Webで戊辰戦争等見ていたら,とんでもない「戦後処理」が書かれていた!
以下は,抜粋です。
<明治政府軍は、会津戦争の戦死者・犠牲者の一切に対して埋葬を禁止したため、長期間に渡って放置された老少男女の死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。見かねた庄屋の吉田伊惣冶が放置された戦死者を埋葬したため、明治政府民政局によって投獄され数日が経ち「今回だけは許す、今後このようなことがあれば直ちに首を刎ねる、村人に知らしめよ。」と釈放された(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている)。半年程経ち、遺体取り片付けの誓願書が多く寄せられ、疫病の要因になる等の理由から、ようやく埋葬を許された。死体の処理には藩士や村人を許さず、被差別部落民(記録[要出典]では763人)を使い、墓ではなく、罪人塚という形で認められた。彼らは大きな穴を掘り、遺体をお風呂桶、古棚、莚にぎゅうぎゅうに詰め、ごみ同然に投げいれたという。戦後処理のため残された会津藩士二十人は皆、涙ながらに立ちすくんでいたと言う。[要出典]この中にはごみ同然に捨てられている遺体を丁重に葬るため、身分を捨て部落民になる者もいた(伴百悦)。>
抜粋(戦後処理の部分)資料↓
会津戦争-Wikipediaー(←クリック!)
何故?新政府軍(明治政府軍)はこんな事をしたのだろう?
よほど!東北の諸藩や会津藩が怖かったのだろうか?
それにしても,あまりにも
「むごい」!
これが!「戦争」というものなのか!
参考になるのかな?
※1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。
※(平成23年)3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問した。
※2012年(平成24年)11月26日、萩市長は会津支援の一環として会津若松を訪問し、
白虎隊士の墓前に献花を行った。
Posted at 2013/06/16 17:56:47 | |
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