換えしてあらためて確認しようか迷っているが、23時にやっとたどり着いた仙台の状況も気になる。
さらに福島、茨城、千葉……震災と津波の全貌を蟻の目の個人で掴むのは容易ではなさそうだ。震災直後では混乱を究めここまでじっくり状況を見ることはかなわなかったと思う。2ヶ月も過ぎたのに、津波被災地はやっと瓦礫を集めただけ、その処分はまだまだこれからの話であり、その堆く積まれた量を見るとまだまだゴールは遠いと思わざるを得ない。
9年前の1月、デトロイトショー取材についでにNYに立ち寄り、2001年9月11日に崩壊したWTCビルの跡地に足を運んだ。すでに4ヶ月を過ぎていたが、現場はまだ事件の雰囲気を濃厚に残していた。WTCは、ニューヨーク・マンハッタンのごく一角のスペースでしかない。それを考えると、今回の津波被災地は圧倒的に広範囲で、失われた生活の規模は桁違いに大きい。
こういう表現は不適切かもしれないが、現在発表されている死者・行方不明者合計2万5千人ほどという数字は本当なのだろうか。岩手県の被災沿岸部だけをみても、とてもそんな数で済むとは思えない。同じ街でもわずかの違いで津波を免れたところもあった。被災者と直接被害を受けなかった非被災者では、距離に関係なく決定的な認識の差が生まれているように思う。
現状を見てしまった以上、さらに積極的に支援の行動を移さなければならない。延長料金を払って宿のチェックアウトを遅らせて、ここまでの胸中を整理しました。仙台沿岸部を見てきます。
Posted at 2011/05/16 11:00:26 | |
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