RX1 R
5DsR+EF35mm F1.4L II USM
RX100M4

これは駄作ではありません。なぜならば作ではないからです。駄です。という紫陽花の季節、箱根の朝。

空が飛んで、曇りのようにと意図したり、もしくは色を変えたりすればメイクなのかもしれませんが、単なる失敗です。いやメイクにも入らず、そしてテイクとしても撮れなかった一枚と言えるかもしれません。今般のブログ最後の結論に届いた視点からすれば、もはやこれは写真ではない、と言ってもいいかもしれません。

「あるものを撮る」「ないものを作って撮る」。

それを「テイクとメイク」で撮る、と映像作家、
鈴木佑介氏(リンクはyoutube) は言います。

カメラをはじめてからここ最近まで、氏いわくの「テイク」で撮る、すなわち「あるものを撮る」かのような、

「そのままを撮る」というスタンスで写真を撮りたいと思ってきました。私のような初心者が陥りやすい感覚のような気がします。

いかに現実に近いかのように撮れるか、そのままを撮るか、あるいは目で見たように撮れる機材なのか、を気にするという初心路かもしれません。
伴貞良氏は英語圏ではフォトグラフというのが日本へ来たときに「写真」という言葉になり、これで日本人は「真実を写すのが写真である」などなど余計な方向であれこれ考えたり、誤解しやすくあまりよくない言葉なのではないか、という趣旨のことを言っています。

もともと置かれたままではなく、テーブルに対して平行に並べて直して撮ってみると、それは軽い「メイク」。当初はこのようなことも「やらせ」のように感じて、あるいは「どう撮るか」考えなくなってしまうような気がして敬遠していました。ありのままに魅力をどう撮れるようになるのか、という希望的模索を重ねようとしていたかと思います。

鉄道写真家、
中井精也氏は「カメラは魔法の小箱」と表現します。カメラはそのままを写し撮るものではなく、自分を表現する道具であり、自分が好きなように色も変え、見る人が楽しめるようにしてしまう旨を話しています。全身で撮り、

近寄って、膝あたりから上を撮り、

みぞおちから上に移行し、

さらに上にフレーム移動し、かつアングルも変えてみる。というほんの一例ですがテイクだけでも幾通りも。あるいは子供が自然とこのようにすればテイク、このようなポーズを指示すればメイクなのか。その場合、そこに何の差が生まれるのか。考えすぎてきました。いや適正な通るべき迷路かもしれません。

一品子供に取られた後の和食。子供のメイクか私のテイクか。

同じく撮る前に一品持っていかれた私の洋食。

そもそもボケが入ればそのまま写してないではないか、という疑問が生まれてもいいかもしれません。色味を変えるのはだめで、ボケつまり意図した収差の乱れを作ることは許される、という道理を見つけることは難しいような気もします。

と余計なことを考えてみると、まず再発見したことは「テイク」たる「在るものを撮る」というのもいかに難しいか、と思いました。

そもそも素人がメイクするのも限界がありますが、メイクすることを否定してしまうと、つまりは絵画はメイクなわけで、絵画はだめなのか、という反論も用意されることになり、などは不毛な議論となりそうで、

テイク、自然の形、自然の並び、構図を作るのが難しく、なかなか最適解が見つからないなかで、

旅のはじめ「旅館のヤクルト飲む」と言えば、家人が「あそこはなかったんじゃない」と悲観論を展開。「ううん、ヤクルトあったよ」と
こちらの宿、意外と久しぶりな10ヶ月前の記憶があったのかなかったのか、真実の主張だったのが明白となった瞬間。なお先月あたり徐に「Mちゃんに会いたい」と言ったお目当ての女性は連休でおらず、また次の機会に。

これはテイクかメイクか。一つの基準としては撮影者やそのチームまたは補助者が手を加えるかいなかというライン。という意味ではテイク。

などなど、考えていると、大切な、重要な、素敵な、考え方に出会いました。

「Aちゃん、六番使う」。ついこの間までは突然大勢の人がいる脱衣所の籠に記された6を「〇ックス」と連呼して、私がたじたじなっていたぐらいだったのが、意思が前進し。

紫陽花と竹。みんカラで拝見したのを参考にさせて頂きました。加えて紫陽花は街スナップのときに茎を入れすぎたとあとで反省したので、花の上あたりだけを入れるように心がけた構図。

垂直の練習もし、しかし左右のバランスが悪く、なかなか難しいものです。

昨夜、月の写真にフレームインしていた外国の方。この日は箱根で外国の人が目立ちました。観光資源を考えれば、国際的に隣国に後拝で甘んじることはまったくない、素敵なこの国を思い。

私も見入ったアンパンマンの映画を、私に寄りかかりながら見ているとすっと眠りにつき、あっという間にお昼。「パパとママとずっとここにお泊りしたい」と言った旅館、チェックアウトの時間です。お風呂もぎりぎりに「また入る」とのことで〆的に入り、私は汗がしたたります。

この旅、さして出番がなかった、しかし夜の写真は大口径F1.4のレンズで手持ちにも応えてくれる5DsR+EF35mm F1.4L II USMのF2撮影。

同じ35mm、しかしこちらはレフ機と同じところに座ったまま、液晶を見るために手を少し前に出し、という意味では37mmぐらいになるのか、実際の使用用途感に従った撮り比べRX1Rの開放F2。

宿の優しいお兄様に、記念撮影もしてもらい、出発します。

RX1Rのバッテリーを温存したく、5000万画素の35mmで撮影し、

次の車両、座っていたおとうさんが飲んでいたポカリスエットもここまで分かり。50mm、ズームの70mmであれば、どれだけトリミング耐性があるのだという、怖い世の中という都度認識。

と、余談が長くなりましたが、素敵な考え方、それは映像作家、
鈴木佑介氏の映像を見ていると知った、この写真家の方、
白鳥写真家・内山アキラ氏(リンクはyoutube) 。加藤氏の映像美とともに、内山氏のそれは美しい写真、白鳥の写真、あまりにも美しく何度も見入ってしまいます。
前回掲載した子供の作品も、方向性が通ずるものを思い。

小田原に着きました。旅館の朝「今日どうする、ロマンスカーでも乗る?」と聞けば「そうしよう!」という子供の返答で即決めしたいつものコース。山内氏、
従前はこのような白鳥の写真を撮っていた(リンクはyoutube) ようですが、最近手ごたえを感じる、という言葉通り、独自の世界観を作り上げるように昇華してきたのかと思いました。あまりにも美しい、と何度も思います。

この旅、二度目の七夕短冊。山内氏がいう写真を通じて表現できることを最大限に活かす、つまりはその被写体の魅力を最大限に引き出す、という軸を持ってさえいれば、テイクもメイクの是非論ではなく、奥行きがさらに深まり、写真を通じた被写体の魅力を引き出すために駆使できるようなればよい要素である、と思い至った観念論。つまりはテイクであろうと、メイクであろうと、被写体の魅力を引き出すことは非常に難しいゴールの一つかと思う机上の妄想のごとく、実践が難しいわけですが、

このような視点でカメラを撮りながら、そういえばそのような初心を思った頃も思い出し、今基礎知識が揃って来た頃に取り組んでみる面白さを思いました。と上述の写真家が言っていることを思い返すと、それぞれ同じ趣旨を言っていることに気が付いてきました。そして、もう一輪は自分をどう表現するか、これが核としてあるのか、ないのかが素人とプロの大きな差なのかと思い、写真に限らずとも同じかもしれず、

小田原の街へ踏み出します。単に、率直に、山内氏のような心底美しいと思える写真を撮ってみたくなりました。
つづく