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伏木悦郎のブログ一覧

2011年05月30日 イイね!

for life.

for life.かつて吉田拓郎や井上陽水らが立ち上げたフォーライフレコードというレーベルは、生きるためと言う意味ではなくfour life‥‥4人が生きるためというベタなオチが付いていたと記憶する。クルマを熱く語りたいという情熱はまだまだ健在だけど、リーマンに続く大震災の影響は甚大という言葉では間に合わないほど重く未来にのしかかっている。


ここで下を向いても仕方がないね。ということで、思い切って自らメディアになることにした。いや、偉そうなことを言っても大したことはない。誰にも頼ることなく、自分でブログを2本立ち上げてみたわけです。

今から11年前、当時はまだOSがWindows95で、ネットへのアクセスもアナログが当たり前の時代。一念発起してHPを自分で作成した。市販のソフトのマニュアルと首っ引きで約一週間。徹夜に明け暮れて仕上がった『動遊倶楽部』は、我ながら貧弱そのものの出来ばえだった。

PCのHDDがたったの1GBで、ブロードバンドも動画ダウンロードも夢のまた夢だった時代。ハードもソフトもからきし駄目で、おまけにITの知識もテクニックも今以上に拙かった。結果がトホホなHP‥‥。あのトラウマが長い間再開をためらう理由になっていた。

今回の震災とそれが引き金となった深刻な事態は、長いこと続いた権限と権力の集積の結果として強固になった既得権益の実態を露にさせた。生活のためにという耳を疑う理由で曲げられ続けてきた不誠実な営みの数々に、怒りを通り越してただひたすら呆れた人も多いに違いない。人それぞれで事情が異なると思うので、ことさらあげつらう気はさらさらない。

ただ、サバイバルは自分持ち‥‥がフリーランスの宿命だ。重い気持ちでGoogleとhatenaのblog作成ソフトの門を叩いてみた。すっかり固くなった頭には易しいとは言い難いけれど、時間さえ掛ければなんとか。というより、ひと昔なら到底辿り着けなかった機能ときれいな仕上がりが、嘘のように簡単に手に入れられる。

クラウドにあるサーバー(?)に設けられたファイリングソフトにPC内にある画像すべてを預けたら、あんなこともこんなことも簡単にちゃっちゃっちゃっと処理できてしまうんだ。

しかも費用は完全にFREE。やる気さえあれば、自分で道が切り拓ける術が用意されている。10年前とは決定的に異なる極めて民主主義的な機会均等の状況。前途を悲観している暇があったら、まず手を動かしてみることだろう。今上手く行っているとしても、相手は無料で利益を出すビジネスモデルを構築しつつある難敵だ。いずれ勝負を挑まれて痛い目に合わされる相手と踏んで間違いはない。

いや、レベルはとっても低いですが、ITの技術革新の進捗具合にアナログ世代のおとーさんとしてはただひたすら感動してしまったわけです。FREEが当たり前で、その先にある価値の創造に動き出している。過大評価かもしれませんが、今どきの若いデジタル世代は僕らとはまったく異なる価値観で生きている可能性が高い。やってみて理解した実感であります。

人が生きて行く上で「気づき」はとっても大事だけれど、時代は確かにそっちのほうに進んでいるようだ。リーマンや東日本大震災がなかったら、ここには至らなかったかも? いやいや、我々はある種の必然によってここに至っている。なってしまったことをとやかく言っても仕方がないので、前進あるのみ。あと少なくとも3つHPとblogとメルマガを立ち上げ、twitterとFBにも本腰を入れてみるつもり。下手な鉄砲も数撃ちゃあたる、ということで。

ここここを覗いてみてください。評価、批評がないと進歩がないので、一言頂けるとありがたい。

今日までスルーしてしまった過去ログ。書きかけもあるので、なるべく早くアップするよう心掛けます。あっ、冒頭に貼ったプリウスα。出来はお台場で試したプロトタイプの次元を大きく超えて、相当いい出来ばえです。このアメリカ話もけっこう面白い。時代は激しく動いてるね。
Posted at 2011/05/31 04:06:45 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2011年05月17日 イイね!

旅した訳

旅した訳旅は常に未知との遭遇だ。日常に流されているとつい忘れがちだが、今日は昨日とは別の時空であり、明日は新たな世界の始まりである。移動しながら身の置き所を変えてみると、そのことが具体的な現実感をともなって我が身に迫ってくる。

たとえそこが過去に訪れたところであっても、時空を隔てた『今 』は別物だ。記憶と現実のコントラストは、諸行無常そのものであり、それを知るという行為は生きている実感を浮き彫りにするという意味でかけがえのないものだろう。行動を起こさなければ記憶は堆積されず、現実との対比はかなわない。『身』をそこに置くことこそが重要なのだ。旅とはそういうものだと思っている。

旅をするのは実は簡単ではない。それは日常から離れて、異空間に身を置くことを意味するからだ。予め計画された旅行ではない、衝動にかられた旅ならなおさらだ。お前は何をしに行くのだ? 当然目的は必要だろう。僕は今回、とにかく見に行くことだと割り切った。思い立ったが吉日ということで自分を納得させることにした。

3.11の地震発生の瞬間から、体験したすべての人がそうであるように生涯最大の転機を意識し、何ができるかを考え続けた。もちろん、すぐに動きたい衝動にかられた感覚は多くの皆さんと共有している。

16年前の1995年1月17日の記憶がある。早朝、取材に向かう車中のラジオで関西で地震の第一報を聞いた。取材地は筑波サーキットだったと思う。時間が経つに連れ、大きな震災であることが判明して行った。関西には開発に関わったことがあるタイヤメーカーがあり、一緒に仕事をした知人もいた。

いてもたってもいられない思いが募ったが、バブル崩壊から金融破綻や日米自動車摩擦激化にともなう自動車業界不況の折り、当時僕は43の働き盛りといわれる世代だったが、飛んで行く経済的余裕はなかった。結局時期を逸し、地震の現実を直接肌で感じなかった僕が阪神淡路大震災の当事者になることはなかった。

あの時の不甲斐ない思いだけは繰り返さない。ずっと気掛かりだったのだが、2008年のリーマンショック以降の我が身の状況はまるで16年前の再現。余裕のなさが生来の機転の利かない性格に輪をかけて行動力を萎えさせた。人間タイミングを逸すると行動するきっかけを見つけるのに苦労するものだ。

あれこれ考えず発作的に行動を起こしてしまえば、自ずと道は拓けてくる。考えてばかりいると、動けない理由や言い訳の正当化が始まり、次第に行動力を削いでゆく。東日本大震災からおよそ2ヶ月。これ以上遅らせたら、完全にきっかけを失う。僕にとってギリギリのタイミングだった。過ぎた2ヶ月をどうこういっても始まらない。

津波が襲った被災地は青森から千葉に至る太平洋沿岸。非常に広範囲だが、そこに直接アクセスできる身内も知人もいなかった。ボランティアの経験もなく、支援のノウハウもない。数日後に動き出した同業者がボランティアの窓口を開拓し、所属する日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)を起点に活動の場も明らかになり、協会からのボランティア活動に掛かる実費の補助などの方針も決まった。

しかし、その活動範囲は最初にAJAJ会員が切り拓いた一部の都市に限られた。医療関係者の移動手段を担う運転者というのがボランティアの主な内容。直接豊富な経験が活かせるという意味で現実的で意義深いものだが、どうしてもそれが僕のなすべきこととは思えなかった。

人にはそれぞれ生き方がある。同じことを一緒に力を合わせてすることだけが協力ではなくて、別のことをして結果として力が合わさるのもまた協力だ。事態はまだまだ始まったばかり。可能な限り多くの被災地を訪ね、この目で見たことを写真や動画に収め、身体で感じたことを文章で著す。それが長年ライターを生業としてきた僕のなすべきことであり、ジャーナリストとしての矜持でもある。

もちろん、この期に及んでのこのこ出掛けて行くことに問題なしとは思わなかった。多少のうしろめたさもあったので、すべてを自力で賄うと決めた。あたりまえの話だが、自分のクルマを用い、飲食やガソリン代も可能な限り現地に落とす。震災直後からの品不足時には憚れたことだが、もはや地元経済を建て直す時期に来ている。

現地を訪れれば分かることだが、津波が及んでいないところは普段とあまり変わらぬ生活感に包まれている。壊滅状態の町並みからほんの少し離れたところにごく普通の平穏な暮らしがある。その残酷なコントラストを見ないで、抽象的に"被災地"と一括りにすることは、実は利害が複雑に絡んでいる復興という問題の本質を見誤る。岩手県宮古市から福島県南相馬市まで、可能なかぎり沿岸部の町を見ることで知り得たことであり、自分の言葉で自信を持って伝える必要があると感じたことでもあった。

ご存じのように、本スペシャルブログはフリー(無料)コンテンツである。 閲覧がタダであるのは当然だが、どれだけ書いても原稿料は発生しない。「何であんなに力を入れて書くの?」同業者から揶揄されることも多いのだが、答えは簡単である。できるかぎり多くの皆さんに読んでもらうためである。無料コンテンツの普及の前に、既存の雑誌をはじめとする有料コンテンツはその情報の内容/レベルを含め厳しい評価を下されつつある。その情報はお金を払う価値があるのか?と。

今回ここに書きつらねた一連の震災絡みの内容にページを割き、原稿料を支払うメディアは事実上存在しない。裏を返せば、お金になる情報以外はコンテンツになりにくい。紙(誌)幅や時間(尺)の制約がある新聞雑誌放送メディアの場合、記事やコンテンツはパリューフォアマネーやコストパフォーマンスによって内容やボリュームが決まる。編集という作業が必然で、見たままありのままというのは難しい。

webメディアが存在感を急速に高めてきたのは、限界費用(効用)がほぼゼロに近く、圧倒的なコスト競争力でそれを必要とする人に満足の行く質と量の情報を提供できるようになったからだ。編集という制約要件に縛られる既存メディアの均質横並び化が進む一方で、ツイッターやSNS、ブログなどといった多様なwebメディアの出現と普及は編集という作為の及ばない(必要としない)情報の生(ナマ)化を実現させた。

そこにはガセもデマも誤報も混在するが、情報の浄化や訂正や確認に要する時間の圧倒的な速さによって、既存メディアでは対応できない情報処理と展開力を身につけつつある。情報の受け手としては情報の正誤良否を判断するリテラシーを身につける必要があるし、僕のようなライターは情報は基本的にタダということになってしまった昨今の状況の中でいかにしてサバイバルするか決断を迫られている。

僕は、簡単ではないことを含めて成すべきことは分かっている。とにかく、今の僕にできることは、有料無料を問わず自分の信じることを誠実に記事化して、できるだけ多くの読者に読んでもらうこと。このcarviewのスペシャルブログに力を入れているのは、僕のホームグラウンドは『クルマ』であり、みんカラ読者は拠って立つべきクルマ好きだと思うからだ。僕に対する厳しい批判も甘んじて受け容れるのは、多様性の中にこそ真の評価があると信ずればこそである。

なんだか言い訳の羅列みたいになっちゃいました。己の正当性だけを主張しているようで気分はもうひとつですが、ここまで読んでくれてありがとうございます。

で、南相馬市である……って、オイオイここから始めるのか? 始めます。

結局ですね、仙台市内に泊まれそうな宿(じゃらんで検索、予算は常に5000円以下である)が見つからず、22時を回ったところで仙台市内を離脱。東北道の案内(highway walker)で国見SAにフリーWLANがあるのを確認して、ひとまずそこをベースと定めた。今朝の出立が12時と遅れ、仙台港周辺を見たらやはり昼間の気仙沼を見ておこうと思いその往復で仙台に戻ってくるころにはすっかり夜に。

その手前の石巻も 宵闇に包まれていたが、石巻は仙台と並んで震災ボランティアが数多く集まるTVニュースなどでもよく登場するスポット。一瞬ここ泊も頭を過ったが、それよりほとんど情報がもたらされない福島県北部の相馬・南相馬市だろう。

国見SAで写真のアップロードやブログアップを片づけ、さあどうする。東の空が明るくなりかけた3時過ぎ、寝る間もなくGO。国見SAを降り、ナビ上の最短ルートで相馬市を目指す。途中宮城県の標識が出てギョッとしたが、後で地図を確認すると国道113号線のほとんどは迫り出した宮城県側を走る。

113号線の丸森町と帰路通ることになる国道115号線沿いのカントリーロードは、緑豊かな野山を行く景観美しい日本の田舎の原風景。道路をきれいに整備したら、上質な観光資源になり得る。相馬地方(といっていいのか分からないが)を含む福島県浜通り地方は初めてだが、また訪れてみたいと思わせた。

相馬市着は5時頃だったか。土地勘ゼロなので、まずは常磐線の相馬駅。まったく普通。やはり海か……向かうと、事態はやはり劇的に変わった。


南相馬市のほうがもっと酷い。犬の散歩をしていた老人に話を聞くと、どこからきたの?怪訝そうな面持ちで尋ねられたあと、「南相馬市のほうがもっと酷い」一部のweb情報で垣間見た話を聞いた。

確かにそうで、すでに瓦礫の撤去がすすんだ広大なスペースは、遥か向こうの防波堤までまっ平ら。1500人を数える死者行方不明者が出たという事実をある種の虚しさとともに実感させた。


海岸線に近づいたところで睡魔に襲われ、2時間ほど仮眠。目覚めるとすでに周囲では作業が始まっていて、沿岸沿いの道を南に下ると自衛隊員が道路を掃いていて、その先にン?行き止まり? 福島第一原発の放射能災害による半径20㎞の立入禁止区域だった。


国道6号線に出て見ると、やはりこれより先オフリミットの検問所が。福島県には太平洋側から浜通り、中通り、会津という3つの地方が存在する。浜通りに来るのは初めてだった。来てみて痛感したのは、浜通り地方の幹線道路は南北に貫く6号線にほぼ限られる。原発から半径20㎞で立ち入りを制限されてしまうと、南側のいわき市に至るには、一度中通りの4号線か東北道まで戻り南下した後に再び沿岸に向かわなければならない。

同じようなことは三陸地方でも感じたが、いざという時に使える高速道路、ネットワークとなりうる幹線道路のインフラが決定的に不足している。ちょっと時間切れになってしまったので、詳細は後ほどということにするが、今回は4日間で1933㎞ほど走行したが、インフラに対する考え方に新たな知見を得た。行けば得るものは必ずあるものなのだ。






Posted at 2011/05/19 12:29:45 | コメント(4) | トラックバック(1) | 日記
2011年05月16日 イイね!

なかなか帰れない

なかなか帰れない東日本大震災の被災地は広範囲にわたる。青森から千葉にかけての太平洋沿岸は、ことごとく津波の猛威にされされた。今回は岩手県の宮古市を起点に南下することにしたのだが、進むに連れて被害の大きさに圧倒され続けた。

昨夜は国道45号線が寸断されていたのと、我がプリウスのナビの地図ソフトが古く、三陸自動車道がかなり北進していることが分からず時間を浪費してしまった。仙台着は23時。駅前でフリーwifiを拾い、ホテル検索サイトで宿を確保。そういえば飯がまだだと国分町まで歩いて行った。戻ってばたんキュー。

目覚めると、すでにコンプリメンタルブレックファストはタイムアップの9時過ぎ。そこからブログアップしていると、あらら12時になっちゃった。とにかく仙台港まで行ってみよう。快晴の仙台市内は震災どこ吹く風の雰囲気でごく普通の初夏の光景。どっちがリアルか分からなくなる。

海のほうへずんずん進んで行っても明るい陽光の景色に変化は見られない……と、途中でン? 片側2車線の道路の中央分離帯に堆く瓦礫が寄せられている。さらに進むと、えっ? 大小様々な建物のすべてがダメージを負っている。さらに行くとやっぱり無事ではなかったのか。その何気ない破壊されぶりに衝撃を覚えた。仙台市内中心部とのコントラストに目眩がした。

やっぱり気仙沼に行ってみよう。本当はさらに東京に近づくよう南下して名取市や福島の相馬市を経て可能な限り海沿いを行くつもりだったが、昨夕の月明かりの中で見た光景をちゃんと確認しておきたくなった。勘はあたった。途中の志津川町や南三陸町の破壊され尽くした光景もそうだが、これは一見に値する。

今回は動画をいっぱい貼ります。いろいろ喋ってます。今夜はついに車中泊。仙台まで戻ってきて宿を予約しよう思ったら、空き部屋のリストが現れない。市内満室? 仕方なしに高速に乗って途中のフリーwifiでこれをアップ。仮眠したら明日は福島に向かうつもり。まだまだ帰れない???



Posted at 2011/05/17 02:27:01 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2011年05月15日 イイね!

百聞は……

百聞は……盛岡の土曜の夜は、けっこうな賑わいを見せていた。ホテルから間近の大通りという繁華街をパトロールしたら"がんばろう東北"の幟がはためく下を若者が元気よく気勢を上げている。震災どこ吹く風といった感じだが、前を歩く地元ではないような青年二人が「被災地と全然違う」ボソッと呟いた。

朝6時半に起き、なるべく早く出立を試みるもブログやメールやツイッターをチェックしているともう9時。宮古までどれくらい? 駐車場の青年に尋ねると日曜は空いているはずですが、2時間以上はかかるのでは? 僕はまだ被災地に足を運んでません。国道106号線はなるほど空いていたが、2時間近を所要した。

宮古市内に差しかかっても、ほとんど傷んでいる感じがしない。土地勘なく、街のレイアウトも頭にないので、まず目に入ったものから判断することになるわけだが、港の間際まで来て浄土ヶ浜に向かおうと港内をまたぐ高架道路を進むと国道45号線と宮古市内の表示が。左に折れて市街地に入ると、人気が失せた町並みが。建物は形を残しているものか多いが、どこにも解体OKの文字がスプレーで書かれている。

これか……思いながら、浄土ヶ浜に向かう。7年前プリウスの連載企画で訪れた。あの時は下の娘も一緒だった。まあ、思い出をたどるという何か理由がないと、広範に及ぶ被災地のどこに行こうか迷ってしまう。浄土ヶ浜のアプローチは海に迫った小高い山に進み、頂上付近にある駐車場から徒歩で下る。途中浄土ヶ浜大橋まで進むと何台もクルマ停まって景色を眺めている。何だろ? 少し先のスペースにクルマを停めて眺めてみると、海も島も平然とあったが、眼下の海岸の遊歩道の橋桁が落ちていた。

道路の反対側に行って思わず息を呑んだ。手前のお寺とお墓はほとんどそのままだが、その下に広がる広大なスペースは言葉を失う瓦礫の山。これだったのか! !まずは浄土ヶ浜の状態を見に行ったが、管理人から聞いた現状はかなり深刻。確認に行くと、島の景観は壊れていないが、海岸の破壊はかなりものも。レストハウスも、売店もトイレも、遊歩道の舗装も復旧のめどがたたないほど。

浄土ヶ浜を後にして、眼下に臨んだ瓦礫の街にクルマを進めると、言葉を失う光景がそこにあった。何事も第一印象がその後の判断を左右するが、最初に宮古市内に入って見た案外壊れていない感は、まったく見当違いだと悟った。ここだけではなく、対岸にあたる地域もひどかった。

宮古はまだましなほう、駐車場のおじさんの言葉を半信半疑に南に進むと、納得せざるを得なかった。山田町や大槌といった知名度の低い町は根こそぎ状態。さらに進むと、沿岸部はほとんど壊滅しており、釜石、陸前高田、気仙沼という比較的大きな街もほぼ完全に平らげられていた。釜石あたりで日没を迎え、陸前高田と気仙沼は月明かりのみの暗闇にまみれてしまった。いま引き換えしてあらためて確認しようか迷っているが、23時にやっとたどり着いた仙台の状況も気になる。

さらに福島、茨城、千葉……震災と津波の全貌を蟻の目の個人で掴むのは容易ではなさそうだ。震災直後では混乱を究めここまでじっくり状況を見ることはかなわなかったと思う。2ヶ月も過ぎたのに、津波被災地はやっと瓦礫を集めただけ、その処分はまだまだこれからの話であり、その堆く積まれた量を見るとまだまだゴールは遠いと思わざるを得ない。

9年前の1月、デトロイトショー取材についでにNYに立ち寄り、2001年9月11日に崩壊したWTCビルの跡地に足を運んだ。すでに4ヶ月を過ぎていたが、現場はまだ事件の雰囲気を濃厚に残していた。WTCは、ニューヨーク・マンハッタンのごく一角のスペースでしかない。それを考えると、今回の津波被災地は圧倒的に広範囲で、失われた生活の規模は桁違いに大きい。

こういう表現は不適切かもしれないが、現在発表されている死者・行方不明者合計2万5千人ほどという数字は本当なのだろうか。岩手県の被災沿岸部だけをみても、とてもそんな数で済むとは思えない。同じ街でもわずかの違いで津波を免れたところもあった。被災者と直接被害を受けなかった非被災者では、距離に関係なく決定的な認識の差が生まれているように思う。

現状を見てしまった以上、さらに積極的に支援の行動を移さなければならない。延長料金を払って宿のチェックアウトを遅らせて、ここまでの胸中を整理しました。仙台沿岸部を見てきます。


Posted at 2011/05/16 11:00:26 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2011年05月14日 イイね!

これからだ。

昨日出発しようと思ったけれど、カラダが反応せず、今日も昼までグズグズしてしまった。冴えない時は走れ! 高校サッカー部のキャプテン、坪谷が叱咤してくれた言葉を、何故か今も覚えている。動けば必ず何か仕出かすのが俺である。

行き先は走りながら決めた。7年前、今回の足になった自前のプリウスの連載で訪れた三陸の景勝地、浄土ヶ浜はどうなったか。観光は日本が生きて行く上で欠くことのできない資源。その現実を確かめておきたくなった。完全なる思いつきだけど、それが俺のスタイルでもある。

ひょっとすると、長旅になるかも。
Posted at 2011/05/15 00:07:56 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「撤収!! http://cvw.jp/b/286692/42651196/
何シテル?   03/24 18:25
運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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