
一番苦労を共にしてきてくれている後進へ思わず言ってしまいました。

「助けてほしい。このようなことを言っては怒られるやもだが、暇すぎて死にそうだ、辛い。思わず
暇つぶし100選も見て「ケーキを作る」もあったけど、だめそうだ」と。

「折り紙を折る」もだめそうだから、ゆえに早く次の会社も作りたい、とも付け加えましたが、見かねて週明けの遠征に誘っていただきました。

日々充実して楽しい、一年前までのあの感覚。

朝、コーヒーを買って出社し、デスク周りを整えて、打ち合わせに面接、各種手配。朝のコーヒーを買うところからして充実した日々でした。人によっては20年近く、あるいは20年少々、教育というものを受けて、社会に出て、それから40年乃至50年前後仕事をする。

仕事というものは、人生における最大の暇つぶしである、そのような一面も確実かつ如実にあるのではないかと思いを重ねる最近です。幼稚園へ我が子を迎えに行き、顔を見れば、自然と私も笑みがこぼれ、体温が上がり、疲れも吹っ飛び、子供と一緒にいる時間はいいのですが、子がそばにいないアイドリング中は、かなり瀕死の仮死な状態となっています。

あと一年。

小学校に入り、落ち着く頃であろう、来年の今頃は仕事へ本格的に再びスイッチし、復帰モードとできることを楽しみにしたいところですが、中年の運動会参加状態、すなわち勢い余って怪我をしないよう気を付けたいと思います。

本来、新会社スタートアップは現在の環境・リソースというのを母体にして最大限活かす、有能優秀な力にお願いする、という選択肢が定石であり、成果に対して最良の一手かと思われますが、

もちろん多少、大なり小なりの協力というものは頂いていく運びにしますが、人材の確保からして、新しいご縁を作るところから始めてみたいと考えています。なぜならば暇だからであり、暇つぶしが欲しいからであり、そして日々の充実感を仕事からいただきたく、

リソースを活かして、となるとすべて頼り切ってしまい、あるいは要領を整えてやってしまいそうであり、

多少の紆余曲折をしながら、己というリソースを活かす観点を再び投入しようかと取り組んできていますが、生まれ持った性急さで、あと一年じっくりがまんができず、ぽちぽち動きながら、

従前は十余年かかった地点まで、今般はなぜ一年半程度で行くことができたのか、考えてもみています。

いくつか理由はあろうかと思いますが、大きな要素その一つは価値観の押し付けをやめたからではないかと考えてみています。

企業理念にはじまり、社訓や行動規範各所のイムズ、あるいは研修にワークフロー細目に渡るルールまで、

いうなれば価値観の押し付け、もしくは強制かと思いますが、うまくいくやり方、その土台となる知識の習得、社が定義する成長があり、その成長を求めることもいわば強要してきました。

しかし今はまったくもって個性を活かすというと口幅ったくおごりかもしれませんが、

持って生まれた個性をそのまま、あるいはときに最大限、もしくは適正を最重視して、仕事を依頼していく方針で、逆説的にいうなれば「成長」をまったくもって求めない考え方です。

成長しなくてよい、成長するな、ということではありません。求めない、強制しないということであり、成長したい人は成長し、したくない人はしなくてよい、あるいは成長したいところまで成長を望んでもらい、要望を待ってからトライする環境を提供し、背が伸びるのは強制できないのと同じく自然に伸びたければ伸びてもらい、という考えでいますが、そもそも成長というのはどのような意味なのか、

そこからして人により定義はさまざまであり、さらに根本的に平均的な生物学的理に反する大人の成長などあり得るのか、あったとしてもできる人、できない人もおり、定義にもよりますが、私見では後者の素養を持つケースは1割未満、もっというなれば1%未満かと感じています。

どこで実質的な成長が止まるかも人それぞれのような気もしておりまして、小学生、中学生、あるいは30歳、70歳と、

すべてが要素は千差万別です。

私が過去考え注力に勤しんできた、あるいは今日現在多くの企業や組織で敷衍が続く「価値観の押し付け」。

人は成長できる。成長するために努力しよう、過去に捉われるな、トライしよう、変わろう。

それらの嘘と「よりよくなろう」「今よりよくなりたいだろ?」という妄想と洗脳で塗り固められた考え方や文化は、もうこの先は通用していかないのではないかとすら思っています。

容姿と体力を除く、その他の要素、とくに内面性、精神性や知見というものは努力を惜しまなければ、望むすべての人が、経験や年を重ねるほどに成長をしていく、という妄想をまるで天動説かのごとく植え付けられあるいは利用されてきたように思いますが、

脳は分野によりピークが異なるやもですが、いずれにしてもピークを境に衰え続け、各内臓器官も劣化の一途であり、各内臓からの分泌物は脳の活動へ牽連して影響を与えますから、脳自身の衰えに加え、活動環境も悪化し、記憶力、判断力、思考力あるいは視力や聴力も低下すれば情報収集力、学習力、認識力も劣化し、それが加齢の正体の一つなところと思いますが、

それを努力すれば人は成長する、いつまでも、何歳になっても的に刷り込まれ、これを前提とした環境が多いのではないかと見受けます。

成果を出している我こそは正しい、しかも最もだ。だから同じ考え方、同じやり方をやれ、それが最も成果が出るのだから。同じ考え方になるために、我こそがよいと感じる、思うものに触れよ、経験せよ、この本を読め、ここへ行け、このような経験を積んで来い、そして慣れろ。

お前がよいと思うもの、思ってきたもの、そのようなものに価値などないから、まずそれに気が付け、そして捨てろ、忘れろ。乱暴に言えばこのようなことを、丁寧に洗脳していくプロセスを経て、企業戦士を作っていくのではないかと思いますが、このように育てられる側も含めて、このやり方にも一定のメリットや効果があり、例えば戦地に赴く兵士を思えば、実際に戦い、勝てるようになり、あるいは心が折れにくくPDSDになりにくく戦え、など警察官も同じく、スーツに時計、カバンにこだわるも同じく、もしくは画一化され共感を生みやすい土壌で生きれるともいえ、

一方で、多様性が進む昨今、

インターネットを介して、多様性が広がるゆえのいざこざや精神的疲労も増え、

つまりはリアル、ネットを問わず人間関係に疲れ、悩み、もしくは孤立していき寂しく思う人も増えていると思われる中にある根本や背景というものは、個同士、個性の尊重や他者理解が足りないからであるような気がしておりますが、

「なぜあいつはあんなことを言うのだ」「なぜあいつはあんな言い方をするのだ」「何を考えているか理解できない」「普通は」と、人間関係の齟齬が拡大し、

軋轢となり、「もうあいつと一緒に仕事をしたくない」「あいつだけは許せない」「あいつは好きじゃない」など人間関係が破綻していくケースも見受けられ、またはそうならぬよう我慢に我慢を重ね、腹の中で批判しその相手を認めず、それが人間関係の本質であると自己説得に勤しみ、というのは、人間や人と一括りに考えられてきた時代があり、あるいはそう教えられてきた時代があり、

テレビや自動車、リゾート地に、美味しい料理、マッサージに、温泉、それらの極上バージョンは、誰でも心地よいはずだという思い込み、刷り込みもあり、

そうして「私のお勧めです」という口コミ、あるいはマーケティング上、初めに影響力を持つ人を定義づけ「お勧めです」という価値観の押し付けが満遍なく行きわたる時代となり、「影響力ある人になりたい」という価値観も生み出し、しかしそれももう終わろうかとしている時代背景になってきたような気もしていますが、

「人はそれぞれに違う」という理解が少しずつ社会的に進み始めている、もしくは進んでいるのではないかと感じています。

私は若い頃からつい最近まで、旧文部省の寺脇氏の考え方に強い嫌悪感を抱いておりました。当時の中学生的思考をそのまま持ち越していましたが「何が共生だ。生きとし生けるものすべて生存競争をしているのに、真逆の教育政策ではないか。国がそのような舵を過去に切ったことは間違っており、その中で育ってきた若者は傾向として競争心が足りなく、この国際競争社会の中で国力の根底が軟弱になる」と考えてきました。

しかしこの1年少々、久しぶりに若い方々と仕事をご一緒させてもらい「寺脇氏(または当時の文部省)はすごい」という感想に変わってきました。個々異なるわけですから、実に多くの価値観があろうかと思いますが、

しかし傾向として、どう教育されてきたのか後天的環境という影響もあるかと思えば、

今の若い方というのは「仲間」を大切にし、つまりは多くの中年や年配者ができないコミュニティ内で相手に尊厳を持つ、ということができる特性を強く持ち、価値観は多様であることを知り、相手の個を大切にしながら、しかも個を活かしあいながら、すなわち共生を強く実行できながら、

他方で、しっかりと競争力、殊にコミュニティ外に対して持っているという所感を私は持ちました。高度ともいえるコミュニティ力を持っていることにより、平準化されてしまう金太郎飴的なコミュニティよりも、結果として競争力も強いと感じています。教育政策的な観点でいうなれば、寺脇氏がいた文部省は人間が持っているそうした素養を引き出した、と評価できるのではないかと思います。

そのような要素は尊敬に値し、個としてそれらを持っている若い方々に敬意をしみじみ思うところですが、そのような若い方々と接しているうちに、寺脇氏への評価も180度変わった次第です。

人は違う、一人ひとり何もかもが違う、そしてそれぞれの個性がそのままでよく、優劣ではなく、ときに役割が異なるだけであり、という社会への理解が胆から進んでくれば

いい時計をして、それを欲しがっていた頃を今同じようには、私の個性の場合恥ずかしくも思いできませんが、同様に「お勧めです」という行為は、もう恥ずかしいどころか「お勧め厨」という呼び方まであるのではないかと思うほど「痛い」とすら思うようになりできなくなりました。なお最前線では時計にカバン、スーツや髪型にこだわり毎朝整える儀式をすることは、外に出て戦う武装として必要な精神状態だと考えています。

社会の理解ではなく、今度はそれが生物学的、遺伝子工学的に、知識として明確化してきたのを教えてくれたのが「
あなたの中の宝物“トレジャーDNA」かと思います。

今後益々、DNA・遺伝子の解析が進めば、どの遺伝子が何に作用しているのか、「一人一人の個性が鮮明に明確化されていく時代」かと思います。

コーヒーが得意不得意、好き嫌い、これも遺伝子で決まっていることであり、

コーヒーが好きだけどカフェインの分解が苦手でコーヒーが不得意な人には、そのようなコーヒーが提供され、

コーヒーが嫌いな人へ「コーヒーがお勧めです」ということは、どんどんネタにしてほしいということで参考出典させて頂くと五体不満足の乙武氏へ「ニューバランスがお勧めです!」とどや顔で言っているに等しく、

あるいは「なんでコーヒーのおいしさが分からないかなぁ」と呟く人は、同じく乙武氏へ「なんでニューバランスのよさが分からないかな」と不満を持ち、それがストレスになっているのと同義であり、さらには「ニューバランスのよさが分からないから、あいつはだめだ。こんなにも履き心地がよいのにわかってない」と人格批判まで始めれば私は過去に過ちを犯してきましたが愚の骨頂と同じく、

手足は見えやすいですが、実に多くの味や香り、その他感覚ひとつとってもみても、これらに対する受け取り方に大きく影響するDNAや素養は見えにくいながら千差万別であり、という意味でのたとえであり、何かに作用するDNAは持っているけど、何かに作用するDNAは持っていないというのは全人類において等しく発生しており、これが今後は知識として、あるいはやがては情報として個体ごとにまで視覚化されるといっても差し支えない時代になっていくのではないかとも思い、

もしくは糖を取り込めないDNA、つまりは糖を取り込むDNAを持ってない人が、多くの糖尿病を救ったり、持っていないことも個性であり、活かされ、そのような時代であり、

あるいはマーケティングにおける「イノベーター理論」も破綻もしくは没落していくかもしれず、

他方で「イノベーター」の要素がある人は、またそれも個性で、

たとえば親という存在は多くの人にとってイノベーターであることが散見されるかもしれませんが、私の場合は今でも母親から「あなたこれ食べなさい」と理由は「おいしいから」「体によいから」と、どれが体によいのかも個体ごとに異なり、お勧めはいらないわけですが、

しかしその母親の勧めで食べてみれば「実に美味しい」と知るときもあり、新しい知覚との出会いそのきっかけとなるわけですので、むしろ貴重な存在になっていくやもしれず、

あるいは、子というのは、親から受け継いだDNA中、平均70個のDNAが必ず突然変異を起こしているそうで、つまりは新しい個性を必ずもっており、

親と子も違う、親が美味しいと思うもの、子が成長したときに美味しいと思うもの、同じなこともあればどちらの親とも違う、その子だけの個性なこともあり、優劣ではなく、あるいは得意なことも同義であり、

そもそも私にはコーヒーが体によいとしても、子にとっては同じか分からず「一律に体によいから」という価値観からして崩壊しかかっており、「お勧めです」は今後の社会では不勉強の顕れ象徴となっていく過程を経て、

テレビでも「〇〇は健康によい」というテーマは今後廃れていく可能性もあり、または一律にそれを押し付けることはアカデミックな視点からは、少なくともマスに対してはまったくの嘘か不適切となり、つまりはブームということが起きにくい社会になっていくかもしれず、

多くの企業、その営業活動も大きく根本から変わっていく時代かもしれませんが、

同じく、対内的な運営スタイル、もしくはその根本的な考え方も変わっていく時代になっていくのではないかとも思えてきます。

花火も見れたワイキキ。

「プールもういい」「明日もプール入らなくて大丈夫」と泳ぐことも堪能仕切った様子で、三回目となるステーキもたいらげて、

2018年夏のハワイ最後の夜が更けていきました。
つづく

日替わり指定経路での登園後、

一人公園でゆっくりしてみましたが、2時間が限界でした。

夜は世田谷日帰り温泉に行けば、駐車場に三台Gクラスがいて、

「パパ、スターバックスいけば?」との声で、ナビを操作しだし「なんで分かるんだ」と聞けば「だってパパの見てたから」と付近のスターバックスをナビで探してくれ

夜のスターバックスへ到着、この雰囲気も社会勉強と思い出に。

求めではちみつ投下をしてくれて、

夜のドライブをして、この日も満了です。

「あいつおいかけて」と後進の車をみつけ、クラウン車庫証明申請に必要な書類を届けてくれ、クラウンは少し乗ったらみんなが乗れる一台にしようと思います。昨夜から一人お泊りに行っているわが子を丸々一個300円のメロンを食べたあとで迎えにいきたいと思う週末。