2009年08月23日
『いろんな人がいた』 何で?と何で? ややこしい三十路の始まり 1982年
そういうことで、有限シビックのシートは後輩君に譲ったわけですが、その緒戦の結果を見て心底後悔した。だっていきなりクラッシュ全損(それもたしか予選ではなかったか?)だもの。よほど勇気があるのか無能なのか。人ごとなので当時の記憶はいい加減ですが、現場に立ち会った覚えはありません。あの頃はF2の取材を担当していたはずですが、さて、どうだったか。
まさか昨年愛用したマシンが初っぱなでスクラップになってしまうとは思いませんでした。この後輩君には後日談もありました。マシンを新調して臨むことになった第二戦。ボクはアドバイザーとしてピット入りしました。F2取材のついでということだったと思います。決勝は完全なるウェットコンディション。鈴鹿で初のレースらしいレースを闘う身にはかなりプレッシャーの掛かる状況でした。
そこでスタート直前、中段のグリッド上で、「この状況だとこうなるから……」と念入りにレースへの入り方のアドバイスをしたわけです。「第一コーナーでは必ず波瀾がある」「前方でコース上が混乱したら、多くを考えずイン側のダートに回避して、ポジションを確保するように」
果たしてスタートはその通りの展開となりました。上位のマシンが複数絡みコース上は大混乱。後方に位置する者にはまたとない状況になりました。有限シビックの後ろ姿を追いかけると、大混乱の第一コーナー手前で助言通りインに切り込み、少し長めにダートを走ったあとコースに復帰して行きました。やった! 作戦成功……。このまま1、2周走ってポジションが落ち着けば、案外良い結果が得られるかも……。思っていると、マシンが帰って来ません。
原因はなんとエンジンのブローアップ。ノーマルカーのエンジンがブローアップとは穏やかではないですが、インに切り込んだ後強引にアクセルを踏み続けたらしい。結果、ぬかるんだ路面にホイールスピン。エンジンがオーバーレブしちゃった。
がむしゃらに走り抜けたことが命取りとなったわけです。元気が良いというかなんというか。その彼が、今では日本のドライビングインストラクターの草分けとして名を馳せている。人の未来は分らないの典型ですかね、これも。
似たような経験がその後もう一度ありました。1991年、これもホンダがらみの話なのですが、当時の広報担当者から、『N1仕様のシビック(旧型EF9)を貸与するから日頃あまり機会に恵まれないジャーナリストをピックアップして、N1耐久シリーズに参戦してほしい』そんな申し出がありました。
そこで、現在のジャーナリスト協会の会長をはじめ様々な同業者に声掛けし、何戦かすることになりました。K会長と走ったSUGOではクラス何位かに入ってトロフィーをもらいました。
その内の一人にS君がいたのですが、『レースに出る以上、結果をださなくては意味がない』表立っては何も言いませんでしたが、裏で当時若手の新人広報マンを丸め込んで、チームコンセプトを変える動きを見せ始めました。
そもそも勝ち負けにこだわるならS君を選ぶ理由などどこにもないわけですが、結果的にそういうことになって、チームの主導権はよそに移ってしまいました。そして、その後こういう勝敗にこだわらない形でのジャーナリスト『育成プログラム』はなくなってしまいました。
彼はあの時ボクが指名してピックアップしなければ生涯レースに出場する機会は得られなかったはずですが、今ではレース経験者ということを肩書の一つに加えています。いろいろな人がいるものです。
お人好しは生来のものですが、軒を貸して母屋……という境遇は、これまで随分多く経験したような気がします。その辺の話は追々ということにしますか。
そして、1982年の秋にはとても悲しい事故が起きてしまいます。
つづく
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Posted at
2009/08/23 15:18:32
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