
12月14・15日近くになると
テレビなどでも放送される「忠臣蔵」
元赤穂藩の浪士が高家旗本・吉良上野介義央の
屋敷に押し入り主君の仇を取る有名な話です
当時は、旧暦なので、実際に討ち入りが行なわれたのは
現在だと、1月30日の午後~31日に入っての未明午前4時頃
江戸時代の慣習では日の出の明け六つ鐘(1月31日では6時45分頃)を
1日の区切りとしたので、当時の日付としては「14日(30日)の斬り込み」
となります。
映画やテレビではこの時雪が降っていますが、
実際は冷え込みが厳しかったが満月のほぼ快晴
だったと記録されているので、今年のような天候だったんですね
さて、赤穂事件の後、切腹したのは四十六名なのですが
普通、赤穂四十七士と言いますよね
そうなんです、切腹した人数は一人足りない?
その人物は、泉岳寺へ向かう途中に同士と別れて生き残った
「寺坂吉右衛門信行」
現在公開されている映画「最後の忠臣蔵」
で主佐藤浩市氏が演じにわかに注目を集めている
四十七人目の赤穂義士です。
その生き残った彼の墓が、実は仙台にあるんですね
その場所は、仙台市泉区市名坂にある「実相寺」
(宮城県仙台市泉区市名坂字実相寺1)
何故に、遠く離れた仙台なのでしょう?
説明によると、足軽身分であった寺坂吉右衛門は
討ち入り本懐の報告をする為に、同士と別れ
その後、幕府に自首するも許され、仏門に入り
理海坊を名乗り、亡き主君や同士の御霊を弔いながら
諸国を行脚し、1742年に亡くなった
最後の地が仙台だったそうです
ただ寺坂吉右衛門信行の墓は、他にも
・東京都港区西麻布・曹渓寺
・長崎県五島列島久賀(ひさか)島・恵剣寺
・鹿児島県出水市
・福岡県八女市・一念寺
・島根県益田市
・静岡県西伊豆町・慈眼寺
7箇所もあり何故このようなことになっているのかは不明ですが
一説によると当時仙台藩は赤穂藩に技術者を派遣して塩田技術を学んだ
とされ、また討ち入り後に泉岳寺へ向かう際に仙台藩の屋敷前で軽い
食事を取ったとされています、何らかの交流があったのでしょうか
謎です・・・
ということで、忠臣蔵と言えばこのテーマでしょうか
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Posted at
2011/01/31 22:27:42