「時計仕掛けのりんご」という、手塚治虫氏の短編の漫画がありました。週刊誌4回分ぐらいの長さの作品です。いつ読んだか記憶が怪しいのですが、多分高校時代だったかと思います。
知らない方のために簡単にあらすじを。主人公「白川」の住む盆地の地方都市(稲武市、架空の都市)は、大手メーカーの時計工場ができたことで急速に発展した。
白川は妻と2人暮らしで、ある朝テレビやラジオが受信できなくなり、朝日新聞以外の新聞も届かなくなった。その朝日新聞にはおかしなことは何も書かれていない。不審に思いつつ白川は出社するが、市外に住んでいる同僚は出社していなかった。白川の不倫相手の同僚は、社の食堂で出されるカレーライスの米の味が変だという。白川は米の分析を薬屋に依頼する。すると米の中には脳の働きを鈍らせる劇薬「ビューロマイシン」(架空の薬剤)が入っていたことが判明する。翌日、その薬屋は行方不明になってしまう・・・というものです。顛末は、軍がこの地方都市で軍事政権をたてるクーデターを起こす、という話ですが、既視感が(笑)
情報統制によって一般の人々を洗脳して、ことの異変に気付かせないようにする。そして、支配者側の思うように事を運ぶ。50年も前の漫画ですが、現実はそのはるか昔から、日本は多分600年近く前からずっとこの状態というか、覚醒した時代がないのではないかと思う状況です。江戸時代以前然り、江戸時代然り、明治維新後しかりです。ただ、第二次世界大戦以前はドメスティックな支配構造だったのに対して、それ以降はグローバルな支配構造になったという違いがあります。
最近の日本では、インフルエンザよりも流行自体の規模が小さく、インフルエンザ以下の毒性と考えられる感染症について、そもそも正しい検査をしているのか分からないPCRという検査方法を用いて、そのPCR検査の信頼性を超えるサイクルの検査を行い、単に陽性になった人を「感染者」とか「感染が確認された人」としています。そしてこの感染者の数を毎日毎日朝から晩まで、しかも1年以上報道し続けて、人々を何か得体の知らない「怖いもの」におびえさせて、集団行動や知的活動を封じ込めているマスコミ、という構図です。
ちょっと余計な話ですが、死亡者すべてにPCR検査を行い、症状があるなしにかかわらず、たとえ末期がんの患者であろうと脳卒中であろうと、陽性になった場合はその感染症によって死亡した人としてカウントしているということです。またマスクは(二重を含めて)ほとんど効果がないこと、空気感染の可能性は低いので、対策は三密を避けることではなく接触感染(接触した器具の共有)を避けるべきである等々、対策も矛盾だらけです。でも、マスコミはそれらを一切報道しません。また、日本は欧米諸国に比べて感染者も死亡者も数十分の一であるのに対して「医療崩壊する!」と声高に唱えている日本医師会ですが、医療崩壊に対して何か対策をしているのでしょうか。全く見えませんが、それよりひどいのはそのことについて考察も報道も何もしないマスコミです。ロックダウンをしないスエーデンは、その後どうなったのでしょうか。それも報道されません。何故でしょうか。マスコミもグルだとしか思えません。実際そうなのでしょう。
「何かおかしい」と気づくこと、論理的に考えて矛盾を導出すること、これらの行為を維持しなければならないのに、脳の働きが鈍ってしまっている状態。これでは、支配者側の思うままだと思います。
武田邦彦先生の動画では、これは2019年10月18日の「イベント201」というにニューヨークで行われた会議の中で、具体化されたシナリオそのものだと紹介されています。
本当にパンデミックなのか、パンデミックを優先させるべきなのか、それによって犠牲になっているもの(経済活動や集団活動)は救わなくてよいのか、何が正しくて何が間違っているのか、自分で考える力を維持して、これらを見極めなければならないのでしょう。残念ですが、今の日本では期待できません。人々は既に「時計仕掛けのりんご」でいうところのビューロマイシンを与えられている状態なので。
Posted at 2021/03/21 23:39:11 | |
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