マツダファン東北ミーティングにて
日本の至宝とも言うべきルマン優勝車
787B-003号車 JSPC仕様車に
三度会えました。
以下ウィキペディア引用
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787および787Bは、イギリス人のナイジェル・ストラウド(Nigel Stroud )により設計された
マツダ・757を起源にし、マツダ・767を経て発展したものである。ナンバリング順として
は「777」となるところであるが、「日本語として言いにくい」ことから「787」となった。
また、787Bは、1991年のル・マン24時間レースにおいて総合優勝を果たした。これは
日本メーカーにとって初の、そして2016年現在日本メーカーとして唯一の総合優勝で
あるほか、ロータリーエンジン車として初、レシプロエンジン以外でも初の総合優勝で
あり、まさに快挙と呼ぶにふさわしいものであった。

なお、あまり知られていない事実として、カーボンブレーキ装着車として初めてル・マン
を制した車種でもあった。
ブレーキシステムサプライヤーのブレンボからは、「仕様書通りの開口面積を確保した
ブレーキ冷却ダクトを装備したのはマツダだけだった」と評価される。[要出典]トランス
ミッションは、ポルシェ・962Cの5速マニュアルトランスミッション(Hシフト)を上下逆にし
て装着し使用した。

シャシは、767のアルミモノコックからカーボンモノコックへと変更されている[1]。ボディは、
ストレートでの最高速重視のため車幅を狭くしてドラッグを減少させるデザインを採用した。
ラジエーターは767のサイドからフロント+サイドの配置となり、フロントで冷却水、右サイド
をエンジンエアインテークとマフラー冷却、左サイドをオイルクーラーに使用して、767Bより
冷却能力を向上させると同時にフロント荷重を増大させている。

採用されたサスペンションは、フロントが、767Bの発展型のスプリングダンパーユニットを
フローティングタイプとしたインボードタイプのダブルウイッシュボーン、リアがベルクランク式
ダブルウイッシュボーンである。
また、走行中のマシンのエンジン稼動状況、サスペンション動作状況、車両挙動等をリアル
タイムに情報収集するマツダ独自のマネージメントシステムを採用しており、燃費マネージ
メントやトラブルの未然防止が図られた。
製造されたのは2台で、うち1台は現在787Bのレプリカに改修されており、もう一台の56号車
は1991年のルマンを走行し8位入賞した後に、北米マツダが所有している。

787Bは1991年用の787の改造版。
787Bは、787のストレートスピード重視から、コーナリングスピード重視へとマシンのコンセプト
を転換し、約200項目に関する改善を施した。その中には、トレッドの拡張(メカニカルグリップ
向上)、リアカウル形状変更、カーボンローターディスクブレーキの採用、タイヤ径の18in化、
リアシャシにエンジンロアストラットを追加、サスペンションアームの形状変更、駆動系の補強、
冷却性能の強化、ワイヤーハーネス配置の最適化、光学式車高センサの搭載等が含まれて
いる。その結果、ベンチレーション、居住性、ハンドリング特性が向上し、ドライバーの負担軽
減が可能となった。
2台(787B-001/18号車と787B-002/55号車)が製造されたのちに、ルマン優勝車を保存する
ことになり、その穴を埋めるべく1台(787B-003/202号車)が追加製造された。

エンジンの形式名はR26B。1990年からマツダは、ロータリーエンジンの形式呼称を変更。
Rはレース用、26は4ロータの総排気量の2,600cc(654x4)、Bはローターとハウジング寸法
の基本となった13Bから命名。レース専用エンジン。
1990年 マツダ767Bの13J改改の630psから800psを目標に開発。目標の800psを出すため
には回転数を10,000rpmとする必要があったが、10,000rpm/24時間に耐えられるトランス
ミッションがなかったため、最高回転数を9,000rpmに抑え、出力を700psとした。
主な採用技術は、多段可変吸気機構(有効出力ゾーンでの500rpm毎のステップでの可変
吸気)、1ロータ3プラグ、ペリフェラルポートインジェクション、セラミック・アペックスシール、
ハウジング摺動面全てのサーメットコーティング等。この結果、767Bの13J改改より有効トル
クを太く、かつレンジを大幅に拡大し、燃焼効率の改善によるトルクアップ(出力向上)、燃費
改善、実用域のレスポンス向上を達成したが、他のグループCマシンは800psを発揮するも
のが多かった。

1991年 1990年のR26Bをベースに、マキシマムパワーよりレスポンス重視とし、中・低回転域
のトルクの向上、燃費向上、信頼性アップを図った[1]。主要な改善内容は、エンジン制御コン
ピュータのきめ細かな調整と連続可変吸気機構の採用。連続可変吸気機構は、エンジン回転
数に応じた吸気管長を連続的に変動させる方式で、トルク特性がアクセル開度に対してリニア
に反応する。
マツダがルマンで優勝した55号車をレース終了後そのままの状態で日本に持ち帰って分解し
たところ、まだ500km程度の耐久レースならこなせるほどの内部状態だった。

787Bは、前年の1990年に787で参戦した経験から、ストレートスピード重視からコーナリング
スピード重視のマシンにするため、トレッドの拡幅(メカニカルグリップ向上)などの変更を加
えた改良型であり、ルマンには2台の787B(55号車と18号車)と、前年型の787が1台(56号車)
参加した。55号車はレナウン・チャージカラー、18号車と56号車はマツダワークスカラーだった。
55号車は、フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーにより運転された。
レースは、新SWC規格マシン(排気量3.5L自然吸気エンジン搭載車(最低重量などでレギュレ
ーション上の優遇措置が設けられた)が、初参加の走行ということで、次々とトラブルを起こし
てリタイヤした。結局、メルセデス・ベンツ・C11勢(1号車、31号車、32号車)が序盤をリードし
たが、55号車は夜になってメルセデス勢の後、1周遅れの4位につける。その後、メルセデス
の31,32号車はトラブルから後退した。
早朝、34号車、35号車のジャガー・XJR-12と2位争いをしていた55号車はジョニー・ハーバート
に2スティント連続担当させる勝負に出て、これに成功[1]。単独2位に浮上、しばらくこの状態が
続いた。

レース終了約3時間前の12時54分、2位55号車に3周差をつけて長らくトップを走っていた、
1号車メルセデス・ベンツ・C11がトラブル(ウォーターポンプのプーリーが破損したことによる
オーバーヒート)で緊急ピットインし後にリタイア。午後1時4分、55号車はトップに上がった。
その後2位、3位、4位を占めるジャガー勢・XJR-12は燃費に苦しみ最後までペースが上がら
ず、レース終盤では1周あたり3分53秒~54秒のタイムを要し追い上げるどころか55号車に置
いていかれる結果となった。最後のドライバーはベルトラン・ガショーの予定だったが、コース
状況を良く知っているジョニー・ハーバートが引き続き運転、3シフト連続してドライブした。

その後トラブルなくレース終了まで走りきり、首位を守り抜いた(レース中に消費するロータ
リーエンジンの潤滑用のオイルは燃料の水増しではないかと他チームにクレームを付けられ
る場面もあったが、主催者によって退けられる)。結果、55号車が優勝、18号車が6位、56号
車が8位に入った。55号車は、コースを362周走行し、距離にして4,923.2kmを走った。
マシンがマツダピットに戻ってきたとき、ハーバートは長時間の運転による脱水症状で倒れ、
表彰台にあがれなかった。
1991年限りでグループCのレギュレーションが変更され、ロータリーエンジンの使用が認めら
れなくなったことで、ロータリーエンジンが参加できる最後の年に初の総合優勝を果たした
(1993年から再びロータリーエンジンは参加可能になった)。

ル・マン優勝車である55号車は広島県のマツダ本社内にあるマツダミュージアムで動態保存
されている。イベントなど、何らかの理由で55号車が貸し出されている間は、レプリカもしくは
767Bが展示される。
その他にも、各地で行われたモータースポーツのイベントで走行する姿を披露しているが、
エンジン内部の磨耗を防ぐ為にレブリミットは 7,000rpmとされていた(本来は 8,500rpm )。
しかし部品確保や維持コストの問題等もあり、それ以後5年間、55号車が走行することはな
かった(走行無しのイベント出展は継続された)。マツダミュージアムにはR26Bエンジンも展示
されているが、このエンジンも既に動かせる状態ではない。

優勝から20周年となる2011年にル・マン主催者側より招聘され、レース開始前のル・マンの
コースで、787Bのデモ走行ができないか、という提案であった。787B 1台のためだけの
デモランであり、異例の待遇であったが、マツダでは招聘に応じるか、787Bに大金をつぎ込
んでレストアする価値があるのか、など、なかなか決済が降りなかった。
やっとGOサインが出たのは東日本大震災の1週間前であり、ギリギリのタイミングであった。
この招きに応じるために、787Bはエンジンを新調。車体もフルレストアされ、優勝当時の
走行性能を取り戻した。使用の可否がわからず既製品のスチールローターに換装された
ブレーキ、そして「がんばろう日本 NEVER GIVE UP! MAZDA」というステッカーが追加
された以外は当時とまったく同じ仕様であった。

ル・マン24時間レースが90回目を迎えた2013年、ネット投票や有識者の意見をもとに各年代
のベストマシンを選ぶ企画が催され、787Bはプジョー・905とともに1990年代を代表するマシ
ンに選出された。

202号車は参戦終了後、マツダR&Dセンター横浜内で静態保存され、さらに一時期は55号車
のための部品取りとなっていたが、2009年に走行可能な状態へのレストアが実施され、JSPC
参戦当時の状態に復元されている。2009年7月11日に広島マリーナホップの駐車場を利用した
特設コースで、低速ではあるがデモ走行を披露、2011年現在は美祢自動車試験場にて動態
保存されている。
2014年12月7日(日)MAZDA FAN FESTA 2014 in OKAYAMAにて767B #202 ルマン参戦車、
サバンナRX-3 レース仕様車らとデモ走行を行った。
毎度お粗末様です。