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2022年04月12日 イイね!

花はどこへ行った そのメッセージ by 忌野清志郎 

花はどこへ行った そのメッセージ by  忌野清志郎 Where have all the flowers gone?
日本語のタイトルは「花はどこへ行った?」である。

米国のピート・シーガー の作詞・作曲による。
キングストントリオが、1961年にレコード発売。

少し遅れて、PPMことピーター・ポール&マリーの歌が
世界中で大ヒット。


以後もブラザース・フオー、ジョーン・バエズなど著名シンガーが歌い、ヒットを続けた。


世界一有名な反戦歌とも言われる。  *ウィキペディア より

50代以上の方なら、ご存じの方も多いと思う。

そして、最近知ったのだが、この原曲は旧ロシアのコサック地方の民謡であると・。
コサック地方とは、現在のウクライナである。
ロシアの理不尽・不条理極まる侵略に、国民一丸となって勇敢に戦っている。

ウクライナ民謡が原曲とは・・。これも何かの因縁であろう。


*ひまわりはウクライナ国花である。青空と、ひまわりの黄色が国旗なのだ。
いつか、どこかの公園近くに咲いていた、夏のひまわり。

さて、日本でも数多くの有名歌手が、この曲をカバーしている。歌に意思があるとすれば、
そのメッセージを一番的確に表現したのが、忌野清志郎さんの意訳だろう。
生前はRCサクセッションのリーダーと言う事位しか知らなかった。
歌も、偶然に「雨上がりの夜空」くらいしか聞いた事はなかった。

だが、彼のこの曲を聴いて胸を打たれた。
彼は、歌詞の言葉を大切にして、正確な日本語の発音が出来ない曲では、歌詞ではなく、
正確な発音が出来るようなメロディに、変えていたと言うから驚く。
あの独特の声、歌い回しは「忌野清志郎」ならではのものだ。

歌詞 忌野清志郎 花はどこへ行った? 動画中の青年時代のイケメンには驚く。




・野に咲く花は、少女の胸に その少女は恋をして若者の胸に・・
・その若者は兵隊に取られて戦死。小さなお墓に埋められた。
・長い月日がたち、お墓の周りに花が咲く。
・その花は、また少女の胸に抱かれる・・  と物語は繰り返される。


仏教の輪廻の世界観とも通じる歌詞である。

忌野清志郎さんが亡くなったのは、2009.5.2。早くに亡くなったので、自分より大分年上
かと思っていたが、同年代とは最近まで知らなかった。

希代のロックンローラーにして、平和を訴え続けた反戦歌手。
心優しき忌野清志郎(本名 栗原清志)さんの、ご冥福を改めてお祈りします。
天国から舞い降りて、またこの曲を歌って欲しい。
高尾山で有名な高尾霊園に眠る、清志郎さんの墓参をしたい。

21世紀になってもこんな恐ろしい戦争が、現実に起きるとは・・。
TVで悲惨な状況を見る度、ステッカーを買いガレージ引き戸に貼り続けている。



*未完のスイフト用ガレージ引き戸に大きめサイズ5枚。郵便受けに1枚。
 3年前に特注した引き戸は排ガス直撃で、はやボロボロ。小5枚は、バイク・車に貼付。

単に寄付金付きと、あやふやな言葉ではない、宛先・寄付金額まで明示された会社のものだ。
*詐欺も多いようなので、要注意である。
国境なき医師団に、ステッカー代金の半額が寄付される。(大きめ300円程)
実際の寄付金領収書の写真も出していた、東京都世田谷区のゼネラルステッカー社だ。
 Amazon から日本赤十字に商品を買うと同じ手順で寄付も可能だ。




どうか、平和が早く訪れますよう毎日祈っています。
そして、戦争犯罪人が裁かれん日が、必ず訪れますように・・。




樹齢2千年超とも言われる山梨県実相寺の神代桜。
神代の時代、日本武尊が植樹。鎌倉時代、日蓮上人が手入れをしたと伝わる悠久の時を
過ごしてきた、生きる神話の古代桜である。

数々の災害・数々の戦乱を生き延びてきた古代桜に戦争の終結を祈りたい。
写真は、桜の花数が減ってきたと心配されていた10年前の姿。
その後、たゆまぬ樹勢の回復に努め、近年は再び勢いを取り戻したようだ と、
複数のみんトモさんのブログを拝見して大変嬉しかった。
この話は、いずれまた・・・。

2019年08月07日 イイね!

誓い  

誓い  何を言っても相手は黙っている。
だから・・また言う、やる。
己の支持率のカンフル剤ではこの国はたまらない。

だが、思わぬ反撃にうろたえるばかり。
かの国との騒動は先が見えない。

世界もまたしかり。




銃砲には寛容な理念なき独裁者が権力を振り回し、世界は混乱。、長年の英知
の結晶である秩序を次々と破壊。先の見えないカオスの世界になった。


こんな年にも、この日は来た。

1945年8月6日 8時15分 広島に原爆投下 8月9日 11時02分 長崎に原爆投下  
犠牲者は46万人以上と言われ、うち22万人が投下のその年1945年に亡くなった。



* 長崎平和祈念像 ネットフリー画像より

理念は喪失してエゴだけが一人歩く。

国家のエゴが行きつく先は戦争への階段だろう。

亡くなった多くの方々は、今をどう見ているのだろうか? 不甲斐ない自分である。

助け合って生きる の心がなくなりかけている。

震災の頃や自分の辛かった、あの時代を思い出してみよう。




助け合えば、個々では弱くても、強く生きられる。人間も動物もである。
だが、協力より対立が今の世界には増えているように見える。


*地域ネコとなったブルーアイの忘れ形見。白黒オセロ兄妹。シロスケ・チビスケ
肌寒い早春の朝。


いつの日か、世界に平和が訪れますように。

分かり合える日が来ますように。


夢と言われても、夢が人間の生きる希望であろう。




原爆投下の僅か3日後に走り始めた広島市電。
昨年時点では、未だ現役車両と言う事で驚いた。復興への原点の写真である。

心に刻みたい光景である。

お亡くなりになった多くの皆様の魂安らかに と祈ります。
合掌。


2018年08月07日 イイね!

日本の節目 

日本の節目 昨日、NHK・BS放送で「日本の一番長い日」が
放映されていた。

もうこの時期か・・ こんな感慨が頭をよぎる。

NHKでは毎年この時期に、戦争に関する映画、
ドラマ、ドキュメントを放映している。



全世界で、5000-8000万人が死亡したと言われる第二次世界大戦。

日本でも280-320万の方々が、戦争の犠牲になっている。
それも、軍人よりも一般市民のほうが圧倒的に多い。

日本の戦争犠牲者の内、その1割近い21-24万人が広島・長崎の原爆で亡くなった。
*後日の死亡者は含まず。

投下直後の火球中心温度は、100万度に達し、10秒で物質は消滅した。



竹のしなやかで強靭な秘密は、その節にあると言われる。

8月6日・9日そして15日は、日本史上の大きな大きな節目である。

節目を大事にしない人間は、他人や己さえも思いやる事が、出来ないとも言われる。

この時期、関連放送を見聞きして、自分が知る事から始めたい。

生きている人間の努め・使命として、この戦争を風化させてはならない。
伝承すべき事実を、自らが学ばねばならない。

伝承せずして先人達の戦争体験を現世代が風化させたら、日本のこの大きな節目はなくなり、


日本の明るい強靭な未来もまた、なくなるであろう。


*原爆投下の僅か3日後、運行を再開した路面電車。驚く事に、今も現役とか・。

奇しくも終戦の日とお盆が重なったのも、日本ならではの因縁かも知れない。

母が存命中、お盆時期になると黄色い蝶が庭を舞っていた。
「今年もお父さんが来たね。」 と、母は蝶を見ると言っていた。

そして、お盆が終わると蝶は、いなくなった。これが、何年も続いた。

今年は母の三回忌であった。母が亡くなると黄色い蝶は、それきり姿を見せなくなった。
誠に不思議な、お盆の出来事だった。

いずれ二羽の蝶が、私を迎えに来るだろう。

日本で二度と戦争が起きない為にも、過去の伝承は、災害の伝承と同じように大切である。



風化させないで と多くの戦没者が叫ぶ声が聞こえるようだ。

戦没者の魂が、安らかにと心からお祈りいたします。  合掌。

*写真は、ネット掲載写真をお借りしました。


政治的コメントは、ご遠慮下さい。



2015年12月11日 イイね!

時空を越えて 青い目の人形 写真全差替え版

時空を越えて 青い目の人形 写真全差替え版赤い靴・七つの子・シャボン玉などの童謡を
ご存じと思う。詩人・野口雨情の作詞である。

現在では歌われなくなったが「青い眼の人形」と言う
童謡も、野口は作詞した。「青い眼をした、お人形は、
アメリカ生まれのセルロイド・」と言う、あれである。

下写真の人形がそうだ。*写真は荒川の悠久たる流れ。 
実際は、セルロイドではなく陶製だが・・。



昭和の初め、日本が中国に侵攻、世界の非難を浴びて国際連盟を脱退した頃の話だ。

アメリカも日本に石油の輸出を停止、日米関係は悪化する一方だった。


これを心配したアメリカの宣教師が、アメリカ人形を日本に贈ろうと言う運動を始めた。
運動は全米に広がり、各地から12,738体のアメリカ人形が集まり、日本に贈られた。
*その後、日本も返礼に日本人形をアメリカに贈っている。

この人形は、日本全国の小学校に贈られた。
学校では、入口や廊下などにガラスケースに入れて展示をした。



子供達は、それぞれに名前を付けて学校で人形に挨拶し、会うのを楽しみにしていた。


しかし、願い叶わず日米は戦争に突入「敵国の人形は焼却処分せよ。」 との命令が、
文部省から全国の小学校に出た。


こうして青い眼の人形は、学校で焼却処分された。
「お人形さんを焼かないで!」


と、子供達の泣き叫ぶ声も届かなかった。

日本だけで312万人、全世界で8000万人もの人々が死亡した第二次世界大戦。

戦後の平和が訪れても、人形は表に姿を現わす事がなかった。
全ての人形が、焼かれたと思われていた。

それが今から10年程前だろうか? NHKのドラマで、この人形の話しが放映された。

「お人形さんを殺さないで!」と、泣いて訴える子供たちに、心ある一部の教師が
応えて、人形を密かに学校の天井裏に隠したのである。

ドラマは、見つかれば教師が監獄行になると言う、勇気ある行動を讃えた。
そして、隠されていた人形に光が当たるよう訴えたのである。

TV放映の後、各地に隠されていた人形達が、70年の時空を越えて出て来た。
戦後70年、晴れて日の光を浴びる事が出来た。

*下写真は、東秩父村・和紙の里博物館展示のもの。名前はマーガレットフォツクスだ。
パスポートも持っている平和の人形大使だ。ー クリック拡大で




全国で現存する青い眼の人形は、僅か370体程と言われている。
中には暴行を受けて、傷ついている人形も、かなりあるらしい。

埼玉県では、ここでしか見たことがない。
横浜市では、二体展示されていたのを見た。ここも横浜市の人形も、幸い無傷だ。

下写真は、人形が密かに保管されていた村の小学校。




茶道教室の押し入れに、密かに保管されて生徒達も知らなかったそうだ。
代々秘密裡に、保管されてきたのだ。*現地で聴き取り取材した。

上・見晴らし台の後方に、村の戦没者の名を刻んだ慰霊碑がある。 
下・白い建物は、展示されている和紙の里・博物館。ここから下3枚は和紙の里。   



ユネスコ世界遺産・細川紙の紙すき体験施設。


移築された江戸時代の紙すき農家。中に入れる。広い土間がある。


人形が贈られた時代から、70年以上も経っているのに憎しみの連鎖・戦争は絶えない。
人形の青い眼に今の時代は、どう映っているのだろうか?
人形達に込められた当時の日米庶民の志を、我々は知るべきだ。

東秩父村近隣には、平和都市宣言を掲げる自治体が多い。

隣町・小川町(左)と、越生町(右)平和宣言看板。右・山上は、県立・世界無名戦士の墓。
*6月にみんトモさん達と、食事した印度人経営のカレー屋さん。



もしどこかの街で「青い眼の人形」を、見かける事があったら思い出して下さい。

この話しを。



*村の林道から、秋の里山風景を見る。

*4年前の入会年に前後編でUPしたものを、撮直し・追加写真と共に、全て書き直したものです。
語り伝えたい話しです。写真は小学校以外、全てを新しい物に差し替えました。

↓ 林道三昧ブログあります。↓↓ フォトギャラUPしました。
2013年03月08日 イイね!

さらばゼロ戦 ! 日本自動車産業の礎にー ポルシェを破る快挙

さらばゼロ戦 !   日本自動車産業の礎にー ポルシェを破る快挙1.どんな時代にもヒーローがいる。

昨年末に「ゼロ戦来る。」とUP しました。
早や三月。ゼロ戦の展示も、今月一杯となりました。
世界で唯一稼動するゼロ戦が、アメリカ博物館から
里帰りしている。数年前までは、飛行可能だった。

現在は、栄エンジンの老朽化で始動が精一杯とか。




日本の航空技術が、世界に冠たる事を示したゼロ戦。

当時、日本の科学技術は欧米より低いと世界から見られていた。だが、速度、航続距離、
運動性能、攻撃力 全ての項目で、一気に当時の世界最高性能を、出したゼロ戦。


「ゼロ戦とは1対1 では戦うな。」 との指令が、米軍に出たほど強かったゼロ戦。



他の展示機とは違い、実動機だけが持つ「凛とした佇まい」が、このゼロ戦にはある。
これが恐らく「今生の別れ」 となるだろう。


我が少年時代のヒーロー。それがゼロ戦であった。






2.戦後 日本自動車産業の礎 に

1966.5 新設の富士スピードウェイにおいて、第三回日本グランプリレースが行なわれた。
この大会から従来のクラス別を一本化して、チャンピオンカーを決める方式に変更されていた。

当時弱小メーカーだったプリンスは、国策により日産に吸収・合併が決まっていた。
プリンス自動車は、この最後のレースの為に、持てる技術の総力を挙げR380を開発。
雪辱を期して日本グランプリに臨んだ。


前回大会で、惨敗したポルシェを破る為である。
*プリンスは、2.0GTで参戦。国産他車を圧倒したが、ポルシェレーシングカーには、
全く歯が立たなかった。この大会、最新型ポルシェレーシングカーが参戦してきた。

ライバルは、ただ一車。このポルシェ最新の、純粋レーシングカーであった。
だが、当時の国産メーカーとポルシェでは、市販車の性能においても、雲泥の差があった。

「勝てるはずがない。」 と、だれもが思っていた。


だがプリンスR380は、大方の予想を覆し勝った。


砂子義一が操るR380は、スタートと同時にトップを快走したが、追走するポルシェに
18週目で抜かされた。だが、砂子は諦めず、デッドヒートの末、R380が再び抜き返した。
焦ったポルシェはスピンして壁に激突。リタイアした。この時点で、他車は既に周回遅れ。
R380は、一気に270Km/h に加速。他を寄せ付けない独走となった。

あのポルシェを、打ち破ったのだ。それも遥か、半世紀以上も前に・・・。
日本中が沸いた快挙であった。



* ポルシェとR380 伝説のデッドヒート(再現写真)。 先行車がプリンスR380. Wikipediaより

トヨタ・日産のレーシングカーは、全く問題にせず、3周以上の周回遅れに引き離した。
そして、そのまま2位以下を3周以上引き離し、ぶっちぎりでゴールした。

*プリンスのドライバーは名手・砂子義一。他社も生沢徹・片山義美・式場壮吉・高橋国光
など、日本を代表する名ドライバーがステアリングを握っていた。

あの伝説の名手・浮谷東次郎も、トヨタのドライバーとして参加していた時代である。
変わったところでは、徳大寺有恒(本名・杉江博愛)も当時のトヨタ・ドライバーだった。   


当時のプリンスは、ゼロ戦の「栄」エンジン設計者(後の日産自動車専務)中川良一氏
(故人)や、他にも、優れた航空技術者を擁していたのである。

当時の日本では、出来なかったアルミボディの溶接、エンジンのDOHC化などを次々と
やってのけた。激しいコーナリングでもオイルが循環する、スカベンジングポンプ等、
持てるゼロ戦の技術を、全て注ぎ込んだ。




そして、ポルシェに引けを取らないエンジンや、軽量アルミボディで互角の車を造り上げたのだ。
更に、これが弱小メーカーだったプリンスによって成された。


「虎は死してその皮を残す。」

の諺通り、プリンスは合併された日産に、そのゼロ戦の技術を継承したのである。
技術の日産の誕生であった。そしてこのR380こそ、数々の神話を創った、


スカイラインGT-Rの原型なのである。

ゼロ戦の航空技術は、現代の日本車に脈々と受け継がれているのだ。

そんなゼロ戦が生まれ故郷を離れ、米国に帰る。再び会う事はないだろう。


惜別の思いを込め、さらば ゼロ戦 ! !
忘れないよ !


*ゼロ戦4部作 最終回 ご覧頂き有難うございました。
2024.12 一部追加訂正等・再編集

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「[整備] #エスクード テールランプユニット防水シールDIY+交換 https://minkara.carview.co.jp/userid/1110056/car/855706/8326676/note.aspx
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