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風越 龍のブログ一覧

2016年08月26日 イイね!

大夕張の学校の欠片


奥鹿島分校の碑。
白金望郷の碑。

故郷に、学校に思いを馳せる。
其の方達の拠り所となる場所。







奥鹿島分校の碑。

校歌が彫ってありました。


♪まばゆく朝日をあびている
♪夕張岳の山裾で
♪元気に育つぼくわたし
♪明かるく強く清らかに
♪希望の若芽を
♪萌やそうよ
♪苦しいなんていわないで
♪笑顔をうかべ暮らそうよ

開拓民の集落とも思える歌詞。
苦しくても笑って暮らそう。
そうすれば明日は今日より良くなる。
頑張れば明後日は明日より良くなる。

少しずつでも良くなるから、頑張ろう。
歯を食いしばって頑張れば少しでも良くなるから。

そんな願いを込めた校歌ではないか・・・・、と思う。







昭和57年に建立、平成16年に再建とある。







国道の碑も移設され、此処にあった。







ふる里 大夕張の碑。
かつてあった場所では鹿と遭遇したものです。

なんだか、遠い過去のことのように思えてしまうのですが・・・・・。
僅か数年前のことなんですよね。







♪シューパロに風わたり
♪流れもぬるんで春が来る
♪のぼりはためく山神祭
♪祈りかしこみ地熱の中に
♪男度胸の花が咲く
♪大夕張よいとこ炭坑の町よ

夕張の戯れ唄にもありますね。

夕張、食うばり、坂ばかり。
ドカンといけば死ぬばかり。

立坑ケージは腹の据わったヤマの男でも怖かったという。
生きて地上に出られるか、すら分からないのですから。
だから炭砿で働く方達は子供は他の仕事に就け、と話す方も多かったとか。
危険ゆえに恐ろしい高給取りでもあった炭砿夫。
兵隊さん以上に危険な仕事だったと思います。







鹿島東小学校、閉校の碑。







夕張東高校の碑。
昭和25年9月1日開校~昭和58年3月31日閉校という情報を見つけました。
30年チョイで閉校。
ヤマが斜陽産業になり、生徒も集まらなくなった為でしょう。







鹿島中学校は平成の世まで学校として機能していたのですね・・・。
昭和22年5月1日開校~平成8年3月31日閉校。

つい最近まであったのに・・・・。
訪問できなかった事が無念です。







鹿島小学校の碑。

♪太古の森を切り開き
♪うもるる宝かえさんと
♪力よほまれよ血のひびき
♪きたわんかいな
♪ああ 大夕張

大地の恵みで生きる大夕張。
たとえ一時の夢であっても、賑わいがあり人が集い暮らした街があった。
その終焉が思いのほか早かったこと。
それだけは間違いないのだけれど・・・・・。

やはり大地の恵み一本しか産業が無かったこと。
それが今に繋がるのだが・・・・。
他の産業がない土地に石炭という巨大産業が出来・・・・・。
それに頼り切るよなぁ・・・・・。

最新鋭のビルド鉱が立て続けに事故を起こし閉山したこと。
この夕張は石炭層にガスが多く難しいのだろう。

昭和の時代にTVでは北炭夕張、北炭夕張と連日流れていた。
石炭が安全に大規模に採掘できる条件が揃い、技術もあれば・・・・。
と思うのだが、褶曲したり坑道堀ではよほどの良い条件が無ければ、もう無理でしょう。

時代に翻弄された学校たちに敬意を。
Posted at 2016/08/27 00:13:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大夕張 | 日記
2016年08月25日 イイね!

大夕張鉄道の遺構と路盤跡サイクリングコース 其の3

花火ネタブログが消えてた・・・・。
タイミングが悪かったのかもしれない。
気を取り直して・・・・・。




大夕張鉄道路盤跡を。
SLが、ディーゼル機関車が石炭列車を曳いていた跡。
サイクリングコースであった跡も分かりにくい・・・ですね。







センターラインがうっすらと残る。







ダムが出来る前の道・・・でしょうか。
側溝もあるし、正規の道だったはず。

位置関係からして、旧白銀橋への道ではないか・・・・・・。
だとすればテリオスでも走った道。
大夕張の森への入り口だった道・・・・・・。







愛しい大地が水面(みなも)に飲み込まれる・・・・・・。







こうして見ていると・・・・。
あの大夕張を巡った日々が遠い過去の事のように思えます。







ガードレールすら残る道だった場所。





夕張国道跡。
ここは何度も走りましたね・・・・・。
テリオスでも、レンタカーでも。

もう水に呑まれた場所なのですね・・・・。
生まれも育ちも違うけど、何故か異常なまでに執着するのは何故か。
散り行く土地への憧れなのか。
遠い過去に失った風景に似ているからなのか。

愛しい風景が死ぬ事ほど辛いことはありません。
出会いの嬉しさが大きければ大きいだけ失った時のショックもまた大きいのです。
この目で見た大夕張の感激がそれだけ大きかった、という事です。







あの頃に戻りたい・・・・・・。
大夕張が沈む前に・・・・・・・・・・。

帰る故郷が水に沈むなんて・・・・・・。
いくら金を貰っても切なすぎますよね・・・・・・・・。







かつての夕張国道。
切ない景色です。







どうして此処が沈まなければならなかったのか。
色々と市の都合もあるでしょうが・・・・・・・・。
本当に辛く切ない・・・・・・。







水に吸い込まれる道。
写真や資料で見たことはあっても・・・・・。
自分の目で見ると、それはこんなにも辛い事である・・・・・・。
大夕張は其の事を教えてくれました。







路盤跡のアスファルトもそのまま残ります。
センターラインが綺麗・・・・・・。
綺麗過ぎる廃は哀しい。







柵もそのまま残る。
赤があまりにも綺麗に見えてしまう。
親馬鹿フィルターが掛かっている事は間違いないのですが・・・・・。

それにしても綺麗です。
これを沈めてしまうなんて・・・・・。
人間の都合によって・・・・。







明石町駅跡に戻ってきました。







快適だし合理的だし。
でも、好きになれない。
あの白銀橋を沈めた身代わりだから・・・・・・だと思います。







最後に振り返って・・・・・・・。
まさかこの景色が見られるなんて思っても居ませんでした。

それゆえに驚きと感激と・・・の繰り返し。
俺の家に戻ってきたなぁ・・・・・・と思うようなホッとする感じ。
それが感じられるのです。
夕張という土地は。

もっと居たいけれど・・・・。
滞在の時間は限られます。
でも夕張でのんびり一日潰しても、多分時間が足りなくなる筈です。

何も無い、という方も居るでしょうが私にとっては沢山の感じるモノがある土地。
次はいつ、行こうか・・・・・・・。

大夕張の国道とサイクリングロード跡、終わりです。
次回は大夕張の学校に関するもの、でUPする予定です。
Posted at 2016/08/25 22:50:27 | コメント(2) | トラックバック(0) | 大夕張 | 日記
2016年08月17日 イイね!

大夕張鉄道の遺構と白銀橋 其の1


新白銀橋。
モンケユウパロとシューパロの水の色は碧色。







深く碧く、湖面は哀しげに見える。
ここには街があった。
人の暮らしがあった。
それすらも無かった事にされてしまったようで・・・・・。
だから、そう感じるのかもしれません。







水位が下がったため、大夕張鉄道路盤跡を利用したサイクリングロード。
シューパロ湖に沈む前でも此処を自転車で走る方は見た事がありません。







走ったら気持ち良さそう・・・・・。
コレが現役だったら・・・・と思うと沈めてしまったのが勿体無い。







国道452号線旧線。
ここはテリオスでも走ったし・・・・・・。
が、その道ももう走る事が出来ない。

シューパロに沈む。
ただ静かに、寡黙に沈む道。







かつて大夕張に電気を送る為に使われたであろう電柱。
もう、誰にも見向きもされない。
ただ朽ちるだけの存在。







静かな波が打ち寄せ、小さな波音がする。
ガードロープが湖面に吸い込まれてゆく・・・・・・。







旭沢橋梁に向かいます。








半ば水没する旭沢橋梁。
この日は辛うじて水面より顔を出していました。







在りし日の旭沢橋梁。







重い、重い石炭列車が走っていた旭沢橋梁。
その姿は雄々しく、逞しい。

ここを蒸気(機関車)が引っ張り渡る石炭列車を、この目で一度でも良いから見てみたかった。
それが心残りかな。







ここに来られた。
草が多くて今までは断念していたのだが。

水没した関係か、草も少なくた易く近寄ることが出来ました。







旭沢橋梁の上で。
ほんの少しですが足で歩いてみました。
もっとも、とぷん・・・・・(落水)すると上がる所が無いので、そうならない範囲で。







道路橋も水没ギリギリ・・・・・・。







南大夕張の石炭列車が此処を渡っていた。
今でこそ無人地帯だが最盛期は2万4千人もの人が住んでいたという。
その生活を支えた鉄道でもある。
今やその事そのものが信じ難い事ですが・・・・・。







※クリックするとかつての姿
新白銀橋。
風情も趣もない。
合理的なんだけど・・・・・・・。
以前の白銀橋の方がいいなぁ・・・・・・。

この奥には開拓農家があり、開墾していた筈。
※土地の形状、状態からどう見ても畑の跡としか思えませんでした

テリオスでも走った所が今はもう、走れない。
僅か数年前のことなのに・・・・・。
Posted at 2016/08/17 22:40:11 | コメント(2) | トラックバック(0) | 大夕張 | 日記
2016年08月16日 イイね!

南大夕張 南部青葉町


大夕張、南部青葉町。
もちろん住んだ事も身内も居ない町。
でも、此処は何故か懐かしい。

炭鉱夫の言葉にある。
ヤマは皆家族。
なのでぬるま湯から抜けられない、と。

命がけなので一連托生。
なので血は繋がらずとも身内。
だからその心地よさ故に命が掛かっているような立坑のケージの怖さにも耐えられるのでしょう。
一発間違えれば体なんて粉々か血痕を残してばらばら・・・・・・・。
でも、それが羨ましく思えてしまう現世(ヤマは皆家族)。

敵は4時方向に在り、と云っても背中から撃たれるような仕事をしていると、例え死んでも家族に囲まれて死ねるのならば本望かも・・・・・・・・。
そんな事を思ってしまうこの世(の仕事)は生きるも地獄、死ぬも地獄だ。
逃げる場所が無い・・・・・・と云う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。







野村時計店も中野電器商会も崩壊してしまった・・・・・・・。
私の知っている大夕張がここでも死んでしまった・・・・・・・・・・・・。







中野電器商会もタダの瓦礫と化してしまった・・・・・・・。







この瓦礫が中野電器商会と野村時計店。







この全日食チェーンは少し前まで人が居た。
が、今は放棄されたようだ。

大夕張が生きていた頃。
ヤマも男にとって、事故は明日はわが身。
明日は生きて坑口から出られないかもしれない:・・・・・・・・。
好きなだけ食べて飲んで・・・・・・・・・。
だったと思う。
腹の据わった男でも立坑ケージは怖かった・・・・・という。
恐らく自由落下に近い感覚で地下1000メートルまで送りこまれるのだから・・・・・・・・・。
ガスに落盤に、怖いものが複数ある。
それはビルド坑であっても、スクラップ坑であっても公平に降り注ぐ恐怖。
そんな恐怖を押し殺して働いたヤマの男たちに敬意を。








沢山の瓦礫とスキー板。







在りし日の中野電器商会(2015年)。







こちらも数年前まで人の気配があったものですが・・・・・・。
今は人の気配もありません。








野村時計店の時計かもしれません。
時を止めた街。
わずか30年位前には生きていた。

しかし人が、住む人が減れば商売にならない。
廃業を余儀なくされる。
ここ、大夕張もかつては多くの人が集いし街だった・・・・・・・。
夕張東高校も平成の世になる寸前に閉校した。
たとえ閉校しても夕張を支えた証である夕張を冠した校名。
卒業生が羨ましく思います。






XX 
パロマガステーブル。
其の看板は辛うじて残っていた。







焼肉屋さん。
命ある限り、美味いものを食べたいと思うのは人。
そんな焼肉屋さんも平成の世までは生き残れなかったようです。







土産物屋というか、菓子屋というべきか。
炭砿の音、という菓子には切なさを感じます。
でも当時から、大夕張は生き残り策を考えていたということ。
成功しなかったことが惜しい。







凄く昔のスクーター。
これだけあるという事は・・・・・・・・・・。
この家は羽振りが良かったという事なのでしょう。







ロッテからの感謝状。
昔は売り上げも沢山あって・・・・・・・。
そんな栄光も過去のこと。







何かの店の跡と思われる。







飲み屋かカラオケスナックか。
何にしても今は何だったかなんて分からない。

大夕張は住んだ事も身内も居ないけど・・・・・・・・・・・・・・・。
凄く懐かしく親しみがある。
何故かなんて分からないけど。
Posted at 2016/08/16 21:10:30 | コメント(2) | トラックバック(0) | 大夕張 | 日記
2016年06月10日 イイね!

大夕張の景色と景色だったもの


大夕張ダムとシューパロダム。
美しい三弦橋も白銀橋も、シューパロダム完成で沈んだ。

頻繁に行けなかったが大夕張は思い出深い大地。
それも水底に沈んだ。
よほどの事が無い限り見る事が出来ないのだが・・・・。
見る事が出来れば会社などほったらかしてでも、行きたいものです。







大夕張で石炭を掘っていた頃の写真。
夕張では貴重な産業だった石炭。
その貴重な産業が倒れたこと、観光の街、夕張が失敗したこと。

今や息も絶え絶えというくらい、ヤバイ自治体ですが・・・。
何とか息を吹き返して欲しいものです。
微力だけど夕張(夕張も大夕張も)、応援してるから。







人の写真ばかりで恐縮ですが・・・・・。
大夕張が生きていた頃。
まだ、何とか輝いていた頃。

その輝きを取り戻して欲しい。
大夕張。







豊かな森に囲まれた大地があった。
恐らく開拓農家があったと思われる平らな土地。
計画的に植えたような木々。

テリオスで訪れた大夕張は、もうない。
色々あって仕事も辞めちまって、何もかも放り出して、さんふらわあに乗った事が懐かしい・・・・。
あの時、夕張に背中を押してもらったんだよなぁ・・・・。
幌内にも・・・・・・。
あの時みた炭砿の跡。
その時感じたこと。

それがあったからこそ、今の自分がある。
だからこそ、撮れる限り撮り続けたい。
石炭の都の跡を・・・。







中野電器商会。
去年でコレ。
今年訪れたとしたら崩壊しているかもしれない・・・・。







入ろうと思えば入れるのだが・・・・。
怖くて入りたくありません。
いつ、崩壊するかなんて誰にも分からないから。







崩壊した家。
かつての賑わい。
それがウソのようになってしまった・・・。

産業がないこと。
ここまで影響が大きいんだ、と大夕張が教えてくれます。







中野電器商会、右側に傾きつつあり・・・・・・。
バッタン!と崩壊してしまいそう。

炭都の跡があまりにも哀しい・・・・・。
その輝きが大きければ大きいだけ・・・・・。








隣の時計屋さんは崩壊してしまいました・・・・・・。







また知っている景色が死のうとしています。
歳をとる事って別れることが多くて・・・・・
分かれはいつでも辛いものです。







三菱大夕張炭砿で起きた昭和60年5月の事故の慰霊碑。
ガス爆発で62名の死者を出しました・・・・。

最新鋭の保安設備を持ってしても確保出来なかった無事故。
昭和末期の北炭夕張新炭砿、三菱南大夕張の事故が炭都夕張にトドメを刺したようです。

ガスが多量に含まれた夕張の大地。
それゆえに採掘も難しかったことと思います。
亡くなった全ての炭砿(ヤマ)の男たちに感謝と敬意を。
そして冥福を祈りたいと思います。

この時はロープが外されていて、初めて碑の前で手を合わせる事が出来ました。
Posted at 2016/06/11 00:18:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 大夕張 | 日記

プロフィール

「夕暮れの空 http://cvw.jp/b/331167/48472329/
何シテル?   06/07 10:08
正式名称:風越 龍(ふうえつ りゅう)です。 写真(もっと技術が欲しい・・・)とステアリングを握って出かける事が3度の飯より好きです。車はテリオスが初です...
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