
クルマの運転=ドライビングの奥義は、限界を知ることに尽きる。即座に、300㎞/h超の速度(スピード)とか、4Gの旋回(コーナリング)とか、目ん玉が飛び出すようなF1のブレーキング(制動)だと早合点する向きも多いかと思いますが、限界はそんな遥か彼方の手に届かない世界の話ばかりではありません。
そもそもマシンとかメカニズムとかタイヤといったクルマそのものの限界だけでは、限界は語れません。クルマの限界は、終局的にはクルマが路面に接するタイヤのグリップ力に委ねられますが、その手前に運転する人の肉体や精神や経験に基づく限界が存在するし、走る道路の屈曲や路面のμ(ミュー:摩擦抵抗係数)などによる限界も存在します。
多くのアマチュアの場合、経験不足による未知や無知が限界を規定してしまい、それによって走行環境やクルマの限界の遥か手前にphysicalな限界が設定されてしまいます。たとえ、1000馬力のスーパーパワーとそれに見合うグリップ力のタイヤを受け止める能力を有するクルマであっても、コース幅5mの30Rのコーナーを曲がれるスピードは知れています。
あたりまえの話ですが、情報化社会は時として具体的な身体や道路環境といった制約要件を棚上げして、単にマシンとしてのクルマの純化というか高度化を良しとする右肩上がりのベクトルを目指す傾向があります。実際に現実生活でそれは楽しめるのか?とか、自分自身にとってそれは楽しいのか?ということよりも、クルマとクルマを比べっこしてこっちのほうが速いの凄いの面白いのといった、身体(からだ)を介在させない頭の中(脳内)のイメージで分かったような気になる、そうさせることが目的になっている。
幸いなことに、僕が自動車人生を始めることになった1970年は、日本だけでなく世界中のクルマの性能がそれほど高くなく、ビギナーだった僕の身体感覚と当時のエントリークラスのクルマの性能のギャップが大きくありませんでした。僕が最初に手にしたサニー1200クーペGX(KB110型)は、SUツインキャブで83ps(グロス値)を得る1171㏄のOHVで、タイヤは6.00-12 4PRという、今の若手ジャーナリストにはチンプンカンプンのサイズ表示のバイアスタイヤであり、リアサスペンションはリーフリジッド。4速マニュアルギアボックスで、当時のJAF公認車重は忘れもしない645㎏。市販状態の車両重量は700㎏台だったはずです。
今見たら間違いなくちっぽけで、貧弱で、それこそ軽自動車やリッターカーに負けてしまうかもしれませんが、40年近く前でもチューニングを競い合うとそれはもう伝説にもなっている素晴らしいコンペティションマシンになりました。当然のことながらKB110はFRレイアウトでしたが、その素材性の高さは今の時代でも十分通用するものがあると思います。環境性能や安全性能を考えるとそのままの再現は叶わないことですが、温故知新……何が重要か? を知る手立てとしては参考になるはずです。
僕の自動車人生は、たまたまこのKB110サニークーペ1200GXのデビューの時に免許を取得し、それを手にすることで方向づけられました。5年後に中古のKB110を買ってレース仕様に仕立て、レースの門を叩いたことが、今に繋がった。まあ、漫画みたいな話ですが、運不運は人生に付き物。まだまだ先はあるはずですが、いくつもの別れ道を自分なりに選んできた結果です。
ドリフトにインスパイアされたのは、1975年の雨の筑波の日産レーシングスクールで国さん(高橋国光)の曲芸のようなドリフトを味わった助手席か、はたまたその前年GC最終戦にやって来たJPSロータス72を駆るR.ピーターソンのヘヤピンでのスライドウェイだったか。
今の仕事でやって行くと決めた1978年、SA22サバンナRX-7には手を焼かされたが、それでも12A型REのパワーは135ps(グロス)。これってほぼNAロードスターのB6-ZE(120ps=ネット)と同レベル。今で言えば、Bセグコンパクトカーにも千切られそうなレベルですが、その時のタイヤは185/70SR13。当時は筑波最速でしたが、NAロードスターの数秒落ちというのが現実でした。クルマはまだFRのほうが多い時代ですが、排ガス規制を何とか克服したモデルにスポーツを求めるのは酷。その頃のdriver誌を繙けば、とにかくフルカウンターを当てたドリフトシーンを撮ろうと筑波の第一コーナーを逆走する秘策でなんとか形にした画が残っているはずです。ブルーバード910 1800SSS-E(1979年)だったね。
FRだったら、何でもドリフトできると思ったら大間違い。僕が、国産FRで「やっとここまで来たか」と及第点を与えることができたのは、1989年のR32スカイライン。GT-Rばかりが有名になってしまいましたが、この時に登場したレギュラーモデルのタイプMこそが(パッケージングを犠牲にしながらですが)、日本車史上に記憶されていい最初のFRだったと思います。R32スカイラインGT-Rについては、デビュー当初はその狂った速さ、サーキットでもゼロヨンでもオートマチックとも言える圧倒的なスピードにヤラれ、絶賛していましたが、やがてこれはベースモデルを食いつぶすだけの奇形になるという見通しを立てて、アンチの立場を採るようになりました。結果はご存じの通りです。
どうしても手前味噌の羅列のようになってしまい、あまりハッピーな感じがしないのですが、僕がFRの根源的な魅力に目覚め、ドリフトがすべてなのだと直観したのは1983年。この年の9月に当時の運輸省が60タイヤ(偏平率60%のロープロファイルタイヤ)を認可し、市販車への装着を認めました。すでに海外向けを中心に装着する例はあったかと思いますが、日本車が実質的に高出力、ハイグリップの高性能車路線を突き進む端緒でした。
日本のスポーツタイヤ元年は、1978年の横浜ゴムのADVAN HFが嚆矢で、 翌年追うようにブリヂストンがPOTENZA RE47を発売して時代が動き始めます。僕はその時からタイヤの取材テストに関わっていて、83年の60タイヤ解禁の際には当時市販されていた(補修市場=リプレイスで)全メーカーの60タイヤをテストする短期集中連載を受け持ったことが、開眼のきっかけでした。
当時、タイヤリポートを手掛ける人は限られていました。テスト方法もこれといったものはなく、すべて自作で評価項目を考え、テスト方法にも工夫をしました。まず、クルマの駆動・旋回・制動、いわゆる走り、曲がり、止まる…ですが、それを分かりやすく抽出するには駆動と操舵が分かれたFRがいいと考えました。60タイヤに対応したシャシーを持ち、出力的にも余裕があるということから選んだのは三菱スタリオンGSR。2ℓターボでたしか145psでした。
テストモードの中にドライとウェットの定常円旋回を設定しました。そこでドリフト旋回に結びつくのですが、操舵とトラクションのバランスが取れた……ドリフトコントロール性に優れたタイヤは、単純なグリップレベルの高さということではなくトータルパフォーマンスという視点で良くできている。見て分かりやすく面白く、乗って満足、納得できる。勝った負けたではなく、皆がハッピーに感じられる。こういうの、他にある? やがて日本の自動車産業は、対欧州を過剰に意識して麻薬的なパワー競争の渦中にはまって行きますが、時代がグルングルンと2度ほど回って、さすがに300㎞/hオーバーや、そのための500psの追求では未来は語れない。西欧の対自然観の限界が見えてきたところに、新たなクルマの魅力の創造の必要性が喫緊の課題となって浮上してきました。
相変わらずアウトバーンを土台にするドイツメーカーに洗脳され、日本でのクルマのあり方を人ごとのように語る者の跋扈が続いてますが、そろそろ自分の頭で考える時ではないでしょうか。
まず、ドリフトから考える。その筋道はすでに僕の中では用意されています。このタイミングでトヨタ86、スバルBRZ、サイオンFR-Sが登場してくれたことを、心から嬉しく思っています。多くの若い世代は僕が自動車人生を始めた頃にあったような好素材といえるクルマに巡り合う機会が限られていたと思います。これまでにも、マツダ・ロードスターのような傑出した逸材は存在しましたが、86系はそれ以上に間口を拡げる入りやすさを備えています。本当はこの半分ぐらいの出力で価格も……というのが理想ですが、現在の法規対応や市場性を考えるとこれが限界であるようです。なるべく息の長いクルマとして成功し、中古車市場に出回る量が確保されるといいね。
まあ、いつも通り長くなりましたが、これでもかなり端折ったつもり。より深いあれこれの蘊蓄や、ドリフトを身につける方法……平成ドリフト研修所みたいなことも考えたり、諸々については
DRIVING JOURNALで展開したほうがいいかもね。 異論反論、歓迎します。僕の信念が揺らぐことはありませんが、自分が全面的に正しいとは思っていないので。
ただ、未来を具体的にどうしたいのか、という視点を欠いた意見はつまらないので勘弁して下さい。
Posted at 2012/02/01 00:19:24 | |
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