RX100 (無印)

2014年、1月1日、16時。稜線に沈む元旦の夕日。

ぷかぷかお腹の中で揺られながら、眠りながら、ときに動きながら、中伊豆。公称60種類以上、
私が丹念な適当に数えたときで120種の具材に調理方法の掛け合わせな、数々の栄養素で土台が構成されています、あなたの体は。

翌朝は部屋でお節のお弁当を頂きました。

伊豆のあたりをドライブしながらランチもいただき、

ここは新規開拓した旅館だったと思いますが、もう一泊し、

気持ちは分からなくもないながら、もはや何が撮りたいのか分からなかったであろう、一応の念のため撮りをして、

翌朝にまたお節を頂く、妊婦を放置して海外へ行っていたママへの罪滅ぼしかもしれません。

この頃はネコ撮りもたまにしていました。近年被写体として見ていなかったので、また撮りたいと思います。

お正月の海岸線を走り、

トンネルではテレビが映らないので、クルマを止めてママと箱根駅伝を見た記憶が蘇りました。ママじぃじが箱根で長らく破られることがなかった区間賞を持っていましたよ。一度優勝先導車をじぃじに頼んで手配して世界に一台の記念車で縁起がいいと思って売ってもらったこともありました。

そして渋滞すれば、

この頃からカメラで暇つぶしをするスキルも身に着けていたようです。カメラを本格的に始めるに向かい、準備運動かもしれません。

まるでみんカラをやっているかのような、

写真撮り、

カメラもやっているかのような、こだわりぶり。SNSもやっていないので誰に見せるわけでもなく、完全な自己満足で完結する、自分との友好関係です。

東名のあまりの渋滞に途中で降りて、多摩川近くのデニーズで食事して、ドライブスルーで飲み物を買った、どうでもよい記憶まで思い出してきます。そしてなぜ記録したのか。フィルム時代にはできない芸当、すなわち無駄打ちです。

そして箱根に来ました。生まれる前にぷかぷか旅行したのはこれが最後となるようです。この時期と、今とでは味付けの方向性が少々変わったかと思えば、今と料理長も同じです。

が、料理長の内面性が変わったか、作り手たる料理人が入れ替わった可能性もあるわけで、もしくは生産者の方向性や気候の影響、または受け手たる食べる者の趣向が変わり、性能が劣化することもあるわけで、思いの外変動要素が多角的な中に作る側も大変かと思います。ママは妊娠してからは、旅行時はビールの代わりによく炭酸水を飲んでいました。

無我の境地でピントを合わせる。

生まれてくるまで2週間をきりました。ママの気分転換も済んだであろう、ということで、

渡米させて頂きます。

787が羽田シータック間(シアトル空港がある市名であり空港通称名)へ就航して1年か2年経って、まだ小さなトラブルも多く不安もゼロではないなかに乗りました。と思いきや、これは機体に風景を見ると成田からかもしれません。

まだ正式なナンバーもついておらずの中に、後進の新車がお迎えに。当時、遠く離れていても、少しでも同じ気持ちになろうと、私もこれを
色違いながら日本で乗ることにしました。すぐに飽きて箱変えするのですが。

それなりに仕事らしきこともしていた気がします。

子供が成人したあとに、あるいはそれよりも前か、この地を踏むことがあるやもしれず「おやじもここを通ったのか」と思うのか、思わないのか、そのようなことも想像しながら記しています。

道や観光先だけでなく、人生についても「おやじもこのような道を経験したんだな」という感想を思う日が来るのか。その頃にみんカラはあるのか。

ボーイングの博物館は郊外の工場と合わせて二ヶ所あるのですが、こちらは市内にある博物館、および展示スペース。

日本のそれとは、何もかもですが、スケールが異なります。

アメリカが変態的に好きでなければ、もしくは社会勉強ならいざ知らず、観光先としては欧州のほうが数段よいかとは思いますが、飛行機飛行機と喜んでいるうちに一度は子供とも来てみたいものです。どれだけ喜ぶことか。

幼稚園の平日休みと絡めて一泊行ってきましたが、この暑さ、旅路の疲れで本日はゆっくり、子供も早々に昼寝している中でブログを認め過ごしています。

日本の司法制度改革と、米国の医療との関係を記してみようと思って1年以上忘れていましたが、

何らかの書籍や、あるいは知恵者に専門家にと、聞いた話ではなく、渡米している中で私が辿り着いた、多くの場合生きることに直接関係のない雑学ですが、しかし責任ある立場になるほどに少しでも世の中をときにネジ一本まで知ることは、大切かと思い、簡素に認めてみようかと思います。

渡米中に医療関係に関わる機会があり、ドクターの収入なども聞く運びがありました。こちらは銀行へ口座を作りに行ったときの写真です。窓口も日本とはまったく異なる作りに雰囲気です。ちなみに香港などでもそうでしたが、本人が行かねば個人口座を作らせてもらえないケースが多いように思います。

日本で聞けばおどろくような年収の医師がゴロゴロいて、その中でもリスクが高い麻酔医は特段に年収が多いかと思いますが、あるいは大きな病院でも勤務医ではなく、個人事業主として病院と契約をしている場合が多く、

という状況の中で、実は年収の割には手取りが少ない、と言っても多くの場合十分に高い手取りかと思いますが、要は報酬から支出されるコストが非常に高くなっています。

訴訟社会アメリカ。

弁護士の数も日本の比ではないので、成功報酬でいいからと訴訟を持ちかけるほどに弁護士が積極的に営業もかけて、周知のとおり医療訴訟も多く、かつその賠償金も莫大です。

賠償に備えて、医師は保険に入るのですが、それがまた高いわけで、年収が高くとも、所得税やらあるのに加え、保険代もあるゆえに手取りが思ったよりも少なくなる、という構造です。夜遅くまで二手目二歩を打つために内見や視察も重ねました、一応仕事です。

私はこれを知ったときに、アメリカが日本へ司法制度改革を要求したのは、保険会社を儲けさせるためではないか、少なくとも一つはそれが狙いであろう、という思考の帰着をしました。

患者や医療保険から支払われる医療費の何割かが、主に米国の金融会社へ流れる仕組み作りで、司法制度改革はその手段に過ぎない橋渡し役です、という見立て。

争い事を好まない民族性がその狙いを拒み、少なくとも今のところは訴訟社会になっていませんが、しかし長期的には文化が侵食される一方ですので、遠い未来は変わっているかもしれません。格差も広がる一方の中で、ときに地元の消防士でも、このような家を二軒持っている、かのような国。細かい造りは粗いですが、立派な邸宅、日本であれば豪邸の部類です。

日本は敗戦国であり、属国であり、子会社であり、これらの歴史事実と構造関係を俯瞰した形でも理解しておくことは、

つまりは親会社の方針に、子会社の方針は左右されるのであり、こうあるべき論とは関係なく、先を見通していくのに知っておくことが必要な社会的知識のパーツのように思います。MSの本社も見学に行きましたが、規模感が違い過ぎました。こちらはベルビューにある同社オフィスあたり。世界中に製品を供給している関係か、電気が消えることはありません。加えてブレーンストーミングが活発なのか、付箋だらけの窓が本社には多かったように思います。

世の中やその仕組みを不文律含め少しでもときに俯瞰しときに詳細に知っていくことは、船長が行先を間違えないために身に着けることが望ましい素養かとも思い、子に向けても記しておきたいと思います。

ガソリンスタンドで自分で洗車をすることができます。この感性。

ディーラーも新車の洗車をこのようなブラシで行い、お国柄を思いましたが、毛先は柔らかいブラシです。

車にまったく興味がなかった後進も、新車のマイカーを手に入れ、小まめに洗車をしていました。

こちらはボーイングの工場と、工場にある博物館。

空港ではありませんが、羽田などのその国のメイン空港、そのようなスケール感です。工場内のツアーもなかなかにダイナミックです。

そして「何を考えているんだ」と少々お怒りモードの家人に、予定日までもう少し余裕がある中で便を取り直し、帰国を早めることにしました。

家に帰れば、家人が安心したのか、いや虫の知らせだったのか、お腹が痛いと深夜に病院へ急げば、あとでそれは陣痛だったわけで、

あなたが生まれてきました。本当は米国で産みたかったところですが、それはあなたの代に委ねるとして、東京タワーの近くで産声をあげました。ママが怒らなければ、パパは出産に間に合わなかったかもしれません。ママに感謝です。

意図せず、売れた不動産の手付け金を現金でもらい、撮っておくかと思いついた、少々厭らしい写真も撮り、後日も狙ったわけでなくたまたま同じような運びですれば、一歳の声を聞くまでにそれらを触ってみるこの子の人生を個性的にも思い、

そういえば、このようなお風呂にはじめは入り、

そうそうこれもよく使い、バンボというベビーソファは元気ゆえ生後六か月か七ヵ月だったか草津温泉で、すでに脱走するようなり使えなくなったので、このチェアーには旅先の食事時にも大変お世話になりました。

副業として転売した不動産もドライブがてら後学で子供も連れて見に行き、みんカラも少しずつはじめたあたり、とこのようなことがあったのも忘れていました。とある有名企業が自社で使うために、とのことでご購入頂きました。いろいろあった物件なので、一入です。事実は小説より奇なり、というほどに本当に特段にいろいろありましたが、ここも仕入れの10倍で売れました。ビジネスとは仕入れが肝である、という商売の格言は誠持って正しいのだと思いつつ、売るときはタイミングを見て、けして焦らず腹据えて、買って下さいではなく、売ってやってもいい、という姿勢を崩さなかった若気の至り。

このクルマは大変ハンドリングがよく気に入った一台でしたが、ほどなくして後進に譲ることにしました。

結局、二台とも入れ替えて、みんカラにカメラに力が入っていくことになった2014年、子供にべったり離れない私の人生がはじまりました。早いようないろいろあったような、またこれから頑張りたいと思います。
九州の大雨で被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。