
2019大晦日に、

オフロードを厳かに年を締めくくる粗宴として、

明けた2020まさかコロナに席巻された生活になろうとは想像もしていないお正月1月2日、平和と平穏を有難く享受し、順調に平和ボケしている一家、雪を求めて旅へ出発です。

この一か月前に後進ご親族のお悔みごとで秋田へ行き、その際に思い立った「東京からランクル70で行く雪国ドライブだぜ乳頭温泉」に泊まることと概ね通過ポイントは決めつつ、その他は半分成り行き系として、雪国でのスキー初体験も念のため想定事項に思い、まずはウェアの調達へ。

これも捨てがたいながら、付け外しが若干手間取る運用面がお気に召さず、

後々普段使いもするようになり、ときに地球防衛軍も兼ねることになる、ゴーグル一体型のこちらに決定です。

揺れる車中、動画のセレクトは親指を執行役員に任命したようで、

約19,990kmからスタートする雪国への旅路。

「どんぶらこーどんぶらこー」と一寸法師を読んであげればゲラゲラ笑っていた0歳児がついこの間のことのように思う中、外環に乗った頃「しゃぶしゃぶ食べ放題たのしみだなぁ」と聞こえてきて、そのようなことも言うようになったのかとしみじみ思いながら、

旧ジムニーから我が家2代目ジムニーとMTが続き、そして大のお気に入りとなっているランクル70も5MT、ギアやその選択について興味津々の頃「あのハイエースはいま何速か」「その前の車は?じゃあその前は?」など質問を受けながら、

おやつも食べて、ダンスもして、

このオレンジジュースちょっとすっぱいけど美味しいとブラッドオレンジを飲みながら、

我が家久しぶりの東北道を北上しました。

タクシー会社が失業手当を勘案した600名解雇とのニュースを見て、

リリースするまでの間、大変短い間でしたが、300台ほどだったか都内にタクシー会社を傘下に持っていたことがあったのを、すっかり忘れていましたが思い出しました。事業の性質に着目し周りから反対されていましたが、もう10年くらい前か当時暇だったので社とは別に個人としてMAしたことがあった会社でした。ついでにエステ系の会社も30店舗ぐらいだったか、展開しているところについてもすぐにリリース状態となりましたが個人としてMAしたことがあったのも思い出しました。当時の実感としても暇つぶしです。

あるいは最近記したついでに、一昨年に売却した会社のWEBサイトを見てみれば、

数か月先まで売り上げの見込みが立たないであろう旅行に関わるとある事業、早々に3月末で閉業の案内となっていました。

買収を頂いた母体が自動車販売業で、本業ではないこと、他に飯の種はあること、心血注いで創業したわけではなく事業にも人にも、芸能人や大手外資系社長氏などの常連を含めた顧客へも愛着がなかったのかもしれず等、早々に素早く見切りをつけたのだと推察します。

コンビニから出ればタイヤが動いてる気がしましたが、こちらのノリノリなお兄さんの仕業でした。

作年から年頭あたりまで、コアコンピタンスを武器にし活かす形で水平展開的に新規事業を2つほど立ち上げようか、参入しようか情報収集やご紹介での企業訪問、銀座での医師や商社の方々、新橋で大手企業の方々と人脈交流までして、検討をしていました。

かような中に、幼稚園の行き帰り等、
当時5歳の我が子に相談してみれば、

「今の事業を始めてからさして経っていないのだから、あと一年後に考えてみればよい」旨の我が子からのアドバイスに妙に納得をもらい、幾人かの方が動いてくれながらも助言に基づいた己の決定に従い中止の運びとして、そしてやがて今の事業一本での決心に繋がっていき、それがロードマップ策定に繋がり、我が子へ「いい。いいと思うよ」と逐次感触の確認もしながら目標達成時期については「Aちゃんが18歳になるまでにやるってどう?」「あと12年か。悪くない」等、これまた我が子に相談させてもらいながら深化させていくことに繋がるのですが、

私にとってのハイスコアの道はけして楽なものではなく、一緒にやってくださる方々にとっても大変なこととは思いますが、しかし一つひとつはけして高度でも複雑でも難しいことでもなく、先進のテクノロジーもそのナレッジも必要なく、むしろ簡単なことをあとはやっていくかどうかだけのプランであり、しかもそのチャンスが私には明確に見えてならず、トライするスタンスにもあり、言うなれば「算数低学年のドリルを膨大にやるかどうかだけ」のような簡易性とあとはやる気次第の実現可能性が高いプランが見つかったことは望外に特筆するべきことと思い、私にとっては理論上の元素記号Auが思いのほか安易な方法で汎用的量産化成功かのごとく、これを導いてくれた我が子に敬意を持って感謝しつつ、これも大変に有難いことと思いながら、

この段になって思うことが、もしこの新規事業を始めていたら、今頃どうなっていたか、という側面です。この導きにも我が子に感謝しつつですが、

検討していた一つは製薬会社をクライアントとする医療系、一つは周りの要請もあってのIT系で、前段は命に関わることだからパパ絶対にやらないで、お願いだから、ととにかく我が子から何度か反対もされつつでしたが、

共に十分勝負で来そうである所感を持ちつつ、不況や災害時にビジネスの土台が強く、あるいは先々国力が衰退しても、最長寿級にかなり生き延びやすい事業である点も選択要素として考えていました。景気の波に右往左往するのはまっぴらゆえ、そしてこの子が生まれてからの価値観も合わさった平凡な事業家として歳を重ねてきた上での視点です。

長期的に安定性が高いとはいえ、参入すぐでは恐らく中途半端に固定費だけかかる状態で売り上げなどまだない中に、新規取引は停止のフリーズ状態となり、今のビジネスで得た利益を些細ながら赤字事業につぎ込むという、多角化に有りがちな構造に陥っていたことと思います。これも我が子に回避をいざなってもらい、助けてもらいました。

合わせて、一昨年末までにすべて売却した当時の残存事業群がまだ手中にあったら、と思うとあっちもこっちも気合をいれた陣頭指揮状態を想像し、体力がない私としてはぞっともしますが、従前の事業をすべて売却したのも「パパ、こんなのやだよ、将来やりたくない。苦しみが多そうだよ」と聞こえた気がしたのもありました。ちなみに4歳ごろからか、私が過去にどのようなビジネスをやっていのか興味を強くもって質問を受ける機会が増加基調できています。

体力があった若いとき、無くなってきたここ最近と、継続して20年以上会社をオーナーとして、経営者としてやってきますと、オーナーとしては後ろに何らの盾も保証もなく、最終責任者としてやり切っていかねばならず、

法律上は有限責任として出した資本以上は損切として「あとは知らん」でもいいわけですが、何かあったときに資金を融通しなければ100%株主として社員の方々の命運、あるいは人生に迷惑をかけることになるわけですので、道義上事実上無限責任に近い形で、お願いをしている経営陣が下手を打てばオムツを替えるかのごとく尻を拭く作業が発生することもあります。

いろんな経験をしてきましたから、刺激を求める己がいつつも、しかし窮地の火事場のくそ力はそう頻繁にやっていると歳を重ねた身には疲弊が大きくと想像し、あるいは血圧にも影響しそうであり、精神的に己もだまし強靭なふりをしても知らぬ間に莫大なストレスにもさらされ、できれば難破船状態は避けたいと思い、

リスクをリスクと感じずチャンスに見える基本はリスクテイカーであり、リスクを恐れる性質も低めながら、多くのお勤めしている方々と同様、安定を求めるようになります。

辿り着いたもっとも安定性があり、グループとして盤石化できると考えた事業が、当時最たるコア事業と位置付けていたIT系、の端くれです。

そしてまたどこかで何かを忘れて行くのでしょう。調子に乗っていくのでしょう。リーマンショックが過ぎて少しすれば急場に大変になるような事業もたくさん足し算をしていくことになります。

急場とならずとも、平時においても多角化した場合、それぞれの分野でそれぞれの競合と戦わねばなりません。

たとえば甲業界においてZ社が当該事業一本で、社長の脳内および集中力とエネルギーも合わせ、人員の質量、軍資金、時間などすべての経営リソースを一局的に投入している中に、こちらは適当な人材をあてがって、分散した軍資金、手を抜いたエネルギー、あやふやな集中力、乏しい情報、散漫な思考量で、己の並みさ加減を思えば将棋を知らない小学生を捉まえてきて将棋教室に通う小学生を相手とした、制限時間30秒ずつの「多面指し」的な戦いを挑むことになり、

戦場があちらこちらになっても、そこは一人のトップが羽生名人のように絶対的にも、相手が小学生レベルのような相対的な意味においても、切れ切れであれば具合がまた変わっていくわけですが、

ビジネスにおいてはジェフベゾス氏でもなければ自ずと限界もあり、相対的にも向こうの主将が立派なこともあるわけで、

それぞれの分野で勝てる環境が整うのか、そしてそれらを指揮する将校を育てるにしてもヘッドハンティングするにしても、擁立できるのか、あるいは内部をまとめ上げるというハードルまで合わせ統制できる方を据え置くポジションも増えればその幹的資源も恒常的に足りず、これら最終トップの器ということに理屈上はまたは正論な王道となってくるのかと思いますが、

なかなか簡単なことではなく、それぞれの分野で消耗戦があったり、苦戦難戦な劣勢を強いられる戦いがあり、手を大きく広げ、あれもこれも手を付けると、結果として往々に、

黒字事業で儲けた利益を赤字事業につぎ込む、ということになりやすく、加えて景気の波で好業績の事業、そうではない事業と手中に両方が存在する確率も増えるわけですので、多角化は結局的に総和として収益を出すハードルが高くなる構造、メカニズムがこうして内包されているのではないかと思うところです。

そういえば今の事業参入時もう別に検討していた事業があったのも思い出しました。これはこの段では手厳しいことになっていたであろう、上記とは別種のより専門性が高い美容系で、全国に30クリニックあり、高い収益性がありながらこれを経営なさっていた方が閉業し海外移住するというので「こんなに儲かっているのにもったいない」と説得しながら譲り受けてスタートしようか視察したり、各所の敷金だけでよいという売却費用も魅力的に財務資料も検討を重ねたことがありますが、確実に収益が出ているそちらをMAしてスタートする選択、どうなるか分からないゼロからスタートする今の選択肢、あるいは今の事業合わせて両方やる選択肢もあったわけですが、不器用ゆえ本事業の成長性と可能性を思いゼロから一択を選びましたが、今このような状況を思えば、手を出さなくてよかった、ということになります。

曾祖父が策定した家訓の一つ、
当時は有用な食品添加物もなくあるいは阻害品ばかりでトラブルが多かった時代背景もあってのことと推察しつつですが「人様の口に入るものの商いをするべからず」というのを破って、食肉の輸入業をしたこともありました。売り先は大手スーパーです。

これは今でも14年の人間関係がある夜の女史の当時彼氏殿が持ってきたMA案件で、丁度経済番組で見たばかりの会社で、「知ってる知ってるその会社、やろうやろう」と軽いノリでその場でやることにして、買収資金は副業的に不動産で稼いだお金を充てることとして、私としては当時真面目に気合を入れて新卒も採っていた事業の社員というリソースをノンコアに投入したくないという真面目な理由もあり、そのままキャバクラで「社長をやる人?」と諮ってみて、まっさきに「やってみたい」と手を上げた当時女子大生の子が社長をやることになり、同じお店のこれまた14年になる人間関係の付き合いが同じく続いていますが別の嬢が社員になり、事務所は別のところに分けましたが、状況を知る当時会社の新卒社員の方々が目を白くしていた記憶もあり、夜は外車で銀座へ向かい寿司をたべて、六本木のクラブに遊びにいくパターンなときもあり、好き勝手もやっていた時期もありました。すべて暇つぶしだと思います。

若いお綺麗で可愛い女性社長の誕生に、業界もあからさまに色めき立ち、同業の老舗社長氏は取引として間に入るわけでもなく「俺が全部教えるから。この子に業界の将来を託す」と自宅に招いて奥方の手料理を振舞ったり、取引先の紹介を頂いたり、普通は入れない仕入れ先となる海外の工場視察に連れて行ってくれたりと、異常な空気だったのではないかと思い出されます。

フルオートメーションで、精密機械を作るかのような工場で肉の処理はされているそうで、私は視察後に報告を受けただけでの勉強をした次第です。

大手スーパーだけに納めていたはずが、ある日「どらさんどうしよう」と何の相談かと思えば、取り込み詐欺にひっかかり、軽いノリで始めた事業、グループに迷惑をかけたくなく、個人で3,000万円穴埋めしましたが、その方々には別の事業をスタートしてもらうこととして懲りて撤退したこともありました。その他、EC拡大を見込めば悪くないビジネスだ、と梱包材事業平たく言えば段ボールの卸事業も丁度3社の売り物が来たので、購入させて頂き、3社を合併させてスタートしたときもありましたが、これは強烈な寡占化業界で結局細々と続け売却しました。暇つぶしの割りには失敗も人一倍では利かないほどに多くあるかもしれません。

30代前半の淡い思い出でもありますが、これは氷山の一角と些細なことも合わせまだまだ失敗もたくさんしてきました。主軸のITもすべて超がつく大手企業としか取引してはならずの方針、鉄のルール、稟議システムもあった中に、しかもいくらでも取引を増やせる環境という大手企業との活発にアクティブなアカウントもパイプも膨大にあるにも関わらず、すべての鍵も渡して目は離さず、そして2年して目も離せば、あっという間にレンタルオフィスのような会社と取引を始めていたことを知ったときは愕然としました。零細はその資金繰りの大変さから「請求書が届いていない。再発行してもらえる?今月はもう締め切ったから来月払うね」と社長氏がいい大人が目に見えるような嘘をついて、支払いを延ばしてきたり、私はそういうのに関わりたくない「貧乏人とは商売しない」と若い頃に思い、零細相手の商売は基本としてしない、するとしても現金のみ、と決めて来ました。

「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(おひもたちもさつきにかざれかみのぼり)」松尾芭蕉。

という石碑を見て、

次の目的地、東北道を山形に向かいます。

「例年は膝上腰ぐらいまで雪があるのですが」と聞いて那須塩原をあとにして、山形に入っていくあたりで、やっと少しずつ「雪だ」と見えてきました。

昨夜、限られた私の全財産たる可処分資産につき手元の流動性をあまり減らしたくなく「月末に10倍に、いや20倍にして返すから、ママ100万円貸してくれない?」「は?」「いやギター買おうと思って。並べたくなっちゃったんだよ」「じゃあ使ってない和室に並べて下さい」と呪文が効いたのか事実上、1日5割以上の家庭内苺信販様の与信審査が無事に通り、「美しいギターだ、実に美しい。ママの次に美しい」と謝辞も伝え、

我が子に報告しつつこのブログの写真を整理していると「あっ銀山温泉だ」と覚えている様子が聞こえてきながら「Aちゃんがこうして6歳になるまで、いっぱい色んな所に連れて行って、いっぱいいっぱい愛情を注いできたよ。」といえば「うん」と頷き、続けて「これから小学生になって段々と友達と遊んだり、パパと一緒にいる時間も少なくなっていくようになって寂しいな。たまにパパと遊んでね」と思いを伝えてみれば「もちろんだよ。パパといっぱい遊ぶよ。いつだって。友達よりパパのほうが大切だよ。パパが死んだらAちゃんも死んじゃう」と有難い想いを聞いて、まだまだ20年はいや孫を見るまではくたばるわけにはいかないと思いを重ねた夜でした。次は一緒に勉強をできる環境構築に取り組みます。米沢が見えてきました。