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伏木悦郎のブログ一覧

2009年11月14日 イイね!

子供はそれを望んでいなかった?

子供はそれを望んでいなかった?"子供と一緒に、どこ行こう"オブラディ・オブラダの軽快なメロディに乗ってステップwgnが登場したのは1996年5月のことである。

そのタイミングは、ベースとなるシビックEK型(6代目)から8ヶ月後、ホンダ・クリエーティブムーバーの元祖として一時代を築いた初代オデッセイ登場の19ヶ月後だった。

多くの人にとってはすでに記憶の彼方に沈んでいると思うが、バブル崩壊後のホンダは急激な業績の悪化に直面していた。

物質的な豊さの極致ともいえるバブル経済は、それまでの大量生産/大量消費を前提にした年功序列&終身雇用制度を背景にした画一的、均質的なクルマ作りを突き抜け、格差をともなう多様化の時代を出現させた。

その一つの現象として90年代初頭に盛り上がったのが"新しいモノ探し"の結果としてやってきたRVブームだった。パリダカラリーの盛り上がりという副産物もあったが、パジェロを牽引車とする三菱の隆盛は、ホンダを合併によって呑み込む?という噂さえ立ったほど。

そんな時代がいつまでも続くはずないよ……1フリーランスの諫言など聞く耳持たぬ態度で変化への対応を怠った同社が、後に様々な問題を噴出させやがて存亡の危機に瀕したのはご承知の通りである。

オデッセイが登場する前の90年代前半。90年に初の本格スポーツNSX、翌年に軽ミッドシップBEATを発表したところでバブル崩壊。RVブームに対応する術もなかったホンダは存亡の危機に瀕する。

そこで90年に社長に就任したカワさんが取った施策が、まずレジェンド、アコード、シビックという屋台骨を支えるセダン系を、販売面での量的主力市場となる北米向けに仕立て上げること。

こんな退屈なクルマを作るメーカーに入ったわけじゃない!当時の若手エンジニアや広報マンからどれだけ愚痴を聞いたことか。しかし、カワさんの深謀遠慮はやがてホンダを活気づけることになる。

3本柱をきちっと作った上で、それをベースに最も遅れて参入するファミリー向けのマルチパーパスをシリーズとして展開する。その嚆矢が1994年10月20日に発売されたオデッセイだった。

北米シフトを強めて初めて3ナンバーボディ化したCD型アコード(93年9月発表)とプラットフォームを共有し、同じ狭山工場でアコードの生産ラインを変更することなく流せるよう車高を1650㎜以下に抑える。

画期的なアイデアによる3列シート、スウィングドアのミニバンは、発表と同時に爆発的なヒットとなったが、当のホンダはこれまでのクルマ作りとはまったく異なる新機軸に半信半疑。よほど不安だったとみえて、事前に栃研にジャーナリスト20人近くを集める大規模クリニックを行なった。

そこでの評価は「走りはホンダらしくていいけれど、このスタイリングは……」お歴々は一様にネガティブというトーンに終始した。そこでの僕は確か最年少だったと思うが、大方の意見に反して「間違いなくイケると思います」唯一全面的にポジティブと断じた。

その場での発言だけでは不十分だろうから、後で意見を書いてFAXするよーに。言われて送った書面があったから、開発陣/広報サイドには了解されていたはずである。

初代オデッセイにはユニークな点がたくさんあったのだが、開発責任者RADが個性的だった。いわゆるエンジニアではなく、広報/営業畑を歩き、POWERED BY HONDAなど数々のキャッチフレーズを考案した個性派だった。

アリさんがオデッセイ開発に際してエンジニアに指示したのは「エンジンは余計に回すな」に始まる、それまでのホンダイズムにはない発想。ホンダといえばVTECに代表される高回転・高出力を以て良しとする社風。だが、ファミリーカーにそれはないだろう……徹底した現実主義が貫かれた。

2.2Lの北米アコードをベースにそのまま3列シートのミニバンに仕立て上げた。今では何の違和感も持たれないが、目線の高いその乗り味は間違いなく新しかった。

余談ながら、初代オデッセイの試乗会は神戸のメリケンパークにあるホテルオークラをベースに行なわれた。翌年1月17日の阪神淡路大震災で倒壊した阪神高速を走り、芦屋から六甲山を巡るのが試乗コースだった。

3ヶ月なんて地球の時間軸からしたら誤差の範囲。ひょっとしたら、自動車メディアの多くが被災したかも……というのは、まああまり褒められない黒い冗談だ。

このオデッセイの大成功がホンダの今につながっている。カワさんによって幕が下ろされた第2期F1活動が第3期で復活することができた端緒はここにあるわけだが、カワさん/アリさん体制の目論見は単発のその場限りではなかった。

95年9月に6代目EK型シビックが発表された。ミラクルというサブタイトルが与えられたシビックの試乗会は、たしか箱根のハイランドホテルで行なわれたはずである。山あり谷ありの人生の中で上昇機運にあった僕は、その場で率直にいろいろな意見を述べた記憶がある。

「このシビックにはワゴンがなければおかしい」北米向け重視が鮮明になったセダンと、やっつけ仕事にしか見えないハッチバックを見て鋭く迫った。時代性を考えればワゴンがなければ不自然だ……と。

帰宅すると携帯が鳴った。「明日和光に来るよーに」名物広報マンとして名を馳せたMさん(故人)からだった。夕刻だったかと思うが指定時刻に出向くと、Mさんとアリさんが待ち受けていた。案内された広いスペースには、あれまぁ……!!息を呑む光景が。

ステップWGN、SM-X、CR-Vそしてオルティア。翌年以降姿を現す試作やモックアップがずらりと並んでいた。そのすべてが直観的に成功すると思える魅力的な雰囲気を備え、新しいデザイン感覚を持っていた。

ステップWGNと名づけられるというスクエアデザインは、軽自動車のステップバン(72~74年)をリアルタイムで知る世代に取っては涙ものの郷愁漂うグッドルッキング。

スライドドアを左側だけにしてコストダウンと安全性を考えた合理的なデザインは、5ナンバーという現実と合わせてその場で成功を確信した。求められたコメントはすべてのモデルに対して全面的にポジティブということに終始したはずである。

長くなったので翌日に連載します
Posted at 2009/11/14 16:54:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2009年11月10日 イイね!

富嶽秋景

富嶽秋景撮影時刻2009年11月10日8時43分05秒。富士五湖道路山中湖ICから望む。新型マークXの試乗会に朝一から臨んだ。澄み渡る空気の中、珍しく快晴の青空に冠雪した富士山らしい富士山の眺望が開けた。

250Gの必要十分のはるか上を行くスピードとパワーフィールの洗練を実感し、250kPaの高圧ECO系60タイヤを手際良く料理した乗り味に納得しながら、ふと見上げるとご覧の透明感である。

マークXは、一億総中流と言われたrolling 80'sの良き時代の雰囲気を今に伝える、日本車らしい日本車。かつて誰もが同じ価値観を持って生きているという共同幻想の残滓を留めているという点で貴重な一台といえるだろう。

月販規模は3000台。『今の時代、単一銘柄でこの数字はけっして小さくありません』友原CEは、すでに7~8000台に縮小しているこのカテゴリーに占めるマークXの存在意義を穏やかな語り口で説明した。

モリゾウさんはこのマークXをいたくお気に召したようで、試乗回数は数度に及んだそうだ。お気に入りは318psの350S。発表の際に、どのモデルですか? と問うと"自分でいじり倒した350S"と答えたそうである。

確かに150㎞/hからリミッター領域に至る快音とスリリングなパワーフィールはなかなかの迫力だし、引き締まったステアリングも雰囲気ではあるけれど、250Gにダウンサイジングのヒントを見出すセンスがあったら次のステップに行けるのにな。

今回のマークXは、1968年のコロナ・マークⅡに始まる系譜の集大成と位置づけられることになるだろう。次のモデルがこのままのコンベンショナルな姿を留める保証はどこにもない。乗ると、懐かしさと力の入ったエンジニアの意気込みが感じられて、いちいち納得できたが、それは単なる20世紀の香りに対する郷愁のせい?

マークXはこの路線でなければ存続することが難しい。ここ何世代は毎回『(モデルチェンジは)難しいぞ……』と言われ続けてきたそうだが、この次のモデル展開(存続)は今回のマークXの成否を待って考えることになるようだ。時代はどっちに動く? 戻ることがないことだけは、はっきりしている。
Posted at 2009/11/14 14:56:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2009年11月04日 イイね!

ピークアウト

ピークアウトそうなって欲しくないとは思っていたけれど、一刻も早くそうすべきだとは思っていた。トヨタのF1撤退の話である。昨年の、サブプライムローン問題に端を発する金融危機は、9月15日のリーマンショックでその全貌を露にした。それまでの、アメリカの金融工学を駆使した超特大のバブル経済は、過去数年間の繁栄が何だったのか具体的な形で示しながら弾けた。

専門家は誰もそうなることを予測出来ず、ただひたすら好景気に酔い痴れていたフシがある。こんな状態がいつもでも続くわけがない……SUV人気やクルマの大型化、高速化、高級化、高品質化などの過剰性の横溢に、常に警告を発していたつもりだが、結局のところ何の役にも立てなかった。忸怩たる思いとはこういうことを指すのだろう。

僕は悲観論を撒き散らそうと思っているわけでは全くない。できれば明るく笑っていたいとは思うけれど、事態はそんなに楽観できるところにはない。2007年、日本の自動車産業は全世界で2200万台の自動車を生産した。この数字は全世界生産の3分の1ほどに達していたはずである。

国内消費は軽自動車を含めても600万台足らずだろうか。都合7割以上が国外消費であり、利益のほぼすべてが海外に依存していた。日本国内はもとよりだが、見せかけの好景気を背景にした米欧のクルマの爆発的な消費増加(同じく2007年の米国の自動車販売台数は空前の1750万台に達していたはずである)は、金融工学を駆使した結果もたらされた好景気によってもたらされ、その破綻とともに露と消えた。少なく見積もっても、アメリカ市場だけでも500万台近いクルマの需要が蒸発した。

それはシンプルに蒸発したのであって、全世界でみても6000万台以上あった需要の内、1000万台ほどは蒸発したと見ていい。従来型のクルマであるかぎり復活の見込みは多分ゼロだろう。資源と環境の両面で、(とくに先進国においては)従来型の(石油)エネルギー多消費型のクルマが過去20年間の活況と同じレベルで増大する見込みはないだろう。

目下の状況の変化は、そのくらい劇的で不可逆的で厳しい現実を伴うものなのだ。のほほんとこれまで通りであろうとしたり、牧歌的なクルマ好きを語るのは勝手だが、プロフェッショナルな認識を持たない拝金の徒はこの際自らの不明を恥じて廃業することを薦めたい。そのレベルで必死で生きている人より恵まれた境遇を得てはいけない。

問題がどこにあって、それは如何にすれば解決策が見出せて、好ましい方向に進むことができるか。皆で智恵を出し合って考える必要がある。官でも、産でも、学でもなく、基本的にはあまり存在価値のない報道(メディア)でなければできない仕事を今こそ成すべきだろう。これだけ四六時中自動車のことを考えられる境遇にあるのに、自動車が直面している問題の解決にほとんど関与できない。寂しいし情けないではないか。

僕は、過去6年間にわたって、年50万台のオーダーで生産設備を世界中に作り上げてしまった日本のリーディングカンパニーの現状と近未来が気になっている。存亡の危機というのはショッキングな言葉遣いだが、あながち否定し得ない状況に直面しているのではないかと思っている。

1000万台に迫る900万台超で世界一になったのも束の間、目下のところ200万台以上の生産能力の余剰と設備の過剰を抱えている。我々はなかなか海外の現状、状況を知り得ないが、状況証拠から類推して、簡単な状態ではないことは、少なくとも僕は理解していた。今日のF1撤退の記者会見は、いろんな意味で日本のピークアウトを象徴していたような気がする。

技術もあれば、人的資源でもまだまだ世界をリードし得る。その意味では下を向く必要など全くない。ここからが勝負時と考えて、人類の繁栄に貢献する……そんな気概でもって進んで行くべきだろう。俺に何ができるか分らないが、とりあえず必死に考えて、本質を追求したり、あるべき姿の理想を語って行こうと思う。

TMG会長の山科忠 トヨタ自動車専務取締役は、中嶋一貴と小林可夢偉の今後の処遇に対する質問に感極まって泣き、豊田章男社長は無念の思いを噛みしめつつ記者会見に応じた。

生きている以上は、何とかしないとね。

Posted at 2009/11/04 22:58:54 | コメント(5) | トラックバック(1) | 日記
2009年11月03日 イイね!

もやもや

もやもや風邪気味の体調を考慮して格安の宿を南船橋に確保。今日が個人的に最後となるモーターショー詣でを考えて"なる早"でメッセ入りを考えたが、結局チェックアウトタイムぎりぎり11時にやっと動き出した。

皆勤賞のガイドツアー最終日は16時からのスタート。時間的には余裕ありありだが、その1時間前にFT86コンセプト開発CEへのインタビューという取材予定が入っている。そのCEは同業が催すタウンミーティングに出席するという。

できれば11時から2部構成というイベントの最初からウォッチして、取材の足しにしようかと思ったが体調的に難があり、前半は今月末発行のトヨタ特集の某誌企画担当編集者に任せた。12時からの後半の大部分を聴講(?)したが、目を瞑って聞く発言のほとんどが 耳当たりが良く、いちいちが納得できる内容ばかりだった。

良き時代の感覚をこれからも……語られる大要は、手にすることが出来た者が共有できる(したい)クルマをいつまでも……というトーンに染まっていたような気がする。それはそれでハッピーな空間なのだが、すでに大きく様変わりし、これまでとはまったく違う時代が訪れようとしている現実に照らすと、ただの絵空事になりかねない。前提が変ってしまったのに、従前のルールでやりましょう……そんなことを言っているようにしか聞こえない。

前半部で17歳の"少年"が、クルマを語ることすら難しくなっている"現実"を吐露し、それに対する答えを強く求めたシーンがあったそうだが、それに対して大人は誰も応えられなかったと聞いた。要するにこれまでの良き時代の記憶を現実と捉え、手にした豊さの延命を図る人々は、希望を持ち得ない切実な"現状"を生きているこれからの世代に対しては何の答も用意できていない。

いま目の前で繰り広げられている大変革は、もしかしたらこれまでの前提を一切チャラにして、まったく新しいルールでやり直す必要があるのかもしれない。日本の自動車産業の歴史的絶頂期だった2007年の前回東京モーターショーとピークアウトを目の当たりにするような今回の落差は、どう考えてもこれまで通りでは立ち行かないことを強く意識させる。

我慢していれば、やがて元に戻る……そのような楽観は、近い将来悲嘆の元にしかならないだろう。

とりあえず明るくしていないと、本当に真っ暗になってしまうので注意しなければいけない。でも、問題の本質に目を向けず、今までの行き掛かりに安楽の地を見出してのうのうとお茶をすするような年寄り染みた態度は慎むべきだと思う。

東京モーターショーの入場者数は前回の半減という数字に留まりそうだ。記録的な落ち込みだが、半減した規模に照らせば当然と言えるかもしれない。しかし、減ったと言ってもまだまだ相当数の自動車ファンの存在は確認できた。若い世代も多く、必ずしも関心が薄れたということでもないような気がする。

ただ、次回が前回のような活況に戻る保証などどこにもない。政権交代は象徴的な事件だったが、本質を見極めてコツコツと粘り強く変えて行く努力を続けないと、さらに厳しい事態が訪れそうだ。

最終ガイドツアーは飛び入りの2人(Mさん、Gさん=女性)に、KさんOさん、Nさん、それから監視役(?)の担当編集者の計6人。最後の最後はもう脂が乗って、最高のパフォーマンスになる……つもりだったが、直前のCEインタビューに頭を使いすぎ、大音量の各社のMCの声に対抗しながら6人に地声で説明する負担もあって、冒頭から酸欠気味。予定した動線は乱れに乱れ、取りこぼして最後に調整したブースが2軒。最後はビシッと決めようと思っていたのに、かっこ悪かったなあ。

プレスデイから始まって、生涯もっとも多い時間をショー会場で過ごしたが、時代の大きな変わり目と、自分の立ち位置の危うさが重なって、もやもやした気分がより深まった秋のひとときとなった。
Posted at 2009/11/04 12:45:35 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「撤収!! http://cvw.jp/b/286692/42651196/
何シテル?   03/24 18:25
運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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