
FJクルーザーが納車されてから、その存在を知ったFJ SUMMIT IN JAPAN 2018。

ばぁばも誘って、後部座席でおにぎりやフルーツをもらいながらドライブ。

ふもっとぱらキャンプ場を目指して、東名を走ります。

トップではないものの、世界最高水準の教育環境がある我が国において、

つたない父親がどこまでナレッジを共有化していけられるか、こればかりは世代ごとに再インストールが必要なシステムとなっており、それがまた楽しみなのかとも思いつつ、

いかにして、一人ひとりに敬意を思い、尊厳を大切にしながら、多くの個性を受け入れて理解し活かし合えるか、ということを軸に、

他者を卑下した価値観や批判や不満ばかりの感性とならぬよう、それぞれが持っている個性とは何かを教えていく難しさのクリアを目指しながら、

子から教わることも増えつつ、日々対話を焦らず試みています。

過日、沼津の夜、ゲームセンター帰路にて久しぶりに宗教の勧誘というものを受けました。

「仏教、キリスト教、あるいはヒンドゥー教やイスラム教。それぞれ信じている人がいて、それぞれがすべて正しく、世にはこれだけ多くの宗教があり、これだけたくさん信者の方々がいるのだから人類にとって宗教は必要なのであり、どれも否定は致しませんが、私には必要がありません」と答えました。

宮司氏によっては参拝者がよけいなことをするなという見解もありつつですが、文化は大切かと思い神社へ行けば祝詞も唱え、お寺にも行き仏像に手も合わせ、自然や神木には清らかさも感じ、年始の太陽は特段に有難くも思い、クリスマスも意識しあるいは無意識に日曜日は休日と感じ西暦も当たり前に使い、というあやふやなしかしほどよい日本人的信仰心や宗教観は持ちつつ、人間が考えた・考え出したという意味での神または人格神はいない、という路線として限定的無神論を抱いています。

この宇宙というものは、まずもって銀河一つが太陽よりも大きな恒星をごろごろと1,000万個から100兆個を有しており、現在判明している理屈に基づいた最新の推論その一つによれば、そのような銀河がおよそ2兆個あると見積もられており、中には7兆個であるという見解もあるようで、銀河の数だけブラックホールがあることも分かってきている中、

いずれにせよ銀河2兆や7兆個どころか、135億年前に誕生しあらゆる方向に半径465億光年観測可能とされ、相対性理論、ビックバン理論、宇宙のインフレ理論をはじめ理屈上の壁も厚いかと思いますが、恐らくは今後もっと観測可能な宇宙は増えていくかもしれませんが、仮に宇宙が球体または円盤型はたまたうねったチューブ型あるいはバブル構造で他の宇宙と融合することもありえるとして、私たちが所属する天の川銀河、が所属する宇宙内の銀河その数が判明するようになり、球体等の宇宙も1個、2個と数えることができるようになり、

「最大100兆個の恒星が集まる銀河が100兆個ある宇宙が100兆個あるとNASAが発表」というような世界観へ未来では行っているかもしれず、という後段の腸内環境相場観的な妄想予測は差し引いても、

繰り返しますが現在推察されるだけでも「1,000万個から100兆個の恒星が集まる銀河が2兆個ある宇宙」の中に地球があり、つまり我々が属する天の川銀河は二兆分の一であり、同銀河には2,000億個以上の恒星があるとされており、つまりさらに二千億分の一の太陽系に属しており、すべての恒星惑星を分母としたら地球はどれだけ外様の足軽歩兵な存在なのかということになりますが、宇宙からすれば小さな小さな存在たるこの惑星に住む高等な知能を有した我々猿人を常に神が見てくれていて、個々の所業も認識し、あるいは慈悲深く助けようとしてくれており、または教えを信じれば助けてくれようとしていると考えることは、

人間の自意識過剰な単なるエゴイズムまたは夢想もしくは弱さに過ぎないのではないか、と思えてならず、

しかしDNAのマイクロミクロな世界、あるいは壮大すぎる宇宙そのものや共通項を思えばがミケランジェロが遠く及ぶはずもないデザイン性も感じ、

汎神論的に人知では計り知れない存在があるような肌感覚が生まれてきますが、それは肌感覚を越えることもないように思います。「あっFJ」

だからと言って、人格神の必要性を否定しているわけではありません。あるいは人格神とて、自然や真理をルーツとしこれらあるいは自らと向き合う考え方も内包されていると思われ、

それで救われる人もいて、医療も人を救いますが、その前にあるいは同時に多くの人を救うことがあるのもまた人格神への信仰のように思います。ちなみに勧誘を受けた宗教は日蓮殿の系譜だったゆえ、同譜または隣接するというべきか、某宗教団体トップのことを聞いてみれば、そこは業界人ということなのかさすが詳しそうで、真偽のほどはわかりませんが入院し続けているという情報を聞きました。

人類史としては、原始の頃は太陽に雨に嵐、あるいは火、雷、月食に日食、山に星すべて神やその仕業に見えたことと容易に推察されますゆえ多神教がまず人類のベースとなり、

それでは方々都合が悪い一定の勢力があるいは統制をしやすいように、もしくはいざこざを避けようと、何らかの目論みで、神は万能であるとした場合の論理的帰結も手伝いながら、本当のまたは最高の「神は一人しかいないぜよ」と一神教発生という流れがあり、

比較的紛争に闘争を好まなかった民族圏または自然環境に恵まれた地には多神教が根深く残り、という大まかな流れと理解しておりますが、

人類と宗教または宗教観、あるいは人間と死生観は密接に関わる基本たる要素でもあると考えられますので、

過敏にタブー視せず、歴史としては無論、宗教が果たしてきた役割も合わせて話題にする日に向けて、勧誘のやり取りを聞いていた我が子にとって一つのいいきっかけになったかもしれません。なお先進国の一神教圏でも無神論者が増えており、無宗教イコール何を考えているか分からず気持ち悪いまたは危険、という諸外国での感覚も薄れていく傾向が続きそうです。

さて、やってきました。FJクルーザーがこの日602台集まったFJサミット2018年。一台ごとに精霊が宿るごときに静観に出で立ちます。

「ほーら、同じ属性の人達だよ」と第一声発したのを覚えています。

このときから1年経った今はこの星でジムニスト初心者として、二台目のジムニーと戯れる日々ですが、火星をジムニーで走れる日は来るのか、

思い返せば1歳代か2歳ぐらいでジープが大好きになり、四駆全般へと愛顧が広がり、

現在5歳、FJクルーザーからジムニーまで、数車種のラダーフレーム車を選び、気づけば三台は北米向けか北米をメインマーケットにする車種で、

道中「オフロード」を軸にしたサービスパークの経営をすることも話題となってきているところ、

我が子への経営の教育という意味合いと同時に、

単純に「一緒に楽しむ」環境の構築であり、ツールでありと思い、あるいはこの子であれば何事でも「一緒に楽しめる」相棒のような気もしていますが、

隠れたる目的としては「愛しいこの子が成長とともに離れていくことを防ぎ、少しでも一緒にいる絶好の機会」を作りたいと思い、行き帰りの車中でも多くのことを伝える機会が自然と増えていき、一石何鳥にもなると目論んでいるところ、

子とオフロードへ行くのは極めて楽しく幸せな時間でありつつ、一方で子が好きでなければなおまったく興味がなく、あるいはオフロードでハンドルを握るのももう飽きている節を自らに感じていたところ、

今般無償で利用できるオフロードへ二度行ったとき、話を進めさせてもらっているオフロード用地について「Aオフロードいらないんじゃない?ここ来たりして、たまにいくだけでにして買わなくていいんじゃない?」などと言い出し、

基本は古いランクル、古い4ランナー、古いプラドなど「古いほうがかっこいい」と旧または旧々好きな車種が多い所、

ある宵に「プラドは新しいのと古いの、買うのどっちがいい?」と聞かれ、

初代は素敵に思いつつも「プラドは新しいのがいいかな」と言ってみれば、

「みんなにどうせボコボコにされるんだから、少し古いの買った方がいいよ」と方向性を聞き、

そのあとに耳を疑ったのが、

「新しいプラドはオフロードしなくなったら買おうよ」と言われ、「えっどういうこと」というこだまが内心鳴り響くわけですが、

気を取り直し「オフロードやらなくなる日が来るの?」と恐る恐る聞いてみれば、

「あるよ、飽きたらやめるでしょ」と、

さらに掘り下げて確認してみれば、総計お借りした私有地にて2時間ほどは亀の速度でハンドルも握ったのか、ほんの僅かながらオフロードに対して「こんなもんか」という満足感・充足感が生まれはじめているようで、

考えてみれば血を分けた子ですから、いわゆる一般的に趣味と呼ばれるカテゴリーでは満足できず、

趣味として考えると最も深みと手ごたえを感じることができる「仕事」が趣味と思う趣向がこの子にもあるやもしれずと思いつつ、

遊び85%事業についてまだ仕事の深みたる面白さに触れる地点までナビゲートできておらず、

しかし趣味として面白みに欠けてきている以上、アポイントメントも頂ている中ながら多少考え直す要素かもしれません。

と微々たるながら成長にショッキングを感じた先週となりました。

子が強い興味を持つ分野を通じて、一緒に運営を考え、一緒に経営をしてみる、と考えていますが、

運営し経営をやってみるだけならば、今の時代インターネットがありますから、これでいくらでもマーケティングやビジネスモデルを学ぶ機会を存分に作ることができ、

インターネットでのスモールビジネスであれば、さした費用がかからず、誰でも気軽に、子供と一緒に経営ができる時代といえ、経営やビジネスの勉強を社会にかかわり社会で鍛えてきた、社会性ある親として、ビジネスのイロハを簡易に教えることができる時代、とも言えそうです。

弊社が顧客側になるとある契約において、過日は幼稚園後英語前に、そもそもは子がメイキングした縁もあり、調印へ連れていきました。分刻みとなったスケジュールで英語に少し遅れましたが、それもまたよしとして、

まずは二千万円超の、着地としては三千万円ほどになるのかな契約額に相手は大手企業様となりますが、「すごいね、二千万円の契約だよ」と言って頂きながらこれも経験とさせて頂き見えない自信の糧にもなろうかと押印を託してまいりました。

幼少の頃から、中高も経由し、大学生まで、たくさんのビジネスプランに出会い、相談もしてもらい、時のフィクサーと呼ばれたような方合わせ、高級クラブにラウンジ、スナックという夜の部も含め、ビジネスの場に同席させてもらい、場慣れ、あるいは特別なものではない日常として社会へ出ていくことに繋がり、見えないところも含めアドバンテージをもらったのではないかと感じています。

しかしこれら断片的な体験が有機的に役立つようになったのは、社会人となってから3年で3,000冊、学術書レベルに限れば1,000冊ほどの本を読みこんで、

体系的なビジネスの知識をつけ、あるいは怒涛の読書で脳の覚醒も感じましたが、

得たナレッジと子供のころの体験が継ぎはぎとなり、これがスターターキットになっていったことを後で知りました。
つづく