
仕事から子供へ。心の遷都があった日から丸五年が経過しようとしています。そしてタイヤの基本構造も運動も、銀河との共通点を見つけようとしてしまうから不思議です。なお稼働中の全世界の全タイヤ簡易推計多めに見積もって90億本は銀河の数はおろか、1銀河における恒星の数に足元にも及びません。
2歳でジープ好きになり、3歳でオフロードが本格的に好きになり、4歳でオフロードの経営をしたいとグアムで発し、5歳で
納税もしながら「RAV4は毎日どれぐらい作っているの?トヨタの社長はどんな人?」と経営ヲタクの第一歩ともいえる興味を自然と持つようになるまで、足掛け三年、四年かかったわけですが、強制せず押し付けず、本人が興味を持つことが最大の宝物であると思い、基本待ちの姿勢です。

とはいえ多少の投げかけもすることもあります。過日は「パパが今立ち上げようとしていることは、成長市場なんだよ」といえば「市場って?」と今の日本はマーケットが萎んでいることが常態で、成長市場は少ないこと含め、市場性についても話をしましたが、

まだまだ理解はこれからながら、気長に経営や経済について会話をしてみたいと思いますが、少しずつ一緒の時間も少なくなる流れの中に、あと十数年、あるいは20年弱、あっという間な気もしています。

明確に意識していた小学校1年生から数年前まで私にとって人間関係とは「いかに支配する関係か」が本質あり、今はいかに個性や尊厳を大切にするかという考えに変遷を見て来ましたが、価値観、感覚がそのままにこの子と出会っていたらと思うとぞっとする次第です。

もう時期44歳を数えようとしています。50歳まで、60歳まで、際立って主観的時空が加速をしていくのだろうと戦々恐々ともしていますが、

この年齢になってくると社会に出てからお付き合いが20年を数えるようになった、という方がちらほら増え始めました。これも有難いことだと深謝を重ねる機会も多く頂きます。

私は就職をしたことがなく、就職のしの字も思ったこともないプータロー人生ですが、

社会に出て会社を作ったばかりで、苦しい頃、多くの人に助けられたと思います。その一人の方は、とある大を10個はつけてもよい、日本で最たる会社に数えてよい中の人でしたが、

「おう、分かった、口座を教えろや、おいらに任せとけ」と、

コンサルタント業務の対価、という名もくで私の会社へ毎月40万円を振り込んでくれるようになりました。

通常であれば取引アカウントも難しいであろうに、作ったばかりの新設な株式会社へ、契約書もなく、取引申請書や審査もなく、

大企業そのグループ会社から、毎月入金を頂くようになりました。何かあったら使えとそのグループ「主査」の肩書が入った名刺も頂きました。

4年はお振込みを頂き、当初はこれがどれだけ助かったことかと思うところです。

そしてそのように可愛がってもらいながらも、私は若い勢いに任せ日本一のグループである「Z社だろうがなんだろうが喧嘩を売ってやる」と、その方との会話を録音して突きつけるほどに、一度疎遠になりましたが、

やがてその方が属するグループと恒常継続的取引を行う事業をする運びとなり「詫びの電話」を入れるところから、

ご縁が復活しました。売上1兆を越えるグループ会社、同2兆、同2兆、同4兆を越えるそれぞれグループ基幹会社とも次々と現場の評判を頂き取引を頂戴するようになりました。

インターネットで私の名前を検索しますと、あるいは与信会社などの調査結果も「政財界に人脈がある」「政治力を活かして業容を拡大」等記載されていることがあるのですが、

これは内情を知らない第三者が好き勝手にタイピングした虚偽な成果であって、実際にそうしたことはなく、あるいはキャノン御手洗氏の隠し子や某反社勢力の会長隠し子という噂まで流されたことがありますが、これも事実無根で在り、

基本かつ原則として、現場から評判を頂き、客先各社グループへ取引が広がっていったことが事実であり、

例外としては取引アカウントの増産としてのMAによる拡大という営業戦略としては二輪軸で、

人脈を活かして業容が拡大したことはほぼなかったともいえるのですが、

しかし見えないところで、この10余年以上、多くのグループ会社において現場で最も力を持つ課長職の方やあるいはその上席、幹部の方、当該グループにおけるキャリア組、社長経験者や果ては当該グループ会社で権力をもつ一族、もしくは24歳ほどの私にグループ会社社長の愛人までご紹介頂き、その愛人殿が経営する法人経由で労組に関する仕事も頂戴したことが社会人として三つ目の仕事だったように覚えていますが、

この巨大グループにおいて多くの繋がりを作って頂いただけでなく、多くの社会勉強もさせて頂いたように思います。泥デビュー、極軽いオフロード入り口だったFJサミット。

隣国を引き合いに出し、一国よりも財務力がある会社でありそこらへんの国以上、と私は表現してきたグループゆえ、あるいは夜の女史相手に「俺の太客は並みじゃねぇぞ」と嘯いていたときもありましたが、

その方1人ではさすがにつぶれないが、「Mさんが100人いたら、この会社も潰れるほどのZ社におけるやくざである」とその方を評してきました。

お行儀が際立ってよいZ社において、この方ほどやくざの親分肌のような方は見たことがなく、

周辺国以上のような巨大さにおいて、頂上あるいは事実上の系列な外注先現場もしくはひ孫請けオーナー社長氏に至るまで垣根に関係なく、しかも縦横無尽にこれほどグループ内で人脈を持っている人も聞いたことがなく、さらには相手が誰であろうと同じ接し方、話し方であり、

他方で「常時全艦隊総攻撃タイプ」とも評してきましたが、しっちゃかめっちゃなやんちゃさもある中で、

「どらさん、これやったらどうだい」「やりません」と数え切れないほどやり取りもして、幾多の商材・ビジネスも提案を受けて来ました。「FJクルーザーサミットの帰りに寄ったあのお城みたいのがあるサービスエリアなんていったっけ?」とこの一年後も覚えていた、一緒に土の確認をした沼津SA。

「Mさん、これは悪くはないが、やろうと思ったら人生をかけないとうまくいかない。そんな甘いもんじゃない。命をかけてやっている競合に勝てると思えません」というのが断り文句でしたが、中には一つの商材だけで何度も「これをやれや」「ですから前に説明したとおりです。やりません」と数年がかりで続いたものもあります。しつこさも半端じゃありません。

そしてその提案はつい最近でも続います。

10年以上前にご紹介いただいた、Zグループ基幹会社の部長氏も、定年退職したと聞けば月日を感じずにはいられませんが、その方よりはるか年上であり、

この人のエネルギーはどうなっているのだろうか、と思うほどなわけすが、

「あとはおっちんでいくだけ。俺が持っているものを使ってほしい、継いでほしい、引き受けてほしい」という気持ちも毎々伝わってくる中に、

ここ数回、今でも人を引き合わせてくれながら、重ねてきたお酒の席で、

昨夜の飲みで「じゃあ、やりますか」、と返答している私がいました。

現業の業界に籠っている後進にたまには外に触れたほうがよいと思い他意もなくでしたが同席してもらっている中、

とあるビジネスを取り組むこととなり、これから後進による縦横無尽な人脈訪問劇が始まります。当該ビジネスの営業経験もあるゆえ、一定はスムースにいくように思いますが、ここ数年得たノウハウと少しは成長できたかもしれない感覚でどこまでできるか、

ここ半年ほどかリサーチを重ね、一昨日も夜に講釈を頂いたり、紹介の紹介を頂いたり、新しい出会いもあるビジネスと、

この恩人がここ数年来提唱するビジネスは私になりに変換して、とあるビジネスとして、

この恩人がここ何度か連れてきていた社長氏のビジネスも巻き取りをするやもしれず、孫請けひ孫請けから、間をどんどんどかして下請け場合によっては元受けに整えていくのは、Z社やN社が下請けをしてくれたこともあった私の得意分野の一つに思いこれをお手伝いできるのか、まずは見学にいくことにしますが、

来春からスタートしましょう、それに向けてこの手順で準備しましょう、まずMさんはこれをやってください、だめならこうしてください、それでもだめならこうしましょう、それで下地は整いますから、次にHさんはこれをやってください、とまとめサイトのごとく数年ぶりに仕切らせてもらったお店は、

「どらちゃんがこんな小さいときから知ってるんだよ」とマスターから声を掛けて頂く40年来という関係性の有難さ、

「この人がこんな小さいときから知っている」と言ってもらえる環境は今の時代、とくに稀有にも思いつつ、我が子に作ってあげられるか、一店心当たりがあるので、それも意識してたまにお伺いさせてもらっていますが、

私が成人式で着た袴は、とある生保創業家から頂いた由緒があり、それをMさんに差し上げていたので我が子は七五三に袖に手を通すことはできませんでしたが、それを私の子に着させるために返そうという会話もあり、その行き来が今の時代にはない粋に感じ、

あるいは年1回しか出てこないという一升瓶を三本、別の恩人年末の御礼用、我妻用、後進奥方用にお土産として、「大切そうな話ししてたから、こっちに客入れなかったからね」というこれも今の時代にはないであろう気持ちへのお礼も兼ねて、売って頂く宵としました。

当該居酒屋店が入るビルのオーナーが有する会社も本業が人手に渡ってしまい、それを知らずで、最近どのような様子なのか立ち話もして、常に時代は変わり、環境は変わり、

少しずつ確実に皆さまも己も年を取り、それに寂しさも思いながら、

「20代、30代の頃のように、また力強く巻き込んで抱き込んでまとめ上げていきますか」と会話しながら後進の助手席で帰路に就きました。

帰ってみればお取引先の女史が夜にまでまたメールを下さっており、そのご高配のおかげでやってこれたという感謝を思いながら、次のフェーズでもお力を賜りたく、転職する機会があればぜひ選択肢に数えて頂きたいと内心で懇願することは恒常的に、

そしてRAV4売却。そのドライブを幼稚園後にした昨日。最近では「Gも売っていいよ、あとSもね」とSは売れ売れずっと言われていますが、Gにも執着心がなくなり、

RAV4も色気が抜けたのか、GやFJはむしろ私の方が執心が生まれてますが、RAV4はまったく何も感じるところがなく、早々に手離れ決定です。

傘を忘れた翌日にかけてあった思い出。Gは来年入れ替えることになるのか、いや実用的ではない上に不要に目立つ入れ替え候補に二の足も踏みますが、ちょっと聞いてみておどろいたのが旧Gの相場が上がっており、約一年前と比較して10%上がっているように思い、オークション相場を聞けば、ほぼただで乗らせてもらった感覚です。まだ売らないと思いますが、

成り行きで見守りたいと思います。

実はこっそりFJクルーザーも別のかなりイカした2018年式5千キロと保有車に同様な着心地の一台に入れ替えようと、問い合わせしている最中に別の方に売却が決まってしまい、しかしそれも縁、

もう少しなのか、ずっとなのか、昨年購入し英語のお迎えだけでも嬉しかったはずのFJクルーザーを大切にしたいと思います。

英語の帰りにメロンも食べた2018年、4歳の頃。

こうしてばぁばの愛情ももらって、
じぃじのお見舞いにでかけた夜のGL、V8サウンドも懐かしく、今ではV6+モーターが保有車の上限値となっていますが、他方で最小構成は三気筒。こう言ってはなんですが、軽自動車を我が人生で個人的に有することになるとは予定外です。

お茶も入れてくれ、V8が最もバランスがいいと思っていた頃もあり、V10、そしてV12しかもツインターボも乗ってきた中で、V12はやはり格別雲の上を思いますが、

私の場合は6気筒あれば十分に思うようになり、スズキの三気筒にも乗るようになった感想は、

「スズキってすげー」と思うようになり、こんな車を作れるのは世界にスズキだけだ、とも感じ、

660ccでこれを成すスズキは世界一の技術とセンスを持っている会社の一つである、としみじみ思うようになりました。

高速ロングツーリングも何ら問題なく、アイスを半分くれたあの日も懐かしく、

むしろオンロードも楽しく、

私も我が子も最たるお気に入りで、どの車よりも現在はジムニーに乗ってでかけたくなります。

そして泥の中を走ろうものなら、さらにその瞬間に楽しみをクール宅急便で届けてくれる車、それがジムニー。

もう一台買っちゃおうか、いや止めてこおう、それがジムニー。

じゃあもう一台はJB23にしておこうか、いや止めておこう、そう、ご唱和願います、それがジムニー。

家事も手伝ってくれ、

ケチャップをかけてくれた一年前の11月28日。から思えば丁度丸一年。この頃は創業1年少々ぐらいで380人がご飯を食べる環境になっていたようです。
つづく

「あっこれもスタッドレスだ」なんで分かるんだと聞けば「スタッドレスはギザギザが細かいんだよ」と教えてくれたもう冬かと思う2019晩秋の先週。

いつも飴を下さるコンビニの若きオーナー殿その弟氏からコンビニがくれるはずもないはずの三つもお菓子を頂いてしまい、つまりはドラマと、気持ちと、喜びをもらい、

「対角線スタックごっこ」を腰を据えて、微調整を重ね「うわぁこの形がかっこいい」とこのスタイルで10分は遊び、替えのバッテリーは途中でママが届けてくれ、

RAV4売却ドライブへ行ってきました。

ハンドルも握っておいた経験値2019。