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2017年07月25日 イイね!

梅雨明けの梅雨空 林道3本 繁栄も今は昔

梅雨明けの梅雨空 林道3本 繁栄も今は昔快晴が続いた梅雨時期。
梅雨明けしたら梅雨空続きである。

そんな昨日、久々エスクで奥武蔵の林道へ。

越生の道の駅のような施設でトイレタイム。
ここは大田道灌の生まれ故郷でもある。



まずは、林道沿いにある大田道真・道灌親子が眠る龍隠寺を目指す。




こんな緑と渓流の流れる林道を進んでいく。
気温は、30度・湿度60%で最近では過ごしやすい部類である。



林道沿いを流れる渓流。


やがて龍穏寺 に到着する。室町時代創建の名刹である。
立派な山門がある。 




山門を潜ると、大田道灌像がある。


重要文化財の経文を納める経堂。


境内の山の中腹にある親子の墓。道灌が暗殺された神奈川県伊勢原市にもある。
江戸城(家康築城のものとは別)・川越城など築城の名手として名高い道灌は
名軍師でもあった。
戦では連戦連勝だったが、その才を疎まれて主人の扇谷上杉氏に暗殺された。
後年、その上杉氏は河越夜戦で小勢の北条氏康に大敗した。
何とも歴史の皮肉である。



この地に住んでいた父親の道真と共に葬られている。墓は意外に質素である。
この寺は、江戸時代には10万石大名の待遇だったと言うから驚く。

車を進めて山道を登っていくと、野末張見晴台に出る。
東京スカイツリーと同じ634mの標高がある。
快晴ならばスカイツリー・上州赤城山・日光男体山などが一望できるがこの日は
何も見えず。代わりに案内板をご覧下さい。


上は展望台の様子。この日は誰もいなかった。




林道は、やがて本線に合流する。ここは梅本線。本線は奥武蔵2号線である。

本線を右折して看板方向に進むと苅場坂峠、逆方向は顔降峠である。

顔降峠方面に進んだ。奥武蔵Gライン上で東京湾まで見晴らせる眺望スポットの
関八州見晴台の入り口に、廃墟となった茶屋がある。
Gライン上で最大規模の茶屋であり、通るたび客で賑わっていた記憶がある。


上写真は、茶屋の展望台部分と朽ちた店看板。

見晴台登り口から見た茶屋。階下にはBBQ施設まであった。



茶屋の上には、最高の眺望の見晴台。直下には、国宝・重文も多い高山不動がある。

このロケーションで廃業とは信じがたい。しかし、繁盛していた20年前とは見晴台
にも高山不動にも、今は人影もまばらである事も事実だ。

先に進むとGライン上では、現在最も賑わう顔降峠に出る。
快晴ならば富士山も、まじかに見える。


*峠の蕎麦屋は、味も評判が良い。
峠の茶屋が2件、フレンチレストランまである顔降峠。
大きなログハウスも完成していた。何に使うんだろうか?


樹々の間からは仏塔も見える。



時間も昼時。蕎麦を食べようと思ったが、それより汗を流したい。
蒸し暑い境内等を、歩き回って汗かきの私は、びしょ濡れであった。

途中から阿寺線に移り、国道299号を目指した。
斜面を切り開いて、大きな民家がある。アジサイも花を散らす直前か。 
急こう配の九十九折れを下りていく。



道の脇を、渓流が流れる定番のスタイル。



林道と言うより幅員の広い生活道路の阿寺線。


この後、299号線に出て日帰り温泉に浸かり帰宅した。

この日は、オドメーターに100Kmが追加された。
エスク20年勤続まで、あと3カ月。10万キロまであと900Kmである。

なお、At 少し驚く番外編は、フォトギャラを作成予定です。

*ブログに一緒にUPすると、全体がまとまりないものになるため。
2017年07月14日 イイね!

42カ月要して10,000PV 達成 本題 パルス充電・バッテリー再生データ

42カ月要して10,000PV 達成 本題 パルス充電・バッテリー再生データみんカラ入会の動機は整備手帳にあった。
とは、何回かブログ内でお話した。

重整備などは到底出来ないが、素人が出来る
メンテナンス中心に簡単な整備経験をUPしたかった。

今回は、自分の中では大きな記録である。

*タイトル写真は、東京・飛鳥山をゆっくり登るアスカルゴ。


整備手帳は、UP以降の伸びが他部門に較べて大きい。
それは必要に応じ、検索されて読まれるのも一因だろう。

自分なども、出来るかな?と思うものは、みんカラ内で検索して参考にさせてもらっている。

1万PVを達成したのは「マフラー修理」である。
*9900PVを超えた辺りから、いつ達成するか見ていたが本日、キリ番で達成した。


*UP数は昨日現在で、エスク150本 スイフト 124本 である。

不思議なのは何故これが・・と言う事だ。
今もマフラー修理をする方が、自分以外にも結構いるようだ。

少しでもご参考になる記事であったなら、「UP冥利に尽きる」 と、言うものだ。

整備項目を見ればお分かりだろうが、素人の日常メンテが自分の守備範囲である。

車いじりが好きなのであろう。要は「下手の横好き」なのである。

最後に、ご覧いただいた皆様に感謝申し上げます。



本題  パルス充電によるバッテリー再生状況

上記のような記事は、単独ではUPしずらいので、こちらが本題の記事である。



極板のサルフェーション除去が出来るパルス充電器購入から1カ月強。
その再生状況に関するデータを記したい。 ご参考になれば幸いです。

1.バイク用バッテリー 2014 購入

購入後2.5年の走行距離は、500Km弱だ。
通常の充電器では、充電が出来ない状態だった。

効果:2回のパルス充電実施した結果を見るとバッテリーは、再生出来たと言えるだろう。
    パルス充電前 12V以下 充電後 12.6V



(1)通常充電器では充電出来なかったが、パルス充電器では充電出来た。1回目
  は1時間で充電完了。セルモーターは回るが始動は出来ない。キックで始動した。

(2)2回目の充電でセルのみで始動した。充電時間は1.5時間だった。



2.スイフト用 カオスブルーバッテリー 80B24 2013.9 購入

効果:エスク用7年物カオスより劣っていた体力が回復、エスク用を上回る体力となる。
電圧 満充電後の従来 12.0V-12.9V パルス充電後 13V以上


従来は、通常充電器で満充電にしても、翌日の充電率は50-70% に低下している。

パルス充電器のメンテナンスモードで、15時間の低電流パルス充電実施。

以降は、満充電翌々日まで充電率100%を維持する。



  
3.エスクード用 カオスブルーバッテリー 95D23  2010.8  購入 

従来はスイフト用カオスより体力があったが、満7年経過を目前に失速。
パルス充電を行わなかったら寿命を迎えていた と思われる。
満充電後の従来 12.0-12.6V パルス充電後  12.6-12.8V

(1)1回目の充電後の翌日充電率100% を示した。*従来は70-90%。

(2)2回目の充電後の翌日 充電率は10%に急低下していた。
  放置すれば、ご臨終の状態になっていただろう。

(3)3回目満充電後、翌日は充電率60%に回復した。
(4)4回目満充電後、翌日は更に90%に上昇している。
(5)5回目満充電後、翌日も充電率90%だったが100%には至ってはいない。
  もうしばらくの連続パルス充電が必要だ。        

結論

パルス充電は、間違いなくバッテリーの延命に顕著な効果がある。
特に、新品時からの定期的補充電は大きな延命効果があるだろう。

生涯で使うバッテリー数を半分に減らせるだろう。

エコロジーとエコノミーが同時に出来る優れものだ。


*関係ないけど・・右は最新式・殺菌消臭扇風機 

なお、今回のスイフト整備手帳にも書いたが、車両火災の原因の1位はバッテリー
端子の接続の緩みである と言う事だ。一度確認した方が良いでしょう。

かく言う自分の車の、端子も緩んでいた。 ご用心!!

不完全接触は、高熱をEGルーム内で発するからである。

今回、新幹線の架線が切れた原因でもある。



今日も猛暑日のようだが、湿度がいつもより低い。いよいよ梅雨明け近しか。


Posted at 2017/07/14 10:02:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車弄り・用品購入 | 日記
2017年07月08日 イイね!

真田丸のロマン求めて 北条最強の出城 武州鉢形城跡 

真田丸のロマン求めて 北条最強の出城 武州鉢形城跡 NHK大河ドラマの真田丸の中で小田原城を
豊臣の大軍に囲まれながら北条氏政(高島政伸)
が、各地の戦況の報告を受けていた。

「何!鉢形城までもが落ちたか!」と悲嘆にくれる場面
があった。


関東の北条の出城を殆ど数日以内に落城させた豊臣軍
は、残る武州の二つの城に、怒涛の如く押し寄せた。

一つは、のぼうの城で有名な忍(おし)城、もう一つがこの鉢形城であった。

特に鉢形城には、城兵の20倍の6万の大軍が押し寄せた。
石田三成が攻めた忍城の約3倍の兵力である。

城兵わずか3千の鉢形城だったが兵の士気は高く、荒川の断崖絶壁の上に建つ
地形を生かして勇猛果敢に戦い、2カ月経っても城は落ちなかった。


業を煮やした秀吉は、当時輸入したばかりの「石火矢」(大砲)を大阪から運ばせ
河原から断崖上の城本丸に打ち込んだ。本丸は炎上し、三カ月に渡った戦いは終わった。

城主・北条氏邦は、兵の命を安堵する事を条件に降伏した。
立派な城主である。1590年の事であった。

天下を統一した秀吉は間もなく没し、関ケ原の戦いは鉢形城落城の10年後の事である。




梅雨の晴れ間の、本日早朝に出かけた。途中道でアジサイの花と。
どなたかが、おっしゃるようにアジサイには、じっとり湿ったイメージがあり私も、どうも
好きにはなれない。


峠を越えて寄居町に入る。長瀞・秩父と続く埼玉県の代表的観光地である。
押し並べてこの一帯は盆地であり、梅雨時期は余計にジトーッとくる。

自宅から走る事、約2時間で鉢形城跡に到着した。
埼玉県では河越城と、ここが日本100名城に選定されている。

国の史跡に指定されたのは、昭和7年の事である。
全体的に地形の保存状況が、非常に良いらしい。
確か30年ほど前に、大規模な発掘調査を行い当時の状態に復元された。

それまでは、本丸跡以外の場所は桑畑だったとの記憶がある。

1.虎口と言われる、兵が出陣した門(復元)。


2.最初と下画像が空堀の様子


3.下画像は井戸跡である。


4.石垣



5.広場から外を見る。敷地は約8万坪(27万平米)である。


6.一段高い林の中に、本丸があった。


7.本丸は、荒川の断崖の上に建っていた。城の形式は、平山城である。
下に見える河原から大砲が撃ち込まれた。

*現在も当時の戦いを再現する「北条まつり」が、毎年春・秋に開催されている。
下は、祭りで使う大砲のレプリカと対岸から本丸部分を眺めた様子。
ここは、景勝地「玉淀河原」でもある。*7/9 下2枚のみ撮影日別。

対岸の小高い丘の森に中に本丸があった。*上画像では林だが、対岸からは森である。


日本初の大砲(石火矢)が、対岸から打ち込まれて勝負が決した。写真はレプリカ。


鮎飯の有名料亭が、中央に見える。後方は寄居町である。
川の左が上流で、長瀞・秩父と続く。絶景にやまゆりが一輪。



8.本丸跡に建つ文豪・田山花袋の漢詩碑。
  上記画像の荒川の悠久の美しい流れと、鉢形城の歴史を讃えている。


9.城内にある諏訪神社の参道


広い城跡を歩き回ったが、この時期にしては珍しい涼風が吹いていた。
お蔭で息も上がらず歩き通せた。

水を飲もうと蛇口をひねったら勢いが良すぎて水を頭から被ったのは、ご愛敬だ。
カメラもびしょ濡れになったが、ハードケース入りなので事なきを得た。
昼食は、途中のスーパーで買った300円弁当と質素なものだ。*全く辛い病気なのだ。

往路とは違う松郷峠を通り帰路に就く。こういう林道風峠道は好きなのだ。



自分が通る時は、1時間に1本の八高線も、遮断器が降りるのであった。




夏草や、つわものどもが夢の跡。

久々に100Kmを超えるドライブであった。
帰宅すると黒背景に白文字の、読みずらいアナログメーターが、99,000Kmになっていた。

*フォトギャラ・ドライブ編 もUP中です。
2017年07月05日 イイね!

吾野宿の不思議発見

吾野宿の不思議発見国道299号線に乗り秩父に向かう途中、顔降峠
への分岐路近くに吾野宿はある。

江戸時代は、秩父往還の宿場町。
明治以降は石灰鉱山の街として繁栄した。

昨年12月、ネットで見つけた写真に目が
釘付けになった。




吾野宿の戦前の写真であった。

これが、その写真である。大勢の子供たちの行進。繁栄する街が写真にも感じられる。
服装から真夏でも真冬でもない事が分かる。マラソン大会であろうか?

*昨年一度フォトギャラでUPした写真で恐縮だが、当時は何もわからなかった。

*郷土資料館に展示の写真が、ネットに出ていたのでお借りしました。


当時の街並みは殆ど変わっておらず、建物の姿も当時のままの姿が多い。
下が、同じアングルから撮影した現在の街並みである。
上写真手前の蔵のような建物は、屋根が赤くなっただけで同じ建物だ。
写真下に、赤い車が停まっている場所の建物は、変わっている。

何回か訪れたが人影も毎回、写真通りである。



1.山が消えた

背景に注目である。戦前の白黒写真の背景には巨大な山が空を覆うように映っている。

下の写真では山の部分が青空に変わっている。これが吾野鉱山である。
秩父にも全山石灰岩の武甲山がある。

採掘は明治から始まったが、特に戦後の復興期から大量のセメントが必要とされ
、山は人間の手で削り取られて、ご覧のようになったのである。

なお、規模は縮小されたが操業は、現在も続いている。




線路端にある石灰貯蔵庫兼出荷倉庫、かつては1階部分に貨物列車が入線していたそうだ。
現在は、ダンプ運送に変わっている。



2.吾野宿のランドマーク  

しかし近隣住民も、何の建物かを知らない不思議



街の中心部に位置するひと際、目を引く立派な古い建物。
「秩父往還 吾野宿」 と、大きな道標が建っている。

この家の前の住人がいたので、昔は何の建物だったが聞いてみた。
すると、自分が子供の頃からあったが、何の建物かはわからない と言われた。
昔から住んでいる方が知らないとは‥一体何の建物だろう?

入口を開けて中を覗いて見た。中庭があり、旅館のような建物が見えた。
人影は見えないが、車が停まっているので誰かいるのだろう。

写真左手に、ギャラリーの看板があった。



3.県指定・重要景観建造物

洒落た大正ロマンの洋風建築と、和風の折衷建築が上記古民家の近くにある。
具体的には、上の画像の赤い車が置いてあるお宅だ。

昨年末、ここのオーナーと話をする機会を得た。
建物は県の重要建造物の指定を受けているとの事。大正時代の建築らしい。

じき70歳になると言うオーナーは、冒頭の写真を見て、驚いた表情をしていた。
子供時代には、山がこんなに大きかったと懐かし気であった。



そして割烹着のご婦人の後ろの家は、確かにこの家だと証言してくれた。
建物は、一部取り壊して、ガレージにしたんだとか・・。

さて、例の古民家は何かと尋ねると古民家のオーナーが昔に東京から移築した
建物とか。しかし、何の建物かは分からないと言われた。*ネットにも出ていない。




吾野宿と国道299号線の間を流れる清流と、上は川の中にある巨岩。



4.建物の正体が判明した!

最初に疑問を持ってから3年の歳月が過ぎた。

今年建物内にカフェギャラリーがオープン、中の案内文によれば、建物は明治時代に
「武家屋敷・長屋門」を、個人が東京から移築したものだそうだ。 
*大名の家臣の長屋に入口を付けたのが始まり。江戸時代では、上級武士・豪農の
  表門であり、両脇に門番などの部屋があった。2階建ての長屋門は珍しい。
 

江戸から移築とは、その熱意と財力に感銘を受ける。
誰が、どんな志でこの地へ移築したかも知りたい。

明治時代に鉄道は、この辺りには、まだ開通していなかったはずだ。

また古民家と呼ぶには、何か風情が違うと感じた造りであった。
それにしても、吾野宿のランドマークが生え抜きではなく、江戸からの移築とは驚いた。




吾野宿を眼下に見る高台に位置する西武秩父線・吾野駅。

この話は、これで終わりではない。
先週、この吾野湧水を見つけたがまだ、見ていない場所がある。


*あちこちの湧水を飲んだが、これはかなり旨い。八ヶ岳山麓の大滝湧水にも引けをとらない。

それが、ここだ。そして名所と共に、山の削られた部分用の鉱山施設跡もあるようだ。




いずれ、日を改めて訪問したい。 *続篇UP済



今回は、実に3年がかりのブログとなった。
写真は、直近のもの中心ですが、一部 2014年のものもあります。
樹々の具合で季節もわかるはず。
続篇UPしました。

プロフィール

「[整備] #スイフト 車内でゴニョゴニョ ステアリング化粧 https://minkara.carview.co.jp/userid/1110056/car/855743/8329088/note.aspx
何シテル?   08/12 08:43
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