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伏木悦郎のブログ一覧

2011年05月13日 イイね!

『クルマ』は、FRでなければならない。

『クルマ』は、FRでなければならない。ドリフトに開眼したのは、1975年の確か梅雨時。雨の筑波サーキットのことだった。3年越しのGSバイトで蓄えた資金でKB110のTS(特殊ツーリング)仕様に仕立てあげ、その頃盛んだった日産レーシングスクール(辻本征一郎校長)の門を叩いた。当時のインストラクターは、高橋国光、北野元、長谷見昌弘、星野一義などといった日産追浜(ワークス)、大森(セミワークス)の精鋭揃い。あの日のインストラクターとして記憶しているのは、タクシードライブを担当した国さん。もちろんプロフェッショナルレーシングドライバー同乗初体験だった。

当時開業5年の筑波は、長閑(のどか)を絵に描いたようなローカルトラックで、路面ミューもつるつるぴかぴかもの。緊張気味に助手席に腰を沈めると、国さんは挨拶もそこそこにバビューン。第一コーナーといわず第一、第二ヘアピンといわず、コーナーアプローチが迫ったと思うやいなや、KB110のスクールカー(TS)は独楽のようにクルッと向きを変えた。

狐につままれたような面持ちで、国さんの姿に目をやり、ステアリング捌きを見ていると、進行方向と反対にクルクルクルッと回したかと思うと、アクセルをウワン、ウワン、ウワンと煽りながらトラクションを掛け、次の瞬間パッとステアリングから手を離し、ニコッとこっちを向いて微笑んだ。と、同時にステアリングはきっちり直進状態に収まっていた。

こうやって緻密な分析のように記すことができるのは、もちろんあれから36年も経験を積んでそれなりのスキルを身につけたから。当時は、コーヒーカップに乗って翻弄され、何が何やらさっぱりの状態。なんだかとんでもないけれど、目茶苦茶かっこいい。ドリフトなどという言葉も知らない頃の話である。

もっとも、客観的には1974年の富士グランチャンピオンシリーズ最終戦のスケジュールに組まれたF1デモランのあのシーンが最初だ。JPSロータス72を駆るロニー・ピーターソンが、ヘアピンに黒々とタイヤを擦りつけながら巧みなカウンターステアで鮮やかに駆け抜けたあの姿が、僕の原点であり理想となった。今も変わらぬヘルメットのデザインの源流はここにある。

この年10月の富士フレッシュマンレース最終戦でデビューを果たし(リザルトはバッテリー脱落という、あれまなトラブルでリタイア)、当時FISCOと呼ばれた4.3㎞コースがホームグラウンドになった。76年にはフレッシュマン上位の常連となり、77年にはGCマイナーツーリングやJAFGPなどにステップアップしプライベートとしては納得できる成績を収めたが、率直に言ってこの頃のドライビングスキルは大したことがなかった。

78年にフリーのライター稼業に専念することになったが、まだコンパクトクラスにもFRモデルが残っていた時代。スポーティなFRということになれば、もうお約束でカウンターばっちりのドリフトシーン撮影に明け暮れた。当時のFRは、総じて非力でシャシーセッティングは強めのアンダーと相場が決まっていた。曲がらないからこそ、様々な技を駆使してヨー慣性モーメントをコントロールし、ステアリングとアクセルのバランスでより速くを究めるドリフト走法が考案されたわけです。

ステアリングを進行方向とは逆に切り、リアのスライド量をスロットル開度に伴うトラクションでコントロールして行く。見た目にも派手で何となくかっこいいし、自らステアリングを握った場合クルマを意のままに操る実感がマシンのバランスという明快な答えとともに立ち現れる。

その面白さを発見したのは、1983年に当時の運輸省が認可の方針を打ち出した60偏平タイヤの市販化に対応したタイヤテストだった。まだタイヤに関する知見が十分でなく、ハイパフォーマンスタイヤの評価方法も確立されていない時代。僕は専門誌の連載を担当するにあたって自らテストモードを開発し、評価の定量化を目論んだ。

ハイパフォーマンスタイヤということで、当時のレベルで動力性能が十分なクルマのリストアップから始めた。グリップ性能やコントロール性をきちんと把握するためには、操舵と駆動が分かれた方が都合がいい。吟味した結果として選んだのが三菱のスタリオンGSR。2ℓ直4ターボ145psは、当時の2ℓクラスのトップレベル。他に選択肢は見当たらなかった。

そのタイヤテストの評価項目に設定したのがドライとウェットの定常円旋回。グリップ走行と、カウンターステアでコントロール性を見るドリフト走行を試した。ドリフト旋回は、結果的にグリップ性能とコントロール性のバランスを見るのに最適であることが分かった。

しばらくして、当時のハイパフォーマンスタイヤの分野で最先端を行っていたイタリアのPIRRELI社に招かれた際、エンジニアに"俺はこういうスタイルで評価しているんだけど……"恐る恐る尋ねると、「もちろん、それは我々もやっている」勇気づけられたのを覚えている。

ドリフトの面白さは、他者(車)との優劣の前に、己が自分のスキルを客観的に評価できる点にある。速度の絶対値やタイムなどはどうでもよく、身体拡大装置としてのクルマを自分の感覚と能力の中で評価することができる。他者と速度やタイムを競い合うコンペティションは、人間の欲望の本質を突くという点で価値あるものだとは思うが、現実世界においてのリアリティというのは案外低いものである。

V maxやE=mc2の追求にいくら地道を上げても、その結果はクルマというモノとしての評価で、人との関係としてあるマン-マシンシステムとしてのクルマや、走行環境を含む3重のシステムとしてのクルマという視点ではあまり意味をなさない。身体全体との関わりが問われる物理世界で難しいことならば、脳を中心とするわずかな身体性があれば楽しめる情報世界に持ち込んで、より現実的な満足を提供した方が健全だ。

工業製品としての物理的な制約に囚われることなく、新たな価値を情報の形で一体化することで現実を超えたヴァーチャルリアルの世界が見えてくる。現代的なクルマとしてちゃんと走るパフォーマンスは持っているけれど、それ以上の面白さが走らない領域に用意されている。

リアルで、コストパフォーマンスが高く、しかも圧倒的なトータルエコを誇る。僕は、四半世紀以上も前から、内燃機関で走るクルマでスタイリング、パッケージング、ハンドリングというクルマの魅力の3大要素の鼎立を目指すなら、FRしかないと考えるようになっていた。できるかぎり軽量・コンパクトにすることでその可能性はどんどん現実的になって行く。世界中の大多数の人々にとって現実的でない160㎞/h以上の速度を得る動力性能やそれを補完するあらゆる技術は、仮想現実の真逆ともいえるリアルヴァーチャルとなる可能性が高い。

何よりも重要なのはダイバーシティ(多様性)なので、すべてをそれにしてしまうのはナンセンスだが、クルマの面白さを再構築すると同時に持続可能性を追求しようと思うなら、過去のしがらみはこの際忘れて新たな一歩を踏み出す価値は十分にあると思う。

未だ、現物が出てきていない段階なので、具体的な言及が難しいのが玉に傷だが、ついまでも非合法であることを無視し続ける過剰な性能のクルマたちを、無条件に良しとする旧弊は糺す必要がある。

何やら小難しい文章がエンドレスのように続いてしまったが、言わんとするところはこれまで通りの生き方には未来はなく、自分の頭で考えた価値を自分の身体を通して評価しなければならないところに差しかかっている。もうちょっと、分かりやすく書かなければいけないなと反省しながら、今日のところはこれまで。


Posted at 2011/05/13 23:58:32 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2011年05月12日 イイね!

やっと戻ることができました

やっと戻ることができました本ブログをご覧の皆さんご無沙汰です。まず最初に、東日本大震災で亡くなられた方々にあらためて心から哀悼の意を表するとともに、被災地で依然として厳しい境遇に直面しておられる皆さんの健康を祈念して止みません。結局何もできずに2ヶ月が過ぎ去ってしまいました。



我ながら慙愧に堪えませんが、被災地の再興はこれからだと心得ております。もしもこのブログをご覧の読者で、私にできることがあるぞと思われる方が居られたらコメント、メッセージをお寄せ下さい。遅まきながらですが、明日から可能な範囲を巡ろうと考えてます。初動は余裕のある人に任せ、自らの身の丈にあったやり方を探す他はないというのが、今日ただいまの率直なところであります。

それにしても、3月11日はそれ以前とそれ以後で物事の見方がここまで違ってしまうものなのか……時代の変わり目に直面していることはかなり前から自覚し、そのような言動をしてきたつもりですが、震災、津波、原発事故という一連の出来事は、想像を遥かに超えるインパクトをもたらしました。

それに加え、個人的な話ですが私をこの世界に導き入れ、親も同然といわれる仲人をお願いしたmentorともいうべき人の死という、時代の終焉を具体的な形で納得させる現実が重なりました。予期していた時代の移ろいと、まるで考えもしなかった恩人の急逝が重なって、ちょっと身動きが取れなくなってしまった。

今回の震災から福島第一という世界的にも有名になった原子力発電所の事故を通してもっとも印象的だったのは、メディアの化けの皮の剥がれ様でした。本来政府に対するチェック機能としては働くべきジャーナリズムが、記者クラブ制度によってあたかも政府広報のような一元的な情報に縛られ、大スポンサーという立場の東京電力という民間企業に遠慮して、大新聞もTVもラジオも判を押したように口を揃えるという愚挙に走ってしまった。

いまでも既存のマスメディアに信頼をおいて、その一元的ともいえる報道を清濁合わせ呑むウェブメディアに否定的な立場を採る人が多数派を占めている。それはこれまでの秩序を守ることで安定を望むこれまでの生き方を是とする人の行動としては間違いではないと思います。

しかし、既存メディアに代わる、リアルタイムに発信され、ある立場を反映する編集というステップを踏むことなくノーカットでオンエアされるUstreamやニコニコ生放送といった新しい情報媒体の出現が、真偽を白日の下に曝け出してしまった。まだ、視聴者の数が精々10万人の桁という、大新聞やTVキー局が抱える人口の1%前後のスモールメディアですが、このフットワークの軽いメディアはyoutubeなどの共有動画サイトにアップされることで簡単に再視聴が可能になっている。

編集されることなく長時間のオンエアが可能なメディアの登場は、紙幅や放送時間の制約の必然としてある編集を不要とし、様々なしがらみと関係なしにそこにある事実を伝えることを可能にしてしまった。制度や仕組みが時代に合わなくなっているのに、そして実は対応し得るテクノロジーがすでに登場しているのに、閉ざされた村社会の論理が優先され、スクラムを組んで新しい時代の波に抗っている。

省益を優先する強固な仕組みが確立した霞が関も、国の先行きは官僚任せにして党利党略に地道を上げる永田町も、政府の意向を汲んだ一元的な大本営発表しか報道できないマスコミも、それぞれの立場では正しいけれど、発展途上段階では許されたかもしれないけれど、成熟から一気に衰退期に入ろうとしている今のこの国に、そんなアナクロニズムで余裕をこいている暇などありません。

福島原発事故の報道では、自由報道協会を立ち上げ、政府と東電の情報不開示とそれを追究しない記者クラブメディアの機能不全に風穴を開けた上杉隆さんをはじめとする、フリーランスの活躍が目覚ましかった。記者クラブから排除されつづけた彼らの存在がなかったら、隠された事実がどれだけあったか分からない。ノーカットで流されたウェブ放送によって、既存の記者クラブメディアの機能不全と、デマ扱いされることの多かったネット情報の多様性を伴う健全さに多くの人が気がつくことになった。

こういうことを書くと、またいろいろ批判されるとは思いますが、普段の取材から黒塗りのハイヤーを乗り回し、緊急の会見などがあるとアイドリングストップどこ吹く風の我が物顔で運転手を路駐のまま待たせる。自分でステアリングを握る庶民の感覚を知らずに、正義の見方を気取って本当はどうでもいい客観性を伴うように見える質問ばかりをする(上海ショー会場で行われた某社社長記者会見でうんざりさせられたた経済に関する数字とか)。

今日(12日)、日産がUstreamを使って2010年度の決算記者会見をオンエアするという新たな試みを行った。既存マスメディアには不可能な、1時間に及ぶ会見をノーカットでQ&Aまで逐一流す。先のトヨタのグローバルヴィジョン発表会でもオンラインでの放送が試みられたが、この時は豊田章男社長のスピーチのみで、Q&Aはオンエアされることがなかった。

私は日産のUstream放送が始まる直前まで都心で友人に会っていて、クルマで移動中にその時間を迎えてしまった。iPadを広げて使えるWiFiがあるか拾いながら走っているとちょうど神宮の銀杏並木で使えるネットワークを拾い、路肩にクルマを停めてその場で記者会見を見届けることが出来てしまった。今はそういう時代なのだ。

今回日産の会見は、C.ゴーンCEOの2010年度の成果と、震災という困難を克服し2011年度にも明るい展望を持っているという、CEO得意のヴィジョンの提示という側面があったが、それ以上にQ&Aも丸々オンエアし、誰が何を質しのかという聞く側の報道に責任を持たせる意味合いが含まれたという点で画期的だった。

編集によって、どのように情報が加工されるか。使用前と使用後が分かる材料を共有することで言われっぱなしを防ぐという、メディアの力を背景にした行動に歯止めをかけ、これまで訂正されることのなかった過去の報道を改めさせる。その根拠を手に入れ、少なくとも質問者に緊張感を与える効果を生じさせた。まだまだ視聴者は万人レベルと少数だが、スマートフォンなどの普及によって状況は劇的に変わる可能性を秘めている。

久しぶりのブログアップ、本当は本ブログのタイトル『からだとクルマ』の原点に立ち返り、太鼓判のFR絶対主義の本義からツラツラと書こうと思っていたのに、つい興奮してまたあちからお叱りを受けそうな展開になっちゃった。今年末がどうやら21世紀的FRの元年となり、30年以上も前に触発され僕の走りの原点ともなったドリフトが大きくクローズアップされることがほぼ確実になった。その新しさについては、また明日。相変わらずの展開に、我ながら呆れている。最後まで読んでくれてありがとう。



Posted at 2011/05/12 23:59:52 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2011年05月02日 イイね!

我がmentor逝く

我がmentor逝く人生は出会いという。人は誰でも生涯を決定づけるmentorと呼べる人と、少なくとも一度は遭遇するのではないだろうか。それと気づかず、全然異なる結果となっていることを含め、世の幸不幸は人が人と出会うところから始まるようだ。

もちろん、僕にもそういう人がいた。あれはたしか21歳の頃だった。川崎市の北部に中野島というJR南武線の駅が最寄りの町がある。多摩川の堰堤沿いを行く市道のガソリンスタンド(GS)でアルバイトを始めた。すでに2年生を2度やった大学はドロップアウトしていた。70年安保後の無気力の風が充満したキャンパスになじめず、音楽を志す高校の同級生のバンドに加わったりしながら、今でいう自分探しをしていた。音楽ではないな……やってみて悟った僕は、やはり高校の同級のヨコヤマの伝を頼ってそのGSに通いつめるようになった。そこで手にすることになった一冊の本がここに至るきっかけとなったわけだが、話が長くなるのでまたの機会にしよう。

その人はGSのお客さんとして現れた。時折講読していた雑誌の編集者で、もらった名刺には編集部キャップとあった。10歳年長であることを知ったのはずっと後の話。その頃僕はすでにレースに挑戦すると決めていて、23歳だった1975年秋にデビュー戦を迎えるのだが、GSのガレージが"チーム"の拠点となっていた。マシンを製作している姿が目に留まったのか、その人はちょくちょく店に姿を現すようになった。

「ウチでバイトしてみない?」ある時、そんな誘いを受けた。GSのバイトにバイトを持ちかける。言う方も言う方だが、乗ってしまう僕も僕である。何度か取材に同行したと思う。レース挑戦は順調とは言えなかったが、それなりのリザルトには恵まれた。ただ、資金的な限界は当然の結果をもたらした。足掛け4年25戦。77年のJAF富士GPマイナーツーリング3位表彰台はニュースになったが、振り返ればあそこがピークだった。ただ、ニュースはニュースで、その人の見る目を変える効果はあったのかもしれない。

「これからは必ずフリーランス(ライター)の時代になる。ウチでやってみないか?」思わぬ提案を聞いたのは、レース続行に困難を感じていた頃だったか。それまで文章など一行も書いたことはなかった。それでもやってみようと思ったのは、その人への信頼が根底にあったからだろう。運転には自信があり、バイトを始めた当初から運輸省・工業技術院の村山テストコースでテスターとして重用されたりもした。

しかし、ライター稼業は走ってナンボではなく、一文字何円の文章勝負。往時を知る編集者(もうほとんどがリタイアしたが)は誰一人として、締め切りを守れず、何度も原稿を落としたことがある僕がここまでサバイバルするとは思わなかったはずである。フリーライターでやって行く。腹を決めた1978年9月から33年、曲がりなりにもやってこれたのは、時代のおかげ、皆さんのおかげということに尽きると思うが、何よりもチャンスを与えてくれたその人の唆(そそのか)しがあったればこそと思っている。

フリーランスで行くと決めてからはほとんど一緒に仕事をすることはなくなった。後に二輪誌の編集長や営業部長を歴任し、その出版社初の新卒という生え抜きとして専務取締役まで登り詰めたが、仕事面で僕に口利きをすることは一切なかった。フリーは自力で何とかするもの。言外にそのことを示してくれたのだろう。低空飛行が続いた時は恨めしくも思ったが、だからこそこの才能でここまでサバイバルできたのだと、今は振り返ることが出来る。

フリーランスになった翌々年の1980年5月、僕は結婚することになった。今から思うと、本当に無謀な話という他はない。やる気だけはあったということだろうが、それはともかくその人に仲人のお願いをしに行った。さすがに業界に引っ張り込んだという責任を感じるところがあったのだろう。生涯唯一の"大役"を渋々ながら受け。「これが最初で最後だ」その時彼はまだ38歳だったことになる。

30年という時の流れは、経験してみないと分からない。人間は忘れ行く動物。すべてを記憶することは不可能だが、その質量というか重みは身体全体のメモリーに刻まれている。出会いは必ず別れを生む。失った時に、あらためてその出会いの意味をかみしめることになる。さようならだけが人生だ。そういうことなのだろうか……。

石居崇範さん 享年68 ここまで連れてきて下さり、本当にありがとうございました。心の底からご冥福をお祈りいたします。

Posted at 2011/05/02 12:20:56 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記
2011年05月01日 イイね!

中国を知らない

中国を知らない中国には過去7年間で上海×5、北京×2、広州×2の計9回足を運んでいる。F1と万博がらみのシボレーボルト試乗の他はすべてモーターショー取材という内訳だ。7年前の第一回上海F1GP以来、訪れる度に猛烈な勢いで変化するこの国のダイナミズムに圧倒されっぱなしだが、残念なことに現地でステアリングを握ったのは昨年のボルト試乗会のただの一度だけ。それもリゾートの私有地内のごく限定的な試乗コースを何周か走っただけでしかない。

基本的に現地在住者以外に運転する機会を与えない仕組みになっているので仕方がないが、考えてみると妙な話ではある。昨年実績で1700万台超/年の自動車販売記録し、今年は2000万台という未踏の領域に迫ろうかという近代国家でありながら、そこを走ろうという外国人は限られる。まあ、日本も閉鎖的かつ排他的なシステムやインフラを放置したままなので他国をとやかく言えた筋ではないのだが、これだけ情報が加熱しているのに日本のメディア/ジャーナリストでまともに中国を走った者がいない。

街を埋めつくすクルマは見慣れたメーカーの良く知るブランドだったりするのに、目に映る光景はバーチャルに近い具体性を欠くものになっている。日本も欧米も韓国も、単にモノとしてのクルマを供給しているだけで、グローバルな枠組みの中にあるはずのモータリゼーションに関与している姿勢は希薄だ。

道路をはじめとするインフラは国際規格との間にそれほど隔たりを感じさせないが、国民性に根ざしたドライビングスタイルやマインドが醸成するソフトについては急成長を繰り広げる途上国らしい隔靴掻痒感が残る。すでに昨年の時点で保有台数で日本を超えたといわれるが、路上を行くクルマでシートベルトを締める者は少数派。乗ったタクシードライバーの装着率は見事にゼロだった。

クルマの生産台数や販売台数やシェアや将来展望などのマーケティングデータばかりを聞きたがる新聞TVの取材陣は、メーカー目線のビジネスやプロモーションしか興味がないようで、この国のモータリゼーションという儲け話以上に重要な未来についての展望を探ろうとはしない。走っているクルマは見るけれどそれを操る人々には無関心に見える。そろそろ視点を変えて本質に迫らないと、この国のモータリゼーションが持つ数のパワーが世界のクルマ作りのデファクトスタンダードになりかねない。

中国の地場メーカーは、かつてのフルコピー、そっくりの真似っこさんは相対的に減ったが、その分グローバル化による均質感は増した。下の写真は、中国民族系最大手の第一汽車(FAW)が今回出展したコンセプトカー。上から、(レクサスIS風の)GO、(レガシィがお好き?カムリの路線? の)B9、(マツダの流れデザインにインスパイアされちゃったの?の)T012。GOとT012は見栄えのわりにエンジンは小さめの1.5ℓ(TO12は1.3ℓも想定)。




第一汽車は、トヨタやマツダとも合弁を組む企業集団。相手の影響を受けるのは無理からぬところではあるけれど、この手の洗練はいくら突き詰められても脅威には感じられない。他の民族系についても言えるのだが、ここに来て中国ブランドは世界との実力差を自覚し、現実を直視するに至ったような印象を受ける。牧歌的な真似っこ車は少なくなり、自らの需要層に届くようなメッセージやクルマそのもののあり方を考えるようになった。

その分、4年前に初めて見たハチャメチャ感は薄れ、面白みも減ったといえるが、外国メーカーの進出によって磨かれ揉まれたセンスはやがて実を結びそう。2年後の上海はどのような変貌を遂げるのか。やっぱ、この国、取材対象としての奥行きが深く、ハマるわ。なるべく早く現地を走れるようにならないと。
Posted at 2011/05/01 23:57:02 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「撤収!! http://cvw.jp/b/286692/42651196/
何シテル?   03/24 18:25
運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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