
前日と同じ公園にやってきました。

先に自転車やラジコンを降ろして、この日は鳥でも撮ろうとEOS R5の持ち出し二日目、EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USMを装着して、飛びもの天国に向かう道すがら、まずは蝶の歓迎を受けることになりました。

8/2段々暑さが本格始動。ファインダー内に動体を置けばR5はピントを捉えてくれる征焦大将軍。

いました、我が家のボスです。

家を出る直前に作ってくれたこの日のランチ、早々に頂きます。

これたらこの日も来るという友とは、結局会えず仕舞いでしたが、またの機会を楽しみにすることとして、

まずは400mmで我が子撮りを楽しみます。

こちらの一枚を、

トリミング。協調制御の片割れたる望遠と相性がよいISの働きは、レンズ内にて光路光束光軸が動くことにより解像力にムラがあるレンズ部位を光が移動することになりますので解像に影響があるものと推測されその分描写性能としては落ちることになりますが、望遠でIS作動時がこのレンズの実効解像力と考えて、十分高倍率といえる範囲のズームという性質を考えても非常に優秀なレンズですが、
前日RF85F1.2DSで撮ったこちらの写真を
ほぼ同等にトリミングしたのと比べて髪の毛の解像感等明らかに甘く感じてしまうから人間の感覚とは贅沢に振れやすいものに思います。なおボディ内手ぶれ補正のデメリットは数ピクセル程度のしかも緩い補正範囲しか得られない中にコスト増は無論、耐久性が下がることと思われ、市場の要求度の割りに総じてのメリットが低いと考えてきたキヤノン殿があったと思われ、R5の補正はセンサー稼働領域がかなり限定されるフルサイズにして強力なものを実装してきたと評価できるのかと思います。

動かずとも近寄れて、引けて、というズームの恩恵を享受しつつ、

テーブル付きベンチに座ったまま、おにぎりを頂きながらおじさん楽して記録活動です。

いってらっしゃい。ズームはさらにここからトリミングできることになる解像度の余力もメリットという相違も無論ありつつも、
前日とほぼ同じ場所から同じあたりをRF85F1.2でトリミングした画像と比べると、ズームで撮った画像に肉薄しており、いやベンチの質感など比べれば明らかにトリミングのほうが解像力が感じられ良質に見え、RF85f1.2の解像力、突き抜けたすさまじさを思います。世界一のレンズ、その一つに間違いなく数えられるかと思います。

という極めて地味な楽しみ方もある機材趣味。約160m先もズームで監視します。

1周約4分、

おかえりなさい。

そしてズームを引いた手抜きでごめんなさい。

さて、次は実質ははじめてとなる、鳥撮りにチャレンジをします。

動物優先瞳AFにて、飛んでいる鳥も瞳フォーカスです。川鵜であっても、SS1/400や

その前後ではまったく止まりません。

「あれはなんだ、カワセミだ」と初めてお目にかかりました。想像以上に小さく、そして速く、望遠状態のファインダーで見ているとなおさらに素早く、SS1/500でもまだまだ止められず、

水に向かって下がっていくときはSS1/4000、

水から出て上がっていくときでもSS1/2000は必要であると、帰宅後知りました。

SS1/400まったく羽が止まる気配すらありません。行動パターンもまだ分からずの中に、フレームインするだけで精一杯ですが、ファインダーで見てさえいれば瞳AFしてくれるR5のハイスピードモンスターハンターぶりをみて、

SSを稼ぎながらできるだけISOを上げぬよう光のロケーションも考えたり、明るいF値が欲しくなったり、かつカワセミを撮るのであれば2段か3段は稼げそうなRAW撮りも大切な選択肢と思った次第です。

初めは尋常ではない速さを思ったトンボも、

同じく大きめの鳥であってもファインダー内に収めるのは難しく感じましたが、

飛ぶカワセミを撮ったあとだと、それらが遅く感じられたから不思議なものです。

難易度が高いと考えられるカワセミを攻略していく楽しさは、いうなればドラゴンクエスト等、高評価で人気を博したゲーム対比10倍以上の面白みを感じることができそうな実感に、

他方で多少の経済的負担は必要な装備が望ましいことから、合わせまして定年後の楽しみとなっていくのかカワセミ撮りに興じる高齢の方が少なくないのが頷けました。すなわち、カワセミ撮りは年配者のドラクエです。まずは撮影倍率的に、この20倍くらいを目指して、ときおりドラクエがんばりたいと思います。

EF100-400との瞳認識ならびにAF性能については、R5何ら問題もなく、後日RF35mmF1.8でEOSRを使っていたところ、十分優秀な瞳AFを感じていたはずなのにR5に慣れたあとでは「あれこんなに瞳認識すらしなかったっけ」という感想を内心思うほど、R5の認識性能と追従性能は常時いかなるときも当たり前レベルで、他の機種が使いにくく感じてきます。

「公園、一周一緒に行こうよ」

とこちらは徒歩で付き合っていると「あっクワガタだ」とさすが若い目よくぞ気づきました。私が枝で挟むよう仕向けていると、他の子達も集まってきたところへ「パパが棒でいじめてた」と文夏砲を頂き、我が家は「うわきっも」と興味がないので、虫取りに来ていたお子さんへ譲り、

動物瞳AFに感心しながら、

「パパ早くー」と叱られながら散歩です。

まだまだ色々なレンズを試してみたくなりますが、

涼しくなったら、大砲をつけてカワセミ筋トレに来てみたくなります。

我が子は自転車で先に少し行っては戻ってきて、と公園を半分ほど周ってこれを撮ったあとあたりで、

徒歩の私を置いて先に行ってしまいました。歩きながら望遠レンズで花を撮っているおじさんのことを「あっ昨日子連れでいた人だ」と一目おくべき認識力と記憶力を持つ小学生のお兄ちゃんが優しく形容してくれまた虫取りをしていて、この日の成果につきとかげを中心に見せてもらい、

戻ってみれば、友達ができて遊んでいました。
航空写真家チャーリー古庄氏のブログによれば、航空大手各社、一時期は羽田の誘導路に駐機し、あるいは今でも千歳空港に使われていない旅客機は疎開駐機し、一部羽田スポットに停めてある機体の窓は目張りされ、エアラインはリース料や駐機料の減額交渉を行っているとの話もあり、まだまだ当面厳しい局面は続きそうです。

他方、
フライトレーダー24を久しぶりに覗いてみれば、思いのほか多くの機体が運行されているのも見て取れますが、一日も早い原状回復を思うばかりです。

このとき18:07、周りの木々もあり、合わせて薄暗くなってきて、ISO10000のトリミング。鳥の瞳も捕捉し続けるR5。

キヤノン殿の株価も上がりますよう、祈念する次第でありつつ、

こちらは調べた様子では
ヒヨドリでしょうか、まだまだ様々な鳥がいそうで楽しみですが、
飛んでいる鳥撮りに置きピンをしよう、と発想する野村氏のクリエイティブ力、

そしてもう一花咲かせるんだ、という気概、年齢を思えばyoutubeを見るどころか発信もして、話続けることは加齢とともに多分にエネルギーを消耗する行為でもあり、動画撮りに編集は非常に労力がいる分野かとも思いますが、これらに脱帽に加え剃毛も必要なほど、敬意を思う次第です。

見受けます範囲だと、「写真愛」ともいうべきか、写真へのこだわりや仕事としての写真への妥協なき向かい方が随一に、あるいは世に出す基準の厳しさ、それらはご自身の中では当たり前のことと察しつつ、常人では躊躇するプロセスを経ること、これら極一部の要素かと思うところ、一つのカテゴリーで極めるほどの道程を歩んで経験し体感してきた方の感性に触れらることは、貴重なナレッジの共有を頂いていることでもあると思って止みませんが、

コメント欄を見ておりますと尊敬や敬意を示し伝える内容も多い中に、稀に否定的な書き込みもあったりします。これらへの寛容さ溢れる返しにも一目を置くばかりですが、

「おじさん話が長い」という後者の感想というものは、インターネットで目立つようになってきたものの、今に始まったことでなく昔から世代を隔てると存在していたと思われ、なるほど中年という間になった年齢になりそのような感想を見ると、より成長できる考え方や感性と感受性、それらのエッセンスを吸収できない若い方がいつの世にもいて、行間にこそまたエッセンスがあるのにもったいない、と思いつつ、

かつネット全般につき誹謗的なコメントも過度期でもあろうかと思われますが、ネットが広く普及した昨今において、ダイバシティと物分かりだけよさそうながら、しかし内面はむしろ経験する機会の減少で、練度の積み上げなきハレーションが増え、今の日本は過去のバランスが崩れた結果として儒教の弊害も目立つようになったと見受けるわけですが何事も「こいつ何マウント取ろうとしているの?」と受け手の寛容性は全方位マイマスに振れ、未熟度が高くなっている量的緩和策があるやもしれず、

カメラなどガジェット一つとっても、現ユーザーを慮る内容にしないと、これから新規ユーザー向けに適正と発信者が主観的に感じる内容につき発信しようものなら、政府の忖度は許さないが、俺には忖度しろという大人に配慮する必要が、広く受け入れられるためには生まれてきて、

多くの発信者がその個性を薄くし没していくことになり、当たり障りのないわっしょいと情報商材というものは増えながらこれからの時代は益々貴重で有益な情報がサブマリンなきサイレントになっていく空洞化的情報化社会というものを思わなくもありません。

殊にこの2年前後、私はソニー機をメインに使ってきましたが、

一時期はyuotubeにソニー機推奨が溢れ、これの種植えはどのように巧みに行われてきたのかという論点は置いておき、

例えばキヤノン最高と発するときに「私の場合は」とつけないと「何?ソニーディスってるの?」となりかねない風潮にまでなってきているかのようです。

日本語というものは、謙譲語や丁寧語など、相手によって表現を変えることのバリエーションが非常に大海のようであり、

かつ「相手が目上か目下か」という判断基準も少なくなく、つまりは言ってしまえば「あいつは目下だ」ということを予定しており差別的な発想を前提にしているとも言え、儒教の系譜が深い深いところまで言語一つにも打ち込まれているわけですが、これからの時代はこの点にまた一つ大きな歪みが出ていく時代であるとも認識しつつ、

「どっちが偉いの?」と我が子に聞かれるケースが幾度があってきた中に、思い出せば私も幼いときは同様に「どっちが偉いのか?」すなわちコントロールする側、影響力を行使する側、結局として意思を決する側を子供の頃に気にしていたと思いますが、

「どっちが偉いではなくて、役割が違うだけだよ」「人と人はどのような役割でも対等なんだよ」と伝えてきておりますが、

人は本来平等である、対等である、というのは実はむしろ普遍的、自然的なことではなく極めて概念的かもしれず、

本能的、自然的には親子関係しかり、上下関係が基本に横たわっているような気がしなくもなく、統治論を越えて文化に根付くまでとなった儒教の原点は一つこのようなあたりにあるのかもしれません。

「パパだから、さっきからこっちで撮りなっていってんじゃん、ここで木と絡めて撮りなよ」と誘われて1枚撮り、自転車投入こちらは足で鬼ごっこをしたりこの日の公園オーラスを過ごします。

猿やゴリラ、トラもライオンもその群れには「目上」とされるボスや長老がいて、組織やチームの統制に統率を制御することで、コミュニティの生存率を上げており、DNAに刻み込まれているという一面もあるのやもしれないと、思ってみもみました。

他方で、何事も本能のままだけではむしろ生存環境が悪化するのがまた人間社会でもあると思うところ、

たとえば危険を察知し回避して生き延びる本能というものがあり、悪いところを見る、マイナスばかり気づく、つまりは不平不満を思う、という基礎的要素があろうかと思います。

不満を言う、たとえば人間の赤子であれば生きるためにお腹すいたという不満を泣いて伝えると思います。

というこれら不満や不平を持ち、これを回避したいという本能を多くの場合は持って生まれていると考えられるので、生まれたときはほぼ全員が不満や非難がトレーニングなくしてできうるものだと思います。

本能そのままでは人間社会を生き延びるという意味においては不適切なところがあるところ、大人になっても不満だけであればそれは、トレーニングをして「前向き」「建設的」「プラスを見る」などの練度を上げていくことが足りずにきた可能性があり、これにより、

不満や不平という本能だけを有しているケースと、両方を持っているケースに差異が生まれ、これが生きる延びる、生きやすくなる技術になっていき、つまるところ競争力にさらに差がつき、という要素の関係性があるのではないかとも思う次第です。夕食を買って帰り、

翌日は仕事で宇都宮へ行ってきました。

なんたる幸福感を与えてくれるのか、仕事というものは、と本来の最たる趣味を催行させてもらえる機会に恵まれてきました。

月内にまた行かせて頂けますと幸いです。