
i-PhoneにFacebookから柳澤瞳生さんがリンク「All right」をシェアしました……とお知らせが入った。
なんじゃらほい開いてみると『エツロー君がまぐまぐでメルマガを創刊した。昨夜創刊第3号が届いた。読者が増えるといいです。君は僕の星ですから・・・』
しばし凍りついてしまった。添付のyoutubeをクリックすると、以前何度も聴いたオタチ(本名の立生
=タツオからつけられた幼い頃からの愛称)のオリジナル曲”All right”に乗って動画が始まった。
去年、松本に行く用があるオタチに付き合って997ターボカブリオレでバビュ~ンと往復した時の映像や先週海の日に大桟橋の日産NOTEワールドプレミアに繰り出した時の画像・映像を器用に組み込んで、お世辞でなく見飽きないPVに仕立て上げている。
僕は昔から友達が少なくて、気の置けない相手にはいつも不自由していた。オタチは高校の同級生で、在学中からギターを持ち仲間を募ってバンドを組んでいた。僕はサッカー三昧の落ちこぼれで、その周辺になんとなくくっついていた。
卒業後それぞれ…ということになったが、何となく大学に入った僕は何となくドロップアウトして、今で言う自分探しをしていたのかな。ハタチの頃、伊勢原に家を借り、神奈中ボウル内のスナックのようなアートコーヒーを営業しながら合宿のような生活をしていたオタチ達のところに転がり込み、半年くらいそのアートコーヒーでコーヒー煎れたり、カレーライス作ったり。
なんとなくバンドの一員みたいになっちゃって、「お前ベースな」言われるまま4弦生ベースを弾いたフリしたりして、ステージにも2度くらい上ったのかな。
石打にオタチのオヤブンみたいな人がスキー宿を経営していて、そこが梁山泊のようになっていた。何度か通ったけれど、その頃にはもうレースをやる!!と決めていて、無駄遣いは一切排除していたのでしだいに疎遠になってしまった。
レースに集中した4年間は生徒会長でチーフメカだった横山健一だけがあの頃の仲間の唯一のつながり。その後自動車専門誌で仕事をするようになってからは、高校時分の面々と会うことはなかった。唯一モーターマガジン社にサッカー部の後輩だった房野が入社してきておーおー、となったくらい。
今から20年くらい前の冬、豪雪の北海道千歳空港駅のホームの階段で「あっ!」奥さんの実家がある道東に向かう途中とかで、こっちは札幌の宿に向かうスケジュールが押していた。すれ違うような再会は1分となかったと思う。
それからは昔の仲間とはまったくの音信不通だったなあ。僕は30の頃同い年の共感から女の取り合いから業界初の仰天企画の連発して一目を置かれたりしていた編集者を亡くしている。
もともと走り屋志向ではあったのだけれど、明らかに僕がのこのこと業界に入ってきてそれまでになかった生のレーシーな雰囲気を編集部に持ち込んだのがきっかけで自腹でフォーミュラレースを始めた。
ちょっとのめり込みすぎを危惧した上層部がモーターサイクリスト誌に異動させたことが、却って火に油を注いだ格好になった。1982年の9月、GCの確か第3戦がFISCOであって、僕はレースリポートの取材で富士に行っていた。折からの台風でGCは中止。すごすごと帰宅すると、自宅の電話が鳴った。
オノダがツクバのレースでジコった。(あのアホが)舌打ちしながら、翌日筑波サーキット最寄りの病院を見舞った。その時は元気で、面談中に訪れたその時のレース主催者(現ブレインズのHさん)に、クレームをつけていたのを覚えている。
その事故は、筑波の第一ヘヤピンの手前のS字で起こった。当時はガードレールにスポンジバリアを張るのが流行しだした頃。滝ような雨の中、ハイプレに足をすくわれてスピンしたオノダのマシンはスポンジバリアに当たって跳ね、インフィールドに仰向け様に落ちて行ったという。
当時の筑波の1ヘヤの内は排水用の池になっていた。そこに裏返しで着水。オノダは朝洗面器の水さえも怖がるカナヅチだった。ヘルメットごと入水した時の恐怖は想像を絶するものがあっただろう。
オノダのレースには必ず取材の形で同行していたカメラマンのギョメは、その現場近くで撮影していて異変に気づき現場にすっ飛んで行った。しかし、一人でマシンを起こすのは至難の業。近くのオフィシャルを叱り飛ばして呼び寄せたが、事態が呑み込めないのか恐怖心からか゛なかなか助けはこなかったという。
なんとか蘇生して病院に運ばれたが、レースコースの排水にはオイルが混ざっていたりしてかなり厳しい。それを飲み込んだ。結果的に3ヶ月ほど入院した挙げ句、肺に入った雑菌が原因とかで静かに消えて行った。
その後D誌の企画で有望視される若手レーシングドライバーを集める企画を組んだことがあった。僕もかつてはauto sport誌などで取り上げられたとき、たとえそれがベタ記事でも嬉しかったし励みになった。少しは役に立つかなと思って親しくもあった5人を呼んだら、その内の3人がレーシングコースで命を落とした。高橋徹 萩原光(あきら) 小河等 マジですか……ですよ、本当に。
まあ、孤立を恐れず……みたいなことを言うようになったのは、この世界で友達は難しいという経験則もあるのかな。なによりオノダとのグッバイはきつかった。
Facebookにアカウントを作ったのは数年前だった。出会い系のひとつ?当初は台湾などから若い女性のお友達申請が相次いだので、そう理解していた。ブレイクしたのは一昨年の終りあたりでしたかね。
高校の同窓生に手あたり次第にリクエストを掛けて、何かできたらいいなと思っていたところへオタチと今も音楽をやっているという一級下の渡辺朝之がヒットして、そこからオタチに繋がった。へぇ、FBにはこういうこともあるのか。20何年ぶりに、お互いカンレキを過ぎたおじ(い)さんがつるんだという、そういうお話です。
ぐだぐだ書くほどの内容ではないと、ここまで書いて思いますが、吐き出すことは悪くない。ま、これも腐れ縁ということでお付き合い……下さいましたね。
ついでにといっては何ですが、オタチも必死に応援してくれているまぐまぐ!の『クルマの心(しん)』、登録にやや面倒がありますが、重ねてよろしくお願いします。変える手立てになるのなら、何でもやる。その意気込みのみでやっています。
下の画はなんとなく書き始めたクルマと拳銃というまあエッセイのきっかけとなった1985年のリバーサイドでテストしたローラT616RE。クラス優勝ですが、ロータリーエンジンのルマン初タイトルはこれであります。

Posted at 2012/07/22 20:17:42 | |
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