
もう30年の月日が流れました。
平成3年5月14日
信楽焼で有名な陶器の郷、滋賀県の信楽では 信楽世界陶芸祭 が開催れていた。
事故当日も、単線の信楽高原鐵道に京都から乗り入れた超満員のJRの臨時快速列車ディーゼルカー3両編成は
単線のすれ違う退避線に入ったが出発信号が 青 で進行方向のポイントは切り替わっていた為、前から来るはずの信楽高原鐵道の車輛を待たず超満員のJRのディーゼルカーキハ58他3連は、青信号現示を確認して
峠の山にエンジン音を轟かせ3両分排気煙をぶわーっと屋根から出して退避線分岐を渡り発車してしまった。
その後、出発が遅れ、信号所の退避線まで飛ばしに飛ばしていた信楽高原鐵道の列車と
不運にも見通しの悪いカーブで出くわし正面衝突・・・・
・・・完全なるヒューマンエラーであった。
狸の置物など、信楽焼の名で有名な陶芸の郷、滋賀県甲賀市信楽町で毎年開催されていた信楽世界陶芸祭。
この年も「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」として平成3年も開催されていた。
現、第三セクター鉄道の信楽高原鐵道は単線であり、
数輛のレールバスの軽量車輛で単行運用では到底賄えるはずもなく、
この陶芸祭開催時期、30万人を超える来場者数に対し、少しでも輸送力を賄うため、JRから京都発のディーゼルカー、キハ58・28型3連の臨時快速列車「しがらき号」の直通列車を乗り入れていた。
本数が増えた期間中の対応として事故当時は来場者の輸送に追われていた。
臨時の人員に加え、信号システムの技術員までが動員して何万人の乗客をさばいていたほどに信楽駅は大混雑しており、
途中ですれ違いの列車交換のための、その部分だけが複線の信号所(小野谷信号所、事故後は撤去された)の上下線どちらかから来た列車を退避させ、進行方向からやって来る対向の片方の列車を通過させてから出発の本来の定期運行の輸送が絶対条件であった。
しかし、この信号システムには故障が続発していた。
尚、事故前ゴールデンウイーク期間中にJRは信号所に進入出来る両数最大の4両編成で乗り入れて運行していたが、その5/3にも信号故障は発生していた。
偶然にも事故日14日、JR側は同じ運転士であり、5/3の時は小野谷信号所に居合わせた職員が自ら信号所の分岐器の操作をしてポイントを変えて、信楽駅まで添乗してこの列車を運行したが、
14日の故障は信楽駅の信号繋電気室での復旧作業が難航し
事実上運行期間中に信号系を修理するという重大な違反をしていて
信楽駅ではパニック状態で信号保寸係員が信号所へ行けず
更に最悪な事に 青 の信号でポイントも進行方向へ誤作動で変わってしまっており、その為添乗なしでJRの退避列車のこの運転士はその青信号を現示確認して出発させてしまい、途中で遅れを取り戻そうと飛ばしてきた信楽側のフル編成4連と、まさか正面衝突になって数分後死亡するとは思いもしなかった筈だ。
上記の事故当日、平成3年5月14日
この日も故障が発生し、信楽駅から貴生川駅へ向かって出発しようとしたSKR200型軽量車輛4連は、出発信号機を青信号にしようとしても赤信号のまま切り替わらず、出発ができず、上記の様に信号所の信号は最悪な事に 青 でポイントも切り替わってしまっていた。
信号繋電気室での復旧作業での過程で青信号になってしまっていたのである。
決められていた代用閉塞扱いとし、指導員(夜勤明けで帰宅予定の運転士他)を添乗することで11分遅れの10:25頃に発車させた。
一方、対向列車の進入を阻止しないといけませんが、
信楽高原鐵道側は 列車誤出発検知装置 を頼りにしていた。
また、数多い故障の為、また陶芸祭期間中の小さな信楽駅は大混雑状況下で安全意識が薄らいでいたのが大事故を招いた。
係員が小野谷信号所に居るJRの列車に代用閉塞扱いで信楽高原鐵道側の車輛が出発する事を口頭で要請を伝えるべく乗車をする為クルマを飛ばして信号所へ到着する前に
そのJRの京都発貴生川駅から信楽高原鐵道へ乗り入れて走って来た臨時快速列車の超満員のディーゼルカーは
誤作動の信号が 青 だったため、既に発車して居ませんでした。
しかもポイントは進行方向へ切り替わっていた....
列車誤出発検知装置が作動し、信号が 赤 になったのは
ここですれ違うはずだった対向の信楽高原鐵道の車輛が信楽駅を11分遅れて発車してしまった後だった。
すなわち、遅れて発車したその前に退避していた対向のJR車輛は故障で間違いの 青 の時に現示を確認して既に信号所を出てしまっていた・・・
一方、信楽高原鐵道の陶芸祭輸送用に増結連結した軽量車輛フル編成4連は、
列車誤出発検知装置が作動し、信号所の信号が 赤 になり、その為小野谷信号所でまだ退避しているはずだったJR車輛の対向すれ違いの為にかなり飛ばして走行したが、
退避線を出発してしまったJRの車輛と不運にもカーブで出くわし
正面衝突・・・・
瞬時に折れ曲がり破壊してしまった車体の床下から外れて脱落したエンジン機器付近からは煙が燻ぶった。
国鉄時代に製造されたJRのディーゼルカーの1両目、2基エンジン搭載の重量級車体のキハ58-1023は
超満員のまま強固なはずの重いスチール製の車体の1/3が一瞬で空を向いて折れ曲がり、一瞬の衝撃で乗降ドアが折れ曲がった車体からぶら下がり、前部は原型を留めず大破。
遅れを取り戻そうと飛ばしていた信楽高原鐵道の軽量車輛SKR200型の先頭車202は
衝突したJRの国鉄時代の重量級1両目キハ58と隣に連結の2両目204に挟まれ、瞬時に押し戻された数十トンの圧迫力と共に破壊粉砕され、
衝突したJR車輛の前面を合わせたまま瞬間的に上方へ弓状に折れ曲がり、
軽量車体の202は原型をとどめておらず、2両目の204も202に圧し潰され前部分が大破してしまった。
余談だが
淘汰された国鉄からのJR発足後に赤字ローカル線を引き継いだ第3セクター鉄道がこぞって発注導入した信楽側の富士重工製SKR200の車体のバス窓構造は
この事故の様な、重量のある国鉄時代製造のスチール製頑丈車体との正面衝突は想定外だが、バス向けの部品を多用し価格低減した車体構造の強度が指摘され、もともと短寿命であった同類車体ではあったが、1990年くらいまでに各線区共早期廃車淘汰されて消滅してしまっている。
尚、以降の製造車体は設計改良され、窓の構造も従来の鉄道車両と同じ設計の構造体となった。
JR側は乗客30名、信楽高原鐵道側は乗客8名
双方の本務運転士と添乗の信楽の職員5名を含む計42名が犠牲となり、
614名が重軽傷を負う大惨事となり、信楽側の生存乗務員は車掌乗務の1名だけであった。
尚、JRの3両のディーゼルカーは、定員の2・8倍の乗車で超満員運行であった為、多数の犠牲者が出てしまった。
信楽高原鐵道の職員の20人のうち、この事故で一気に5人を失った。
事故の要因である信号トラブルは、
信楽高原鐵道とJRが近畿運輸局の認可を得ずに信号制御の改造を実施し、また列車無線周波数が双方で違うなど、そもそもの根本的な意思疎通が全く行われておらず、
またその信号制御改造の為に故障が多発し、
事故当時はともかくの、数々の信号トラブルも運輸局に報告せず、またトラブルの為発生した特殊な閉塞を乗務員にきちんと周知もしておらず、当該の事象が裁判で問いだたされた。
事故後、小野谷信号所は撤去され、二度と点らない信号機は横を向いている。
また特殊な閉塞(人的な信号と信号との間の列車の進入措置)は見直され、他線区にもあった同じようなJRから第三セクター線への乗り入れ運転は廃止され、それまで航空機事故などで設置されていた 事故調査委員会 が鉄道分野でも設けられた。
信楽陶芸祭「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は会期を5月26日まで残していたが、事故翌日15日からそのまま中止され終了となった。
さらに事故の補償で巨額の保証金支払いに迫られた信楽高原鐵道は
一連の裁判の終結後2012年2月に自力再建を断念し、県・市からの基金を保証に充てたが債権放棄の事態になり、
遺族との裁判は平成25年まで続き、
現在、信楽高原鐵道は信楽線の第二鉄道事業者となり、線路や車輛などの運行事業は滋賀県甲賀市が第三種鉄道事業者とした分割方式として運用されており
閉塞システムは一掃の改良をされ一方進行方向での運行にされている。
事故現場近くには慰霊碑が建てられ、営業列車は現場のカーブ付近は力行せず徐行で運行している。
毎年、事故発生日5月14日には追悼法要が行われ、犠牲者の数と同じ42本の蝋燭が灯され、鉄道事業者2社の社長が設置された 「安全の鐘」 を鳴らしている。
単線区間の致命的な大混雑で全く対応しきれずの、成っていないパニック状態下での運行状態が追いやった人的大事故。
事故を風化させず、教訓を引き継いで行ってもらいたいと思います。
忘れてはいけません。
ここに、犠牲になられた方々に哀悼の意を表します。