
ポルシェを語る人は多い。しかし、世界でもっとも成功しているスポーツカーが内包している狂気に正面から向き合う言説に出会うことは稀だ。なぜ俺は911が好きで、欲しいと思うのか。だって、カッコイイじゃ~ん。シンプルに答えることに何ら抵抗はない。というより、ごちゃごちゃご託を並べていないでさっさと行動に移したほうが、スポーツカーの本質に迫れるはずだ。当然、そのほうが核心を突いている。
スピードがすべてだ。四の五の言っても、Gravity(重力)に抗うことで得られるあらゆるディメンションで体感されるスピードに肉体が緊張し、その難局を克服することでエンドルフィンが大量に分泌され、それが無上のカタルシスをもたらす。20代でスピードレースを志し、駆け出しライター時代の30代には自動車メーカーのパワー競争に先駆けて花開いた最高速トライアルの洗礼を受けた。
1983年には当時最高の288㎞/hを雨宮REのSA22ターボで記録しました。今はなきJARI(谷田部)の高速周回路で油温計の針がタコメーターのように跳ね上ったのが鮮烈な記憶として残っている。すでに消滅してしまったト○ストのXX(スープラ)ツインターボではフロントタイヤのバーストを経験している。谷田部の設計速度190㎞/hのバンクでアウト側前輪に掛かるストレスに耐えられなかった。その時の記録はたしか276㎞/hほどでした。VR規格のピレリP7がハイパフォーマンスタイヤの最高峰だった時代である。
速度にたいする人の反応には段階があるようです。人間の最高速は約36㎞/h。最高の素質を鍛え上げた結果得られるスピードです。クルマはそれを楽々と超えて行きます。慣れないと100㎞/hも怖いし、日本では150㎞/h以上を経験した人の比率はかなり小さくなるのではないでしょうか。200㎞/h経験者はどのくらいだろう。300㎞/hを経験した免許保持者は日本では間違いなく少数派です。
これは経験から学んだことですが、250㎞/hというスピードは何度経験しても安楽という境地には至れない。見た感覚だけで走る有視界走行ではどれだけ経験を積んでいてもそう長くは持ちません。多分それは、人間の神経系で最速の有髄神経の伝達スピードの制約によって情報処理能力に限界が訪れるからで、250㎞/hからはハッキリと世界が変わる。アウトバーンを持つドイツメーカーが250㎞/hの紳士協定を結んでいる根拠は、人間の生理限界を理解した結果だと僕は理解してます。未だその件について質問する機会を得ていないのですが。
プロフェッショナルドライバーがそれ以上のスピードに対応できているのは、有視界ではなくて経験から学んだイメージによって先読み走行をしているからで、リアルタイムで情報分析していたら当然間に合いません。300㎞/hは、秒速で83.3m。視野の外側は色を識別する時間が不足してグレーになってしまいます。これも動体視力を鍛えることで対応することは可能ですが、完全にプロの領域となります。
圧倒的なスピードによって得られる陶酔の境地は、一度味わったらなかなかやめることのできない麻薬性を持っています。当然です、体内で分泌されるモルヒネを意味するエンドルフィンのひとつβ-エンドルフィンはA10神経系から放出される快楽物質ドーパミンの量に関与している真正の麻薬物質であることが分かっている。エンドルフィンの発見は比較的最近で1975年のことです。
70年代のレース経験を起点に80年代を業界最速系の走り屋として君臨し、85年の事故を契機にそれでも走ろうとする理由を求めて物の本を漁って行く過程で『パンツをはいたサル』の栗本慎一郎に出会い、パンサルの自作の『パンツを捨てるサル』(88年初版)でエンドルフィンやらドーパミンの存在を知りました。栗慎は明大の教授でしたが、同じ明大の哲学教授で『<身>の構造』を著し身体論の地平を広めた市川浩先生の話は以前にも書きました。
ま、スポーツカーにかぎらず、人間の身体機能の拡大装置として存在しているクルマはすべてからくエンドルフィンとの関わりを強く持っている。たばこと同じかそれ以上に一度クルマを知ってしまうとなかなか手離せなくなるのはそういう仕組みであるからです。モビリティによる快楽を知ってしまった人類が、そうやすやすとクルマを手離すことはないでしょう。この場合、それがガソリンエンジンだろうが電気モーター駆動だろうがどうでもいいことになります。クルマは便利な道具としてあるというより、快楽の装置として存在してる。この大前提を忘れないほうがいいですね。
ポルシェは、やっとポルシェですが(笑)、この快楽の装置として存在し続けることをスポーツカーの最大の存在理由であると腹を括った数少ないスペシャリストであると言い切れます。常にドーパミンどばどばのレースシーンに身を置き、不即不離の関係でスポーツカーの最善を求めている。同じところにいる対極がイタリアのフェラーリで、僕としては両者を異質と捉える気はさらさらなくて、どっちも好き。片方の側について意地を張るのはもったいないと思っている口です。
空冷時代のシャイ~ンという日本刀の鞘走りにも似た快音に代表される、ゆっくり走ってもボルシェはポルシェという味わいは年代を追うごとに薄れ、常用域ではかつての刺激的な味わいが得にくくなり、その一方で300㎞/hというバーチャルな世界を現実のものにするという浮世離れした狂気だけが増幅している。突っ込みどころ満載で、これでいいのか? バカボンのパパに聞きたくなる危うさが際立ってきているけれど、乗るとねぇ。長くなったので、今回はここまで。
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2010/11/26 18:04:37