
秋の箱根、
仙石原(せんごくはら)。
前々回、
前回からの箱根路続きです。
最近の悩みの一つはどうしていけてる、とくにスナップ写真が撮れないんだろう、ですが、二十代半ばの頃は「どうしてあんなに偉大な先人が後継者を作れないのだろう」というのが悩みでした。偉業を成し遂げる能力と適正なる後継者を創る能力や性質、あるいは原理原則などとの相関関係があるのか、いや相反関係なのか、または因果関係はどうなっているのか、来る日も来る日も考えに考えました。

ピーク前でまだ開ききっていない中でも、黄金色に染まるススキを見ることができました。
ダイエーの中内氏や、最近でいえばヤマダ電機しかり、もしくはユニクロの柳井氏や、はじめから社内プロパーからのトップリーダーを育成するという選択肢を持っていない節すら大いにあった孫氏など、これだけの偉大過ぎる偉人がなぜに次世代のトップリーダーを作れないのか、悩みに悩んで考え、私なりにいくつかの答えと解決方法を若い当時なりに弾き出しました。ならばこういうアプローチがあるのではないか、と。一方で三井の血を入れたトヨタのすごさも知りました。トヨタというものを簡単に言えば、極みのさらに極みな例なのでしょう。

ニコン・フルサイズ。リサイズしても葉の一つひとつの精細な写りを感じることができます。
そうでなくとも、多くの中小零細企業ですら後継者が作れません。「ですら」という意味は引き継ぐべき組織や事業ドメインが広大なフィールドではないにも関わらず難しいという意味です。次に後継者を正確に言えば、価値や土台を成長させることのできる次世代リーダーを意味します。このようなリーダーを作ること、あるいはそのような
リーダーを育成し、熟成する組織文化・風土までを作ること、と言ってもいいですが、これが至難の業であり、世の中を見渡せばいかにハードルの高いことなんだろうと思う次第です。いやハードルなんていう比喩は適切でなく、達成率を考えればエベレストに単独登頂するよりも遥かに難しいことかもしれません。

久しぶりに御殿場経由を目指して箱根仙石原から
乙女道路で帰路に着きます。御殿場経由しか頭になく渋滞をチェックし忘れて大変な帰路となりました。
アップルもまだまだ強固な土台で優位にビジネスを進めていけれると思いますが、アップルのコアコンピタスそのものと言ってもいいであろうジョブズ亡き後、革新的商品は生まれず、そして生まれてこないでしょう。ジョブズはアイフォンを残したかもしれませんが、適切たる後継者を残したのか、あるいは組織のグランドデザインをしたのか、という点については懐疑的です。アップルの後継CEOは、ジョブズの訃報があってからまず居の一番にしたのが、資本政策です。適正たる次世代のリーダーを作ったのか、懐疑的にならざるを得ません。いやジョブズは誰が何と言おうが、超一流の偉人だともちろん思いますが。

クラシックカーツーリング、
ラ フェスタ ミッレミリアが開かれていました。
様々な宗教観が入り乱れる環境において個人主義が確立し、価値観に踏み込めないゆえに人材育成が難しい殊に欧米諸国の中で、つまり逆風の中でP&Gという企業は人材育成企業を超えて、リーダー輩出企業としても有名です。各国のバラバラな文化、あるいは踏み込めない価値観があるのに、グローバルかつコンスタントに適正なリーダーを輩出できる風土・文化を持っています。組織のデザインとしてこの世でもっとも美しいデザインの一つであると感じます。

すれ違うクラシックカー。外国人の方も多く居ました。
最高学府はとくにアメリカにも多くいろいろありますが、知名度で言うと日本においてハーバード大学が最も有名かもしれません。ハーバード大学はヨーロッパから渡ってきた人達がキリスト教のリーダーを作るために創設した教育機関が起源となっています。今やキリスト教に留まらず、各界にトップリーダーを輩出する教育機関にまでなりました。比して日本はリーダーを育成するよりも、いかに協調するかを教える国です。そんな中でトヨタも出資してリーダーを輩出するという理念を持った学校があるので、将来どんな人材が輩出されてくるのか注目もしています。

けっこうなスピードを出しています。
アメリカといえば、日本人はアメリカに多くの興味を持ち、そして知る努力を重ねたほうが望ましいと考えています。魏志倭人伝にある卑弥呼の朝貢にはじまり、遣唐使としてお伺いを立てていた時代があったのはもちろん、このブログも漢字で書いているわけで、元の親会社たる漢民族の影響が未だにそして未来も色濃く残っていくこととは思いますが、途中ドイツを中心に欧州へも傾斜しつつ、70年前にアメリカが親会社になり、キリスト教の文化である日曜日の休みが当然のように当たり前になった今、親会社の考え方や方針すらも興味ないということは、子会社のバイトレベルと同義のようなことになるのではないか、と思ったりします。こんな発想をしているからドイツの保守派からは二流国民扱いされるのだと思うのですが、事実を受け止めたいとも思います。

乙女道路を抜けて、天気がいいと目の前に富士山が見えるあたりですが、この日は雲が多くて見えませんでした。
いろいろなことを駆け巡らせながら、人を残す難しさを思いつつ、次の言葉を考えてみたいと思います。
誰が言ったかわからないというこの言葉、
「三流は金を残し、二流は事業(仕事)を残し、一流は人を残す」
改めてこの言葉をネットを叩くと、いろんな意見や解釈があります。「仕事できる人はお金を残しやすいでしょ」や「人を増やしておく」など、限定的な解釈や文言を忠実に捉える人もいたり、いろんなことを思う人がいるのだな、と感じつつ私はある時から次のように、この言葉の意味を考えるようになりました。

この先渋滞している東名高速にて「あ、仲間だ」と似ているCクラス、色も同じに抜かされて。
この言葉を何も持ってない若い時に知り、盲目的に「ならば、どうせやるなら、一流を目指そう」と思ってきた中で、
この言葉の意味を少しずつ考え、やがて「少しでも多く社会に貢献しなさい」という意味だと解釈するようになりました。個の目線でいえば大切な役割の一つだと思うようになりました。
統計的に言えば、財を成しそれを受け継いで来た層のほうが少ないといえます。一時は繁栄しても没落してしまったところもあるでしょう。人は生き続けるとそれだけで一人生涯で最低でも1億から数億円のコストもかかります。先祖数十代まで遡り、何十人何百人とバトンを繋いでがんばってきたのに手元にない、と考えるとお金を残すことがどれだけ難しいことなのか、とも思います。

だんだんと暗くなってきて帰路。いくつか観光すると時間はあっという間です。渋滞をさけるナビの案内でこのあと下に降ります。
ある日、この言葉をそれぞれ分解し、仮定して考えてみました。前提として「残す」とあるので、この言葉の意味は主に、本人が死んだあとの「後進」を想定した生き方として考えてみます。

「あ、仲間だ」さっきのベンツがいました。同じ渋滞回避のナビなのでしょう。
まずお金だけ残した場合はどうなるのか、すなわち裏腹に事業も人も残していない場合です。目の前に十分なもしくは膨大なお金だけがあると人はどうなるのでしょうか。後進は努力や苦労、研鑽をせず、お金だけ使うようになりやすいと思います。お金だけ残されると、
後進は貯金を下ろすだけしか能力がなくなり、つまりはそのような後進を作ってしまうことを意味するのだと思います。そして、
それらの後進では、社会に貢献できないではないか、という意味に捉えることができます。
旧バブルの頃に主に株で1兆円遊び、プライベートジェットでときの政治家も連れだってラスベガスに通いをした人がいるのですがその人の言葉を借りると「ATMでお金を下ろすのは誰にでもできるんだよ」と言う通り、お金を下ろすだけなら子供でもできることなのでしょう。あるいは大げさな表現もあると思いますが某世田谷の駅から駅を自分の土地だけで歩いていけれるというほどの大地主だった親を持つある人はすべての財産を食い尽くしました。最後は親から告訴までされていました。お金だけ残した場合の典型かもしれません。

小田厚から圏央道、一般道で見慣れないところを案内されました。
次にお金と事業を残した場合はどうなのか、つまり人を残さなかった場合です。これも同じようなことで、適正なリーダーなくして事業を拡大できず、つまりは価値を積み増せないと、遅かれ早かれ時間の経過とともになんらかの価値という資産は放ってほくと絶対的にも減少していきます。あるいは新しく価値を提供する第三者が出てくるのが世の常なので相対的にも価値は毀損を続けることになります。
事業が毀損すればそこで働く人々の幾らかは仕事を失うこともあるでしょうし、継続して技術や商品の価値を向上していく機会損失も生まれることでしょう。知り合いの例で言いますと、子供たちは某有名私大まで出させてもらい会社ももらって兄弟で運営し立派な収益も出し、つまり親から多大なものをもらってきたのに、父親が運営を続ける会社が困窮したときに「父から何もしてもらっていない、だから助けない」と言いました。まともな人を残せていない、と言って差し支えないと思います。
自分たちは悠々自適に生活し、父親は工員になりました。いま少しずつですが縮小をはじめています。新しい価値を生み出せていません。人、つまりは適正なリーダーを残さなかった事例だと思います。
大手企業を例にいえば、たとえば某メーカーは、正確に言うのであればその後進達は、ここ数年だけで2兆円のお金を溶かしました。もっと厳しい事例としては、お金も事業もあり、人、すなわち適切なリーダーがいないとサンヨーのようになくなり、雇用や、積み重ねて来た技術や事業価値もなくなり、
結局としてそれもまた社会に貢献してないではないか、と捉えることができます。

そしてまた東名。かなり遠回りなナビですが素直に従ってみました。見慣れないところをドライブできたのでよしとします。
さらに、人だけ残して、お金も事業も残さなかった場合はどうなるのか。
人、つまり能力あるリーダーを残せば、ゼロから何らかの事業を築き、成長させ、社会へ価値を提供し、あるいは雇用を生んでいくことになります。
人を残すということは、社会のためになることであり、つまり社会貢献できるではないか、と捉えることができます。
では、すべてを残した場合はどうなるのか。
2015年も11月になりました。つづく
運転中は考え事をしすぎないようにして、
ドライブへ行こう。