この旅で2度目のパリ滞在。最初のパリ脱出に戸惑った教訓から、この時は何度も市内を走り回って道を覚えようとした記憶がある。最終的にはレンタカーオフィスにクルマを戻さなければならないからね。もう、当然下見は済ませ、パリを苦手にしないように心掛けた。
パリは、19世紀に時のセーヌ県知事オスマンによって現在の原型が作られたといわれる。凱旋門やいくつかの広場から放射状に広がる大通を走らせ、ルーブルや新オペラ座などを建設。上下水道を整備し、街の景観を保つために建物に高さ制限を加えるなど、世界中からこの街に憧れる人々を引き寄せる礎を作った。
しかし、地の果てからきたエトランゼにはなかなか厳しい町だぞ。rueなんとかとすべての通りに名前の付く街路はほとんどが一方通行で、全体像を呑み込んでいないとすぐにパニックに陥ってしまう。建物の高さは一定に制限されているから、目標物はかぎられる。
ペリフェリックの内側は東京の山手線の内側よりも広いから難儀だ。エッフェル塔にモンパルナスタワーにポルトマイヨールのコンコルドラファイエット。突き抜けて高い目印は本当にかぎられるから、もうひたすら入って覚えるしかない。
そういえば、パリのシャンゼリゼ通りの歩道を歩いていると、日本語で声をかけられた。何かな?聞いてみると、彼女は日本人、旦那はポルトガル人で来日経験もある。今はパリ在住で、キャディラックを乗り回している。何者達かよく分からないが、異国の街角で日本語に声を掛けられると、妙に嬉しくなるもの。多少は油断もあったかな。
それはともかく、この時呆れたのは通りすがりのパリジャンの行動である。まあ歩道の真ん中で立ち話をしているこちらに非がないとはいえないが、話しているそのど真ん中を「パルドン」と一声掛けて突っ切って行った。ポルトガル旦那は「あれがフランス人。大嫌い」と眉をひそめた。人を避けるよりも自分の進んできたルートの延長線上を行くのが当然と考える偏屈さ。
この変な夫婦(人のことは言えないが)とは妙にウマが合って、後で夕食でもということになった。レストランのメモをもらって、約束の時間に行くと、少し遅れて彼らがやってきた。中華だったと思うが、何を食したかは覚えていない。すべて彼らにお任せで、まずまずだったと思う。
食事の後、「俺のキャディラックでドライブしよう」と誘われた。まあ、面白そうだし信用できるだろうということで同意した。本当にキャディラックだった。80年当時でもパリでアメ車は浮くほど珍しかった。でかい図体で狭い路地を行くと「フランス人殺すぅ~~」とかいいながらポルトガル旦那は一人盛り上がった。
行く先は?尋ねるとプローニュの森に連れて行って上げる。「???」意味が分らないので、どうぞどうぞよろしく。行くと、なるほどそういうことなの?という光景が広がった。昼間のブローニュの森は人々が散策に訪れる健全森だが、夜の顔は一変する。
歩道にずらりと並ぶ毛皮の美形がハラリと前をはだけるとオカマちゃんだった。車道には多くのクルマが並び、あれやこれや交渉する。奥に進んで行くと、立っている女たちの肌の色が濃くなり、雰囲気はどんどんディープになって行く。街娼の見本市なのだ。
キャディラックツアーがなかったら、たぶん生涯そのような光景が広がっていることを知らずに終っただろう。リスクは当然考えなければいけないが、何事もpositiveに接すれば、答えもポジティブになる。人にはあまり強く薦められないが、僕の基本的な行動パターンの原型はここら辺にもあるのかもしれない。
ルマンに向かったのは木曜日だったか。僕のルマン原体験は、71年に公開された(日本では72年)スティーブ・マックィーンの
『栄光のルマン』である。20歳の時(72年)、高校の同級生のグループに加わってバンドの真似事をしたことは以前に書いた。
その時バイトをしていたのが伊勢原の神奈中ボウル内にあったアートコーヒー。この店を半年ほど任されてコーヒー煎れから、カレー・スパゲッティ調理まで切り盛りしたことがあった。たしか、そのコーヒー会社が映画のスポンサーで、招待券が手に入った。
今思いついたのだが、この映画を観たことがレースに傾倒する第一歩だったのかもしれない。ポルシェ911に痺れ、いつかは……と思ったのも、映画の導入部分に颯爽と滑り込む911(タルガトップだったっけ?)とマックィーンのかっこ良さに原因が求められる。
80年のルマン24時間レースに立ち会ったのは間違いない。しかし、どうやってパリからアプローチしたのか。ルノー5で行ったのは確かだ。この頃のルマンは、まだ偉大なる草レースの雰囲気が残っていて、牧歌的な味わいがしたものだが、観客数はそれなりのものがあった。当然、ルマン市内や近郊の宿は予約で埋まっていた。
まずは目的地のサルテサーキットに行き、主催者のACOのオフィスにクレデンシャルをもらいに行ったはずだ。二人分問題なく手に入れて、さあ宿探しだ。彷徨いましたねぇ。たまたま日本ダンロップのベースとなっているホテルを発見(幟がたくさん掲げられていた)して、TSサニー時代から知っていた当時のダンロップの"顔"京極(正明)さん=故人=におそるおそる「この宿空いてませんかねぇ」聞くと「ここは無理や。幸運を祈る」ま、そりゃそうだ。
日が暮れるのが遅い6月のフランスに夜の帳が迫る頃、手当たり次第にホテルのフロントに掛け合ったと思う。そんなのなか、ルマンの駅の近くにあった『HOTEL MODERN』のレセプションに手を合わせるようにして「一晩空いてませんか?」尋ねると、「ちょっと待って……」予約リストをめくった、次の瞬間の画像が脳裏に焼きついている。
リストからタグを一枚外して「どうぞ」この時の嬉しさは、ホテル絡みでは生涯の3本の指に入る。後に、今やモータースポーツジャーリズム界の大御所になっているAKさん(彼のことはキャリアの長さからずっと先輩だと思っていたのだが、後年同級生であることを知って妙な感慨を覚えている)にそのことを話すと、「あのホテルは飯の旨さで有名なルマンきっての良いホテルだよ」聞いて、過ぎた話ながら嬉しさも一入となった。
☆☆☆でそんなに宿代は高くない。絶望的と思っていたところに降って湧いたような話に、思わず宿代以上の夕食代を弾んだ記憶が残っている。
ルマン・サルテサーキットでは、飛行場を背にしただだっ広い駐車スペースにルノー5を停めた覚えがある。その頃はトリビューンと呼ばれたピットの対岸にある高いスタンド席の天辺にプレスルームがあった。表には大学の講堂の机のような記者席が何列もあって、そこでレースチャートなどをつけていると、時間ごとに坊やが経過表を配りに来る。
80年は、日本からは童夢のRL80、童夢とトムスのコラボによる童夢トトヨタ・セリカと生沢徹選手がステアリングを握る伊太利屋ポルシェ935が出場したのかな。童夢セリカは予選落ち、生沢ポルシェは仮眠をとって朝起きるとすでにサーキットから姿を消していた。童夢RL80は序盤からトラブルに悩まされ、完走扱いにはなったが下位に低迷したはずである。
この季節のヨーロッパは、日が暮れるのが遅く夜明けがとても早い。朝起きてもまだレースが続いている。あたりまえの話だが、24時間レース初体験は未舗装の駐車場の草の匂いとともに記憶の片隅に鮮明に残っている。
そういえばフランスでは何を食べたんだろう。パリの街角でお気に入りとなったのはクロックムッシュ。パンにチーズとハムを挟んで、バターを塗ったフライパンで焼いたトーストのような食べ物だ。エスカルゴも試したな。スイスに向かう途中では、まったく読めないフランス語のメニューを適当に指さし、言葉に詰まる経験もした。
ルマンのサーキット内では、食べ物スタンドでジャンボン(jambon)と書いてあるフランスパンにハムとチーズを挟んだ簡単なサンドウィッチがお気に入りとなった。もっともそれにもまして気に入ったのは、プレス席のトリビューンの階下にあるラウンジで供されたご馳走やお酒の数々。その内容たるや、この時の3週間に及ぶ旅の中でもベストといえるほど豪勢なものだった。欧米におけるプレスの存在をまざまざと知った、これが原体験だった。
つづく
Posted at 2009/07/27 17:28:43 | |
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