
旅は常に未知との遭遇だ。日常に流されているとつい忘れがちだが、今日は昨日とは別の時空であり、明日は新たな世界の始まりである。移動しながら身の置き所を変えてみると、そのことが具体的な現実感をともなって我が身に迫ってくる。
たとえそこが過去に訪れたところであっても、時空を隔てた『今 』は別物だ。記憶と現実のコントラストは、諸行無常そのものであり、それを知るという行為は生きている実感を浮き彫りにするという意味でかけがえのないものだろう。行動を起こさなければ記憶は堆積されず、現実との対比はかなわない。『身』をそこに置くことこそが重要なのだ。旅とはそういうものだと思っている。
旅をするのは実は簡単ではない。それは日常から離れて、異空間に身を置くことを意味するからだ。予め計画された旅行ではない、衝動にかられた旅ならなおさらだ。お前は何をしに行くのだ? 当然目的は必要だろう。僕は今回、とにかく見に行くことだと割り切った。思い立ったが吉日ということで自分を納得させることにした。
3.11の地震発生の瞬間から、体験したすべての人がそうであるように生涯最大の転機を意識し、何ができるかを考え続けた。もちろん、すぐに動きたい衝動にかられた感覚は多くの皆さんと共有している。
16年前の1995年1月17日の記憶がある。早朝、取材に向かう車中のラジオで関西で地震の第一報を聞いた。取材地は筑波サーキットだったと思う。時間が経つに連れ、大きな震災であることが判明して行った。関西には開発に関わったことがあるタイヤメーカーがあり、一緒に仕事をした知人もいた。
いてもたってもいられない思いが募ったが、バブル崩壊から金融破綻や日米自動車摩擦激化にともなう自動車業界不況の折り、当時僕は43の働き盛りといわれる世代だったが、飛んで行く経済的余裕はなかった。結局時期を逸し、地震の現実を直接肌で感じなかった僕が阪神淡路大震災の当事者になることはなかった。
あの時の不甲斐ない思いだけは繰り返さない。ずっと気掛かりだったのだが、2008年のリーマンショック以降の我が身の状況はまるで16年前の再現。余裕のなさが生来の機転の利かない性格に輪をかけて行動力を萎えさせた。人間タイミングを逸すると行動するきっかけを見つけるのに苦労するものだ。
あれこれ考えず発作的に行動を起こしてしまえば、自ずと道は拓けてくる。考えてばかりいると、動けない理由や言い訳の正当化が始まり、次第に行動力を削いでゆく。東日本大震災からおよそ2ヶ月。これ以上遅らせたら、完全にきっかけを失う。僕にとってギリギリのタイミングだった。過ぎた2ヶ月をどうこういっても始まらない。
津波が襲った被災地は青森から千葉に至る太平洋沿岸。非常に広範囲だが、そこに直接アクセスできる身内も知人もいなかった。ボランティアの経験もなく、支援のノウハウもない。数日後に動き出した同業者がボランティアの窓口を開拓し、所属する日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)を起点に活動の場も明らかになり、協会からのボランティア活動に掛かる実費の補助などの方針も決まった。
しかし、その活動範囲は最初にAJAJ会員が切り拓いた一部の都市に限られた。医療関係者の移動手段を担う運転者というのがボランティアの主な内容。直接豊富な経験が活かせるという意味で現実的で意義深いものだが、どうしてもそれが僕のなすべきこととは思えなかった。
人にはそれぞれ生き方がある。同じことを一緒に力を合わせてすることだけが協力ではなくて、別のことをして結果として力が合わさるのもまた協力だ。事態はまだまだ始まったばかり。可能な限り多くの被災地を訪ね、この目で見たことを写真や動画に収め、身体で感じたことを文章で著す。それが長年ライターを生業としてきた僕のなすべきことであり、ジャーナリストとしての矜持でもある。
もちろん、この期に及んでのこのこ出掛けて行くことに問題なしとは思わなかった。多少のうしろめたさもあったので、すべてを自力で賄うと決めた。あたりまえの話だが、自分のクルマを用い、飲食やガソリン代も可能な限り現地に落とす。震災直後からの品不足時には憚れたことだが、もはや地元経済を建て直す時期に来ている。
現地を訪れれば分かることだが、津波が及んでいないところは普段とあまり変わらぬ生活感に包まれている。壊滅状態の町並みからほんの少し離れたところにごく普通の平穏な暮らしがある。その残酷なコントラストを見ないで、抽象的に"被災地"と一括りにすることは、実は利害が複雑に絡んでいる復興という問題の本質を見誤る。岩手県宮古市から福島県南相馬市まで、可能なかぎり沿岸部の町を見ることで知り得たことであり、自分の言葉で自信を持って伝える必要があると感じたことでもあった。
ご存じのように、本スペシャルブログはフリー(無料)コンテンツである。 閲覧がタダであるのは当然だが、どれだけ書いても原稿料は発生しない。「何であんなに力を入れて書くの?」同業者から揶揄されることも多いのだが、答えは簡単である。できるかぎり多くの皆さんに読んでもらうためである。無料コンテンツの普及の前に、既存の雑誌をはじめとする有料コンテンツはその情報の内容/レベルを含め厳しい評価を下されつつある。その情報はお金を払う価値があるのか?と。
今回ここに書きつらねた一連の震災絡みの内容にページを割き、原稿料を支払うメディアは事実上存在しない。裏を返せば、お金になる情報以外はコンテンツになりにくい。紙(誌)幅や時間(尺)の制約がある新聞雑誌放送メディアの場合、記事やコンテンツはパリューフォアマネーやコストパフォーマンスによって内容やボリュームが決まる。編集という作業が必然で、見たままありのままというのは難しい。
webメディアが存在感を急速に高めてきたのは、限界費用(効用)がほぼゼロに近く、圧倒的なコスト競争力でそれを必要とする人に満足の行く質と量の情報を提供できるようになったからだ。編集という制約要件に縛られる既存メディアの均質横並び化が進む一方で、ツイッターやSNS、ブログなどといった多様なwebメディアの出現と普及は編集という作為の及ばない(必要としない)情報の生(ナマ)化を実現させた。
そこにはガセもデマも誤報も混在するが、情報の浄化や訂正や確認に要する時間の圧倒的な速さによって、既存メディアでは対応できない情報処理と展開力を身につけつつある。情報の受け手としては情報の正誤良否を判断するリテラシーを身につける必要があるし、僕のようなライターは情報は基本的にタダということになってしまった昨今の状況の中でいかにしてサバイバルするか決断を迫られている。
僕は、簡単ではないことを含めて成すべきことは分かっている。とにかく、今の僕にできることは、有料無料を問わず自分の信じることを誠実に記事化して、できるだけ多くの読者に読んでもらうこと。このcarviewのスペシャルブログに力を入れているのは、僕のホームグラウンドは『クルマ』であり、みんカラ読者は拠って立つべきクルマ好きだと思うからだ。僕に対する厳しい批判も甘んじて受け容れるのは、多様性の中にこそ真の評価があると信ずればこそである。
なんだか言い訳の羅列みたいになっちゃいました。己の正当性だけを主張しているようで気分はもうひとつですが、ここまで読んでくれてありがとうございます。
で、南相馬市である……って、オイオイここから始めるのか? 始めます。
結局ですね、仙台市内に泊まれそうな宿(じゃらんで検索、予算は常に5000円以下である)が見つからず、22時を回ったところで仙台市内を離脱。東北道の案内(highway walker)で国見SAにフリーWLANがあるのを確認して、ひとまずそこをベースと定めた。今朝の出立が12時と遅れ、仙台港周辺を見たらやはり昼間の気仙沼を見ておこうと思いその往復で仙台に戻ってくるころにはすっかり夜に。
その手前の石巻も 宵闇に包まれていたが、石巻は仙台と並んで震災ボランティアが数多く集まるTVニュースなどでもよく登場するスポット。一瞬ここ泊も頭を過ったが、それよりほとんど情報がもたらされない福島県北部の相馬・南相馬市だろう。
国見SAで写真のアップロードやブログアップを片づけ、さあどうする。東の空が明るくなりかけた3時過ぎ、寝る間もなくGO。国見SAを降り、ナビ上の最短ルートで相馬市を目指す。途中宮城県の標識が出てギョッとしたが、後で地図を確認すると国道113号線のほとんどは迫り出した宮城県側を走る。
113号線の丸森町と帰路通ることになる国道115号線沿いのカントリーロードは、緑豊かな野山を行く景観美しい日本の田舎の原風景。道路をきれいに整備したら、上質な観光資源になり得る。相馬地方(といっていいのか分からないが)を含む福島県浜通り地方は初めてだが、また訪れてみたいと思わせた。
相馬市着は5時頃だったか。土地勘ゼロなので、まずは常磐線の相馬駅。まったく普通。やはり海か……向かうと、事態はやはり劇的に変わった。
南相馬市のほうがもっと酷い。犬の散歩をしていた老人に話を聞くと、どこからきたの?怪訝そうな面持ちで尋ねられたあと、「南相馬市のほうがもっと酷い」一部のweb情報で垣間見た話を聞いた。
確かにそうで、すでに瓦礫の撤去がすすんだ広大なスペースは、遥か向こうの防波堤までまっ平ら。1500人を数える死者行方不明者が出たという事実をある種の虚しさとともに実感させた。
海岸線に近づいたところで睡魔に襲われ、2時間ほど仮眠。目覚めるとすでに周囲では作業が始まっていて、沿岸沿いの道を南に下ると自衛隊員が道路を掃いていて、その先にン?行き止まり? 福島第一原発の放射能災害による半径20㎞の立入禁止区域だった。
国道6号線に出て見ると、やはりこれより先オフリミットの検問所が。福島県には太平洋側から浜通り、中通り、会津という3つの地方が存在する。浜通りに来るのは初めてだった。来てみて痛感したのは、浜通り地方の幹線道路は南北に貫く6号線にほぼ限られる。原発から半径20㎞で立ち入りを制限されてしまうと、南側のいわき市に至るには、一度中通りの4号線か東北道まで戻り南下した後に再び沿岸に向かわなければならない。
同じようなことは三陸地方でも感じたが、いざという時に使える高速道路、ネットワークとなりうる幹線道路のインフラが決定的に不足している。ちょっと時間切れになってしまったので、詳細は後ほどということにするが、今回は4日間で1933㎞ほど走行したが、インフラに対する考え方に新たな知見を得た。行けば得るものは必ずあるものなのだ。