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伏木悦郎のブログ一覧

2009年07月26日 イイね!

『初渡航で5000km』 ドライビングスキルは外国語力に匹敵するのだの巻 その⑥

この旅で2度目のパリ滞在。最初のパリ脱出に戸惑った教訓から、この時は何度も市内を走り回って道を覚えようとした記憶がある。最終的にはレンタカーオフィスにクルマを戻さなければならないからね。もう、当然下見は済ませ、パリを苦手にしないように心掛けた。

パリは、19世紀に時のセーヌ県知事オスマンによって現在の原型が作られたといわれる。凱旋門やいくつかの広場から放射状に広がる大通を走らせ、ルーブルや新オペラ座などを建設。上下水道を整備し、街の景観を保つために建物に高さ制限を加えるなど、世界中からこの街に憧れる人々を引き寄せる礎を作った。

しかし、地の果てからきたエトランゼにはなかなか厳しい町だぞ。rueなんとかとすべての通りに名前の付く街路はほとんどが一方通行で、全体像を呑み込んでいないとすぐにパニックに陥ってしまう。建物の高さは一定に制限されているから、目標物はかぎられる。

ペリフェリックの内側は東京の山手線の内側よりも広いから難儀だ。エッフェル塔にモンパルナスタワーにポルトマイヨールのコンコルドラファイエット。突き抜けて高い目印は本当にかぎられるから、もうひたすら入って覚えるしかない。

そういえば、パリのシャンゼリゼ通りの歩道を歩いていると、日本語で声をかけられた。何かな?聞いてみると、彼女は日本人、旦那はポルトガル人で来日経験もある。今はパリ在住で、キャディラックを乗り回している。何者達かよく分からないが、異国の街角で日本語に声を掛けられると、妙に嬉しくなるもの。多少は油断もあったかな。

それはともかく、この時呆れたのは通りすがりのパリジャンの行動である。まあ歩道の真ん中で立ち話をしているこちらに非がないとはいえないが、話しているそのど真ん中を「パルドン」と一声掛けて突っ切って行った。ポルトガル旦那は「あれがフランス人。大嫌い」と眉をひそめた。人を避けるよりも自分の進んできたルートの延長線上を行くのが当然と考える偏屈さ。

この変な夫婦(人のことは言えないが)とは妙にウマが合って、後で夕食でもということになった。レストランのメモをもらって、約束の時間に行くと、少し遅れて彼らがやってきた。中華だったと思うが、何を食したかは覚えていない。すべて彼らにお任せで、まずまずだったと思う。

食事の後、「俺のキャディラックでドライブしよう」と誘われた。まあ、面白そうだし信用できるだろうということで同意した。本当にキャディラックだった。80年当時でもパリでアメ車は浮くほど珍しかった。でかい図体で狭い路地を行くと「フランス人殺すぅ~~」とかいいながらポルトガル旦那は一人盛り上がった。

行く先は?尋ねるとプローニュの森に連れて行って上げる。「???」意味が分らないので、どうぞどうぞよろしく。行くと、なるほどそういうことなの?という光景が広がった。昼間のブローニュの森は人々が散策に訪れる健全森だが、夜の顔は一変する。

歩道にずらりと並ぶ毛皮の美形がハラリと前をはだけるとオカマちゃんだった。車道には多くのクルマが並び、あれやこれや交渉する。奥に進んで行くと、立っている女たちの肌の色が濃くなり、雰囲気はどんどんディープになって行く。街娼の見本市なのだ。

キャディラックツアーがなかったら、たぶん生涯そのような光景が広がっていることを知らずに終っただろう。リスクは当然考えなければいけないが、何事もpositiveに接すれば、答えもポジティブになる。人にはあまり強く薦められないが、僕の基本的な行動パターンの原型はここら辺にもあるのかもしれない。

ルマンに向かったのは木曜日だったか。僕のルマン原体験は、71年に公開された(日本では72年)スティーブ・マックィーンの『栄光のルマン』である。20歳の時(72年)、高校の同級生のグループに加わってバンドの真似事をしたことは以前に書いた。

その時バイトをしていたのが伊勢原の神奈中ボウル内にあったアートコーヒー。この店を半年ほど任されてコーヒー煎れから、カレー・スパゲッティ調理まで切り盛りしたことがあった。たしか、そのコーヒー会社が映画のスポンサーで、招待券が手に入った。

今思いついたのだが、この映画を観たことがレースに傾倒する第一歩だったのかもしれない。ポルシェ911に痺れ、いつかは……と思ったのも、映画の導入部分に颯爽と滑り込む911(タルガトップだったっけ?)とマックィーンのかっこ良さに原因が求められる。

80年のルマン24時間レースに立ち会ったのは間違いない。しかし、どうやってパリからアプローチしたのか。ルノー5で行ったのは確かだ。この頃のルマンは、まだ偉大なる草レースの雰囲気が残っていて、牧歌的な味わいがしたものだが、観客数はそれなりのものがあった。当然、ルマン市内や近郊の宿は予約で埋まっていた。

まずは目的地のサルテサーキットに行き、主催者のACOのオフィスにクレデンシャルをもらいに行ったはずだ。二人分問題なく手に入れて、さあ宿探しだ。彷徨いましたねぇ。たまたま日本ダンロップのベースとなっているホテルを発見(幟がたくさん掲げられていた)して、TSサニー時代から知っていた当時のダンロップの"顔"京極(正明)さん=故人=におそるおそる「この宿空いてませんかねぇ」聞くと「ここは無理や。幸運を祈る」ま、そりゃそうだ。

日が暮れるのが遅い6月のフランスに夜の帳が迫る頃、手当たり次第にホテルのフロントに掛け合ったと思う。そんなのなか、ルマンの駅の近くにあった『HOTEL MODERN』のレセプションに手を合わせるようにして「一晩空いてませんか?」尋ねると、「ちょっと待って……」予約リストをめくった、次の瞬間の画像が脳裏に焼きついている。

リストからタグを一枚外して「どうぞ」この時の嬉しさは、ホテル絡みでは生涯の3本の指に入る。後に、今やモータースポーツジャーリズム界の大御所になっているAKさん(彼のことはキャリアの長さからずっと先輩だと思っていたのだが、後年同級生であることを知って妙な感慨を覚えている)にそのことを話すと、「あのホテルは飯の旨さで有名なルマンきっての良いホテルだよ」聞いて、過ぎた話ながら嬉しさも一入となった。

☆☆☆でそんなに宿代は高くない。絶望的と思っていたところに降って湧いたような話に、思わず宿代以上の夕食代を弾んだ記憶が残っている。

ルマン・サルテサーキットでは、飛行場を背にしただだっ広い駐車スペースにルノー5を停めた覚えがある。その頃はトリビューンと呼ばれたピットの対岸にある高いスタンド席の天辺にプレスルームがあった。表には大学の講堂の机のような記者席が何列もあって、そこでレースチャートなどをつけていると、時間ごとに坊やが経過表を配りに来る。

80年は、日本からは童夢のRL80、童夢とトムスのコラボによる童夢トトヨタ・セリカと生沢徹選手がステアリングを握る伊太利屋ポルシェ935が出場したのかな。童夢セリカは予選落ち、生沢ポルシェは仮眠をとって朝起きるとすでにサーキットから姿を消していた。童夢RL80は序盤からトラブルに悩まされ、完走扱いにはなったが下位に低迷したはずである。

この季節のヨーロッパは、日が暮れるのが遅く夜明けがとても早い。朝起きてもまだレースが続いている。あたりまえの話だが、24時間レース初体験は未舗装の駐車場の草の匂いとともに記憶の片隅に鮮明に残っている。

そういえばフランスでは何を食べたんだろう。パリの街角でお気に入りとなったのはクロックムッシュ。パンにチーズとハムを挟んで、バターを塗ったフライパンで焼いたトーストのような食べ物だ。エスカルゴも試したな。スイスに向かう途中では、まったく読めないフランス語のメニューを適当に指さし、言葉に詰まる経験もした。

ルマンのサーキット内では、食べ物スタンドでジャンボン(jambon)と書いてあるフランスパンにハムとチーズを挟んだ簡単なサンドウィッチがお気に入りとなった。もっともそれにもまして気に入ったのは、プレス席のトリビューンの階下にあるラウンジで供されたご馳走やお酒の数々。その内容たるや、この時の3週間に及ぶ旅の中でもベストといえるほど豪勢なものだった。欧米におけるプレスの存在をまざまざと知った、これが原体験だった。

つづく
Posted at 2009/07/27 17:28:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月25日 イイね!

『初渡航で5000km』 ドライビングスキルは外国語力に匹敵するのだの巻 その⑤

この時はちゃんとシルバーストンまで取材に出掛けた。土曜の朝ロンドンを発って、とにかく現地に辿り着いた。たしかプレスの申請を東京からD誌編集部によって手配してもらっていた。

まったくの処女地、ほとんど当てもなく、ただ動物的勘だけで二人分のプレスパスを手に入れた。今考えても、我ながら良くやった……である。パドックをピットに向かって歩いて行くと、いきなり生沢(徹)さんに出会って「トシオを見かけなかった?」と声をかけられた。

んな、初めてのサーキットで右も左もわかりません。トシオとは、前年(79年)に始まった日本F3の初代チャンピオンに輝いた鈴木利男のこと。才能を見込まれて、マーチのワークスカーが与えられ、本場の英国F3に挑戦することになっていた。

残念ながらこの年のマーチ803は前年の793よりも遅いという不出来で、目立った成績は残せなかったのではなかったかな。前年ぐらいからレースリポートの仕事も始めていたので、案外その辺の事情には明るかった。

あの時若くて(24歳)輝いていたトシオ君が、その後紆余曲折を経てGT-R開発のお抱えドライバーになっている。F1に一番近かったのに、38歳になっていた1993年に日本とオーストラリアの2戦だけラルースF1で走ったのみ。人のことは言える立場でもないが、人生とは本当にままならぬものだと思う。

本題だったホンダF2のことはあまり覚えていない。この時は当然、チーム監督のような立場にいた川本信彦 元ホンダ社長とは面識もない頃だ。ドライバーのナイジェル・マンセルもまだ無名の新人時代である。

ラルトRH6のデビューレースは、このレースのひとつ前のフランス・ポーだと記憶するが、ここでの戦績は予選14位、決勝11位。あまり売り物になるレースリポートの内容ではなかった。しかし、このF2での経験が、やがて1.5Lターボ時代の快進撃の礎になるのだった。

僕は1985年まで、レース取材を熱心に続けている。またしても85年だが、モータースポーツ記者会の個人会員としてそれなりに頑張ったほうだと思う。週末は大体出張だった。こりゃ駄目だとちょっと一線を引こうと思った理由については、その年の話としてすることになるだろう。

ロンドンからの帰りも、ケーキ職人の彼が見送ってくれたのではなかったか?いや、途中までだったか。ドーバーの近くでブランチのような食事をして、イギリスの朝飯は悪くないことを知った。たまたま寄ったレストランが良かったのかもしれないが。

帰りのフェリーは当然来る時に乗ったブローニュ行きだと思っていた。ところが、港に着いて乗り場に行くとカレー行きであるという。ま、来るときに買った切符で乗れるというのでそのままチェックインすることにした。

多分帰路のドーバー海峡は、物凄く深い感慨を覚えたはずだが、胸の片隅がチクリとすることもない。もう一遍乗ってみますか。カレーの景色は当然のことながらブローニュとは違った。下船して、少し行くと、オートルートまでは少し北上しないとアクセスできない。地図を見るとカレーから下道だけどパリまで続く道がある。

今なら、絶対にオートルートへの迂回路を行くが、まだ勢いのある20代である。深く考えもせず距離の少し短いルートを行くことにしてしまった。遠いんだよね下道は。普通に考えて高速道路の倍は時間が掛かる。ペースの速いオートルートと、同じくけっこうなスピードで流れるカントリーロード。それでもやはり下道は下道だった。

どんどん時間が過ぎて行き、挙げ句にガソリンが底を突いてきた。6月始めのヨーロッパの日は長い。10時過ぎまでは明るいのだ。それでいい気になっていると痛い目をみる。ふと見ると燃料計の針がEにへばりつこうとしている。

途中閉店間際のGSに飛び込んで頭を下げてガソリンを入れてもらったりしながらひたすら走り続けると、パリに着く頃には午前零時近くになっていた。夜の遅いパリでもその時間でチェックインできる手頃な宿は見つからない。三つ星以下のクラスはほとんど明かりが消えていた。

ままよと飛び込んだのが、今でもフランスのホテルといえばメリディアンと思うル・メリディアン。エールフランスと関係が深かったのかな当時は。眠い目をこすりながらレセプションに行くと、OKである。予定外の出費だが、まあ新婚旅行である。払いは東京に帰ってから……ということで、気を大きく持つことにした。

安心して、深夜にも関わらず大飯を喰らったような覚えがある。

ここから、最後の取材地ルマンに向かうのだが、まだまだ試練のドラマは尽きることがない。まあ、ほとんど無計画なので当然なのだが、それで何とかなってしまうところが、強運というか能天気というか。とにかく、あのルマンにも単身+1で29年前にひょこひょこと行ったのだ。ラジオも付かない ルノー5で。

つづく




Posted at 2009/07/25 22:54:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月25日 イイね!

『初渡航で5000km』 ドライビングスキルは外国語力に匹敵するのだの巻 その④

ここからは左側通行だよ。気をつけろよ。キープレフトだ。ドーバーに上陸すると、あちこちに警告の大書きが目についた。そう言えば帰りのフランス側でも同じ。ここからは右側通行だからな!! 念を押してあった。

考えてみれば、34㎞隔てたこっちと向こうで通行方向が異なる。日常的に行き来ができる距離だけに彼我の違いをいつも感じることができるわけだ。最近ではドーバートンネルをカートレインで行くパターンが多いのだろうか?その後ドーバーを渡ったことがないのでさっぱり分らない。

日本でも関釜フェリーが走る対馬海峡の向こうの半島に同じような状況が存在するが、両岸の距離は約200㎞。簡単に行き来できる位置関係にはない。ドーバー海峡は、青森~函館の青函フェリーの半分程の距離しかない、というのはどうでもいい話だ。

ドーバーからロンドンまではどうやって辿り着いたのだったか。ロンドンでは、カミさんの知り合いの甥っ子だかがいて、そこに世話になることになっていた。下町に住む彼の名は失念してしまったが、当時すでに長いことロンドン暮らしをしていたケーキ職人で、ポール・マッカートニーのゴールデンディスクの記念ケーキを作ったことがある…と写真を見せてもらった記憶がある。

彼がドーバーまで出迎えに来てくれた……のかな(クルマはたしか、いかにも…のミニ)。パリもそうだが、ロンドン市内はこ100年のオーダーでほとんど変っていない。限られたスペースにギュッと建物が詰まっている。ペリフェリックの内側と同様に、ロンドンのいわゆるシティには庭付き一戸建てという住宅のスタイルはあり得ないのではなかったか。とにかくポッと出のエトランゼに歯が立つような簡単な土地ではない。

英国で左ハンドルに乗るのは、感覚的に何とも不思議な思いがした。その頃でも、すでに左ハンドルには慣れていて、日本でもけっこう乗りこなしていたはずだ。でも同じ左側通行でもさっきまでリアルに右側通行してたところからの反転である。

そういえば後日、90年だの中頃過ぎに印象的な経験をした。オペルのベクトラをスペインで試乗するプレスツアーだったのだが、その試乗車が右ハンドル。バルセロナから地中海沿岸を走って、パラドールに泊まりながらグラナダを経てマラガまで行ったのかな。タイトのスペインのワインディングを右ハンドルで右側通行で走り通す。なかなかのスペクタクルでありました。

僕は頭が固いと言われるかもしれないが、日本も英国(というか英国圏)流に基本右ハンドルしか認めない方がいいという考え方。もしも、どうしても左ハンドルがいいというなら、交通体系を右側通行に改めることを法制化する議論にまで持って行けば良い。

左ハンドルであるという分かり易さにすがる舶来指向が、あらゆる面で日本の国内でのクルマのあり方を歪めている。そのことに、クルマ好きと言われる人々はもっと自覚を持った方がいい。些細なことだが重要なポイントだ。

なんだっけ? おおっ、ロンドン。そのケーキ職人の家は、ロンドンの下町(地域はまったく覚えがない。コックニーの言葉:thank you はTah=タァ:を教えてくれたから、労働者層が多く住む北部? アーセナルやトッテナム<スパーズ>の地域かな)の公営アパートで、部屋は3LDKぐらいはある古いけれど広々したものだった。

彼はロンドンで修行中に足を骨折して入院。その時の看護婦(英国人)と仲良くなって、結婚。ケンという男の子(その時3歳?)が一人いた。3人暮らしにはもう余裕十分という広い住宅。レンガ造りの建物で覚えているのは電気システム。

家の中に貯金箱みたいな集金箱が設置されていて、そこにコインを入れて電気を「買う」。集金箱の上には常にシリング硬貨(だったか)を積んでいて、うっかり用意を忘れるとパチンとその場で停電しちゃう。貯まった料金を月に一度集金人が取りに来るという。合理的というか、古くさいというかとにかく面白いシステムだと感心した。

当時はアイアンレディ、マーガレット・サッチャーが登場した直後。まだ英国病という言葉が普通に使われていて、モーターウェイには何台もボンネットを開けて立ち往生しているクルマを見かけた。今のイギリスはとても清潔で明るい雰囲気になったと思うが、30年近く前は本当に沈んだ印象を受けたものだ。

ロンドンは、シルバーストンのF2取材のベースでもあったわけだが、滞在中何度か地下鉄やダブルデッカーバスに乗って市内観光をした。まだ地下鉄のエスカレーターが木製で、タバコの吸殻が山になって散乱していた。油が塗られた木製階段に火が着いて、大火事になったというニュースを覚えている人もいるかもしれない。

食べ物では生涯忘れられない経験をした。ランチタイムにシティの軽食屋みたいなところに入って、二人でそれぞれ注文をした。僕はチキンのソテーか何か。カミさんはスパゲティを頼んだ。

料理が来て、さあと食べ始めた瞬間、カミさんの口が曲がった。「不味くて喉を通らない」なわけないでしょう。交換して口に運んだ瞬間「ウッ」と声が漏れて動けなくなった。ちゃんと料金を取る食べ物で、これが最初で最後。三角コーナーの中身のような嘘みたいな味だった。誇張でもなんでもない、本当の話です。周りを見ると、皆食べていたのですが。

んで、シルバーストンの話だが、ちょいとそこまでは無理だった。

つづく
Posted at 2009/07/25 17:44:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月24日 イイね!

『初渡航で5000km』 ドライビングスキルは外国語力に匹敵するのだの巻 その③

さあ次行ってみよう……ということで訪れたのがインターラーケン。ガイドブックであたりをつけたのか、はたまたホテルの人々に薦められたのか。まったく覚えていないが、とにかく行ってみた。

その名の通り二つの湖(トゥーン湖とブリエンツ湖)に挟まれた町は、切り立った渓谷を南下するとユングフラウがあったりするグリンデルワルトの入り口。このところジュネーブショーには毎年通い続け、スイスは馴染みのある国になっているが、観光らしい観光をしたのはこの時が最初で最後。ドイツのフランクフルトからジュネーブまで何度もクルマでグランドツーリングしているのにね。

いかにもスイスらしい山と渓谷の景観。それじゃあと、ユングフラウを目指したのではなかったか。麓の駅まで行くと、標高3454mのユングフラウヨッホにある頂上駅まで登山電車が走っている。ヨーロッパ最高地点にある鉄道駅。魅力的ではあったけれど、料金がかなり高かった。

断念して、次考えよう……とガイドブックなどを見たはずだ。そこにシルトホーンという3000mを少し切る山までロープウェイが走っている。値段も手頃だったのだろう。乗ってみることにした。15~30分くらいで頂上に着いたのかな。

天辺に行くと回転式の展望台があり、デッキから360度のパノラマが見渡せた。007(女王陛下の007)のロケ地だったという証拠写真がいくつか貼ってあったのが記憶に残っている。

ところが、しばらくするとカミさんが体調不良を訴えた。急激に3000m級の山に登ったことで軽い高山病にかかったようだ。インフォメーションに駆け込むと、さすがに慣れたもので、薬を与えられしばらく休むように……。ほどなく下山したと思う。

インターラーケンでも、もちろん宿の予約はなし。町のツーリストオフィスで「今晩泊まれる宿はありますか?」人間、衣食住に関わることなら、言葉が覚束なくてもなんとかするものである。

ただ、この時の失敗はボキャブラリーの貧困から「安い宿はありますか?」と聞いてしまったことだ。チェックインしてみると、床が傾きベッドはスプリングが抜けそうで、シャワーも部屋にはなく廊下の共用のみ。その床はぬるぬるだった。「cheap and clean」と言わなければ駄目じゃん。この時学んだ教訓である。

インターラーケンからは、一路ロンドンを目指してひた走ったはずだが、どこをどう通ったかまるで覚えていない。地図首っ引きで運転し、ラジオも鳴らない空間でひたすら移動する。当然ストレスは溜まり、感情の爆発もあったはずだが、都合の悪いことは覚えていない。

ただ、インターラーケンを出た夜は宿にありつけず、ついにやっちまったの車中泊(といえば聞こえがいいが、野宿である)とあいなった。カミさんは約3週間に及ぶ旅程のほとんどを覚えていないという。真相は不明だが、人間忘れることは良いことだ。

初の国境越えの教訓から、なるべくオートルートを走ったのだと思う。とにかくドーバー行きのフェリーに乗らなくちゃいけない。ガイドブック首っ引きでオートルートでアクセスできるブローニュの港を目指した。

なんとかなるもので、どうせ戻ってくるのだからと切符は往復で購入した。どういう要領で船に乗り込んだのかは当然覚えていない。しかし、かなり大きな船だったと思う。やれやれ乗れた……ホッとしてデッキで食ったフィッシュ&チップス。やたら脂っこかったけど旨かった。

ドーバーに着いてクルマに乗ったまま通関。ここで驚くべき経験をする。係官の話すクィーンズイングリッシュが「はっきり分かる!!」57歳を迎えた今も僕の英語は中学校レベルなのだが、この時ほど「おおっ、英語が分かる」と感激したことはない。

それまで如何になかなか通じないフランス語に苦しめられていたか……ということである。片田舎のお店でアイスクリームを買おうとしても言葉も出ずに指さすだけ。もう幼稚園児以下である。日本を発つ前に「水はエビアンといえば買えるから…」と聞いていた。その通り「えびあん」と言っても、お店のオバサンは???。

今ではエビアンはすっかり有名で、それが何たるかは誰でも知っている。その頃は、本当に水のことをエビアンというのかと思ったほど。フランス語で水は eau(オウ)だけどね。

ちなみに、2年前のジュネーブショー取材ではフランス側のEvianに泊まった。ここの水は全部エビアンだぞ…ってか。そういえば、いま米国女子ゴルフツアーのエビアンオープンが当地で行なわれているね。宮里藍が調子いいみたいだ。

ドーバーからどうやってロンドンまで行ったんだろ? 記憶を辿りながらの珍道中記は、まだまだ延々と……。

つづく
Posted at 2009/07/25 15:25:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月23日 イイね!

『初渡航で5000km』 ドライビングスキルは外国語力に匹敵するのだの巻 その②

人の記憶は本当にあてにならない。29年も昔のことだから無理もないが、ホテルオアシスに投宿したのは3日ではなくて2日だったかもしれない。その後の旅程から逆算するとそうなった。メモも残していないので、まあいずれにしても曖昧だ。

オアシスは2、3階に何部屋かある小さなホテル。一夜明けて、早速銀行に行きスイスフランを手に入れた。すっきりしたところで、じゃあちょっとスイスを巡ってみようということで、首都はどこだっけ、ベルン?ということで行ってみた。

けっこうな距離だったと思う。町の雰囲気もフランスに近いジュネーブ、ローザンヌと違って、何と言うかドイツ的?言語圏もドイツで町の標識も違ったと思う(すべて記憶を頼りにした当時の印象で、現在の様子とは厳密には違うかもしれない)。

そう言えばスーパーマーケットに足を運んでみた。けっこうなスケールの店で、商品の陳列をはじめとするお固い雰囲気が、明らかにジュネーブやローザンヌと違う。後に何度も通うことになるドイツの感覚そのもの。そんなに大きくないスイスに、何時間か走っただけでまったく異なる言語圏、文化圏が存在する。

まあ考えてみれば、現在のEUに属する国々はいずれも多様な民族、文化、言語を内包する複雑さを持っている。スイスの4言語圏(フランス、ドイツ、イタリア、レート・ロマンシュ語)だけでなく、ドイツだって北のプロシアと南のババリアは古くから反目し合う仲だし、スペインのバスクとアンダルシアは基本的には別の国だろう。

イタリアは、古くから都市国家が互いに覇を競い合うカンパリニズモの国で、統一イタリアとして共和制が敷かれるようになったのは確か20世紀に入ってから。ローマ時代からの歴史を持つ土地だが、国としては非常に若いのだった。

英国だったイングランドとウェールズとスコットランドとアイルランドは基本的に別の国。サッカーのFIFAにはそれぞれ別々の国として登録されていて、ホームインターナショナルという独自の国際試合もあるほどだ。

以上挙げた国には、それぞれブンデスリーガ、リーガ・エスパニョーラ、セリエA、プレミアシップ……などといったように、サッカーのプロリーグが盛んだが、いずれも町単位で競い合った歴史が投影されている。それぞれのリーグの特徴は、クルマのあり方にもどこか共通するものがある。

すべては後々で知ったことだが、ファーストインプレッションで得たインスピレーションは、後からいろんな関連性を持ちながら繋がっていくもんですなあ。

まあ、とにかくベルンの街まで行ったのは事実で、そのことをホテルに帰って夕食時に「今日ベルンに行ってきたんだよ」レストランに集まったホテルの人達に報告すると「???」「???」「???」皆キョトンとしている。

「あの、B・E・R・Nとアルファベットをそのまま発音すると「Oh バァ~ン」ベルンはドイツ語読みで、フランス(英語)発音はバァ~ンなのだった。まったく言語的には世界の小学生以下といった感じだが、こっちには行動しながら学ぶ力がある。

行きたい時に好きなところに行ける。ガソリンと大過なく運転できるスキルさえあれば。公共交通機関を使うとなると、切符の入手から汽車/バスの発着時間にいたるまで多少なりとも言葉ができないとストレスが溜まる一方だ。

でもドライビングスキルに自信がありさえすれば、それこそ衣食住すべてに関わる言葉に不自由してもストレスを感じることがない。若い人に口を酸っぱくしていいたいのだが、AT免許なんかで楽しないで、自分の中にあるクルマを楽しむ能力に期待して積極的にドライビングに関わった方がいい。

できれば、サーキット走行やコンペティションの世界に足を踏み入れて、限界の存在を身体に入れておきたいところだが、そこまで行かなくても常にオンロードでイマジネーションを膨らませながら、どういう走りが理想的かを考えたい。

実は、パリを発って、フランスのカントリーロードを走った時に、まず一発目のカルチャーショックを受けていた。雰囲気の良いワインディングで見た光景。対向車線は下り勾配。そこをどう見ても60歳はいっていると思われるご婦人が、(ルノー4だったかな)なかなかのスピードでいい感じのロールを発生させながらビュンとすれ違って行った。これはヨーロッパ、相当手強いぞ。肌で感じ取った欧州の奥の深さだった。

いまも残っているかどうか不明だが、フランスのカントリーロードには片側1車線の真ん中に上下線共通のラインが一本あって、そこで追い越しを行なう。優先権は先入車にあるようだが、そういうチキンレースみたいな状況の中で絶えず緊張感を覚えながら合理的な走りのパフォーマンスを追求している。

こういうカルチャーショックは、若ければ若いほど鮮烈な記憶として残る。せっかくここまでグローバル化、フラット化した世界なのだから、『若者のクルマ離れ』などという怠慢なメディアやメーカーのマーケティング担当者の言い逃れのしり馬になんか乗っていないで(事実はクルマの若者離れが深刻な状態になっているだけだもんね)、もっと楽しむことを真剣に考えよー。楽しいことを考えると、人生けっこう楽しめるもんだよ。

つづく
Posted at 2009/07/24 23:09:15 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「撤収!! http://cvw.jp/b/286692/42651196/
何シテル?   03/24 18:25
運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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