この日は寝具を仕入れに南青山へ。

踏切待ちも流し撮り。小田急線、の雰囲気は好きです。以前は小田急沿線の
世田谷代田駅に住んでいたことがあります。各停しか止まらない小さな駅ですが、下北沢が隣にあり気持ち足を伸ばせば食べるところも多く、また三軒茶屋もワンメーター程度の距離で、新宿や渋谷もアクセスしやすい落ち着いたところながら若い人にも住みやすいエリアです。

自立したのは少々早く、高校一年生の頃には実家が東京にあるにも関わらず、一人暮らしをはじめました。親不孝もいいところで、もちろん大反対されましたが、周りに地方から出てきた一人暮らしの友人・知人も多く違和感が無かったことに加え、中学生の頃から親戚の材木商店でアルバイトさせてもらい、なんと自分で稼ぐとは楽しいことなんだろう、と思ったのもあり、一日も早く自分の力で生きていきたい、と自立をしたくて、あとちょっぴり同棲もしたくて、結局は同棲には至りませんでしたが。生活費があるのでアルバイト漬けになりましたが、お金を稼ぐのが楽しくてしかたありませんでした。

学業に専念すべきである、という考えもあり、賛否両論あるいは目指す人生のコースや家庭の階層にもよるかと思いますが、若いうちはやはり学業を中心にしたほうがいいと思いつつ、アルバイトをする機会があれば一つのアルバイトを長くやるよりも、一つでも多くの世界を経験したほうがよいと思います。学生のうちほど、数多くの業種に携われ、広く社会勉強できる機会はありません。単純作業に肉体労働、配膳などのサービス業に、夜の街で働いてみたり。16歳のときには大手カラオケチェーンの渋谷店で店長もやらせてもらいました、年をごまかして働いていたので。毎朝仕事が終わると、私服警官から干支を聞かれる職質です。

バイトに精を出し、好きな読書で独学する以外の勉強はまったくしなくなりました。偏差値が測定不能な底レベルで、毎年1コマでも遅刻すると留年決定、という状況ぐらいギリギリでした。本当に測定不能と出たことがありました。

受験が見えてきたころ、バイトを中止し、椅子に体を括り付けて猛勉強。一ヵ月ほどで底辺の偏差値が60台になり、一か月でこれなら楽勝、と受験勉強はそっちのけにまたアルバイト開始。あとパチンコも同時並行。
永福町にあったボロボロのパチンコ屋さんの黄門様は本当によく出て、生活費を稼ぎました。

そうこうしているとかなり目の前が受験シーズン。これはまずいな、時間が足りなくて間に合わないかもしれない、ということで推薦入試を先生にお願いしたところ「あんたバカじゃないの」と一蹴。

そりゃそうです、欠席、遅刻だらけで、高校は公立だったので1~5までの五段階評価の中、煙突とアヒルの大行進。停学処分も一度経験しました。世界有数の繁華街から交通の便もいい学校だったので帰りはいつも友達とナンパの日々もしつつ。諸々恥ずかしながら。

そんな中でも、しかし受験勉強するのも面倒であり、椅子に括り付けて猛勉強する大変さも知ってしまったので、どうしても推薦で楽して行きたい、過去を帳消しにして、ということで、先生に懇願する日々のスタートです。

担任はどうしても相手にすらしてくれなかったので、とある教科の先生へお願いするターゲット変更。何日も「大学へ行ってこんな勉強をして、社会に出てこうしたいんだ」と言うなればプレゼンをマムシのごとくしつこく繰り返していると、なんとある日先生折れてくれました。

この先生が味方になったあとは、この先生がほかの先生を口説いて回ってくれ味方が増えていきました。過去の成績と出席状況もすべて改ざんのねつ造、いや素敵なストーリを作って頂きました。餅は餅屋です、やったはずのない各種委員会歴任や学校行事の担当までしていたことになっていました。推薦要件プラスアルファも含め、すべて満たしました、書類上。大人になってから気づきましたが、公立なので公文書偽造同行使でそれなりに重い罪かもしれません。を、先生達がしてくれたわけです。想像の域はでませんが、校長先生も巻き込んでの話だったのかもしれない、と反省もしつつ。
別日、富士急ハイランドへトーマスを見に河口湖方面へ。

「こんなことありえない」「前代未聞、絶対におかしい」と最後まで担任は言っていましたが、私もまったくもって同感で、反論の余地はありません。若いころは「俺は交渉学で大学へ行ったんだ」などと調子に乗っていましたが、後にして思ったのは、先生達に進学させてもらい、そして感謝であり、そこまでしてもらったのだから先生たちに報いるためにも、社会に貢献するためにがんばるんだ、というマインドが根底に、そして根強くあります、今でも。身勝な話と自覚しつつ、能力は別にして少なくともマインドだけは、これだけ社会へ貢献したいと思う人間を世に送り込んだという意味では教師冥利につきる、という評価があっていいかもしれません。

もう時効であり、当時の先生方も定年を迎えていらっしゃる昔話ゆえ、記せますが、こんなことあるんだ、と今でも自分自身で思います。何事も頭から不可能、無理と決めつけることなく、ほとんどのことが突破でき、既成概念や常識に捉われることなくということと、そして固い一念も信念も岩をも通す、相手が人間であれば岩よりも楽、とその後の価値観に大いに影響もした出来事となりました。事実なのでしかたありませんが、子供には一貫してまともな教育を、と思い願っています。

推薦は単願とし小論文と面接でした。面接で寝耳に水で質問されたのが「大阪へは自転車でどれぐらいかかったのですか」という学部長。なんのことか一瞬分かりませんでしたが、どうやら餅屋の先生達が「夏休みに自転車で大阪まで行った」という在りもしない、パフォーマーとしての私を作り上げてくれたようだと察しました。これはグレーな回答をしないとまずいと思い、とっさに「途中で友人が風邪を引きました関係で1週間かかりました」と嘘をつきました。

先生達のリスクを冒した努力の甲斐もなく学生のころは1~2年は遊び続けました。さんざんプレゼンした大言壮語は忘れて。しかし20代は心を入れ替えて、3~4年は学業に専念しました。遊びから学業へ。図書館から学生が遊んでいる姿が見えるのが何より集中力の敵でしたが乗り切りました。大学前半、テストは当然にノートを見せてもらう手法でかつ非常に高度に難しく感じましたが、学生後半はテスト勉強はこれまた一切せずとも「なぜこんなに簡単で初級な設問なんだ」と思うほどに、普段まともに勉強すると簡単に感じるテストしか出てこないように思います、日本の多くの大学は。人生猛勉強するときも必要なのでしょう。そのまま社会人となった20代はとにかく勉強をし続けました。30代になってのみ遊ぶとは露知らず。

家庭教師など、とくにお年玉もたんまりな美味しいバイトにありついている学生もいるやもしれませんが、私も学生のころは美味しいバイトに出会えました。歴代先輩から引き継ぐ新聞社での編集補助という名目の坊やです。ADのような存在と言ってもいいかもしれません。

ナンバーが付いた年収1,000万円プラスタクシー代と貢物を稼ぐ女子大生キャバ嬢には敵いませんが、新聞社では年収で600万円頂きました、しかも週2~3回の勤務で、勤務中はほぼほぼテレビを見ながらお茶を飲んでいるか、読書です。換言すれば既得権益の業界の強さ、と言ってもいいかもしれません。この程度の出勤でOKなので掛け持ちも可です。合わせて学生には十分すぎる以上の金銭です。すべて今の家人、当時の彼女とのデート代で浪費、いや消費しましたが。

準社員としての扱いで年二回のボーナスに加え、私は管理部付け社会部に配属されていたのですが、社会部の記者は東京本社だけで100余名ほどだったと記憶しています。記者の方ほぼ全員から寸志も別途頂ける環境でした。当時のデスクや部長など、テレビで拝見することもよくあります。今はインターネットでなんでも見れますが、非公開な少年犯罪者の顔写真や、世間を騒がせるような特ダネは早くに知ることができたり、あるいはちょっとした隅っこの記事は書かせてもらったり、いい社会勉強をすることが出来ました。大手町勤務なんてこんなものか、という経験もさせてもらいました。ちなみに政治部だけは異質でした。女性記者も原色のスーツを着たりして。

二歳が見えてきた子供が撮った写真。だんだん安定してきました。あまり若くして写真趣味にはなってほしくはないながらに、写真好きのマインドは埋め込んでおこうと思います。学ぶことや仕事に尋常でないぐらい打ち込む期間も作ってもらいたい。あまりに早くカメラ趣味になると、撮れないストレスが生まれてもかわいそうです。

自分が配属されている先の部長の力量も関係しつつ、そしてその部長に気に入られるとそのまま新聞社へ記者として、あるいは関連会社への就職も可能でした。いろんな大学から集まっていましたが、同門含め何名かはそのまま就職の道を選んでいました。社会部は花形の一つなので、十分に部長に力がありますので有利に働くと思います。今は派遣や通常のアルバイトになってしまい、好条件ではなくなったようですが、志望する人にとっては一番早い就活と言ってもいいでしょう。諸々はっきり言って相当にぬるま湯でした。ゆえにこれは腐る環境です。三回ほどボーナスをもらって後輩へ引き継いで辞めました。

マスコミの中や、あるいは東京のど真ん中での大きな企業の本社、を見れたという経験はのちにいろいろ活きていくわけですが、このときは今回のボーナスいくらだろう、そんなことしか頭にあらず、いい仕事をしよう、などとは思わず、つまらない人生でした。ちなみにマスコミを使って、言ってみればタダで知名度を上げる人もいますが、利用したら、必ず利用されます。マスコミは甘くありません。

社会へ出てから仕事と猛勉強もする日々の中、ある作家との出会いがありました。当時数冊ヒットが出ていた作家でした。その作家の方は毎晩20時ぐらいになると、ふらっと私の職場へ来ました。気が付くと23時、そして0時。職場の時計とチラチラ睨めっこしながら、「あー電車が終わった・・・」と心の中で思い、終電が過ぎれば腹を決めて、徹夜で議論。毎晩のように繰り返しました。

ある時は音楽の本質と絶対性の話になり「絵を見て自殺する人はいないが、音楽を聴きながら自殺する人はいるんだ」と言っていたのが印象的です。というように1円にもならない話を徹夜で、本当に来る日も来る日も激論を交わさせて頂いたのも、今にして思えばいい経験です。有効な無駄は必要である、という人もいるそうですが、まさにその一つかもしれません。

この日は女優さんが子連れできていました。「撮った?」と家人から言われましたが隠し撮りはしていません。
そういえばあまりに勉強をしない高校生の頃、一度親が知り合いの伝手で家庭教師をつけてくれました。その家庭教師は合格請負人の看板を持った地方公務員の中年な隠れアルバイトでした。

フィーが高く三か月程度で経済的負担が親へ申し訳なさすぎて心苦しかったので断ることになるのですが、この家庭教師の方針は実検でした。つまり歴史の勉強にしても座学だけでなく現場を見に行く、です。自分の目で見て、肌で感じれば一生忘れないだろう、というやり方です。

当時、元寇襲来の勉強だと九州へ行き、温泉にも入って一晩、帰りは瀬戸大橋にも寄り、行ってみればM菱の方が黒塗りのデボネアで、この地方公務員の方を迎えに来て一緒にクルマへ乗ってみれば「先生、わざわざお越し下さりありがとうございます」「先生、先生」の大合唱。地方公務員でも「先生」と呼ばれ上げられるんだ、と大人の世界を見せてもらったことが何よりの社会勉強になりました。加えて公務員としての出張経費を使い、プラス家庭教師としての出張費用、経費の二重取りをしていること、も高校生ながらに気づき、せこい大人のやり口というものの勉強になりました。

公務員と言えば、社会へ出てからは、とある作成した大作の書類がとある国家公務員の方の目に止まり、事務力を見染められスカウトを受けたことがあります。しかも「一種として来い」と。こんなこともあるのですね。当時の時代の趨勢と当該機関の状況とが許したことだと思います。

この時ばかりは、国のためにダイレクトに働けると、仕事の魅力を感じて一週間毎晩風呂に入りながら悩みましたが、自分で選んだ道を歩み、自分の役割を全うしていくことに決めお断りをさせて頂きました。本当は能力云々ではなくて、信頼できる右腕、いや左腕が欲しかったのだと思います。

その方とは、その後もお付き合いが続くのですが、いろいろなお話を聞き勉強させてもらってきました。大きな、そして力のある組織では足の引っ張り合いも半端ではなく、ときにマスコミにたたかれるだけでなく、組織内で怪文書も出回ったり、今やネットでの書き込みも当たり前で、このような世界では並みの精神力では持たなそうです。外からの批判はいいとしても、日々内部で刺し合う魑魅魍魎さは相当にきついと思います。

この日も
小作のほうとうへ。いつもはバスも来て近年は中国人も多いですが、一瞬の貸し切り状態。
いろいろな稀有な経験もさせてもらってきた中で、苦労もしてきましたが、家人は逆に何一つ、とくに経済的に苦労をしたことがなく、すべて推薦で進学し、就職もコネと、こういう人もいるんだ、と今も不思議に思う次第です。後進は両親が教師というパターンがあるのですが、一人は親の授業を生徒として受けたことがあるそうです。人生いろいろ、いろんな人の人生を知るのは、私は面白くて好きです。知っているようで知らない仲間のエピソード、聞いてみるものです。

経済界の雲の上、と呼ばれる方と縁があり、加えてそのお子さんと出会う機会も何度か恵まれてきました。思うことは、教育がうまく行ったところもありつつ、一方でつぶれたお子さんの比率が高い、ということです。

いわゆるエリート中のエリートと評される世界で生きてきたような父親を持つと、価値観の押し付けが半端ないのだと思います。「そんなことはとっくの昔に(頭がいい人間同士で)済んでいる議論だ、結論だけ受け入れろ」と説明する丁寧さがないように思ってきました。私も何度もお叱りを受けたことがあります「君は要領を得ない男だな」と。負けじと食い下がってもきましたが。距離感があり誰の紹介でもなく会うと「どこの馬の骨ですか」と言われたこともあります。どこにしようかな、と思いつつ、雲の上は厳しくも冷たくもあります、高高度の飛行機が飛ぶ環境のように。

真正と付く団塊ジュニア世代として、同じ年代だけですと190万人、前後+-2年も合わせると1,000万人近い中で、間違いなく一度は最下位あたりまで落ちています。そこから20代の数年で恐らく800万人はごぼう抜きしたのではないかと、振り返ればそんな見方も成り立つのだと思いました。「読むことは人を確かにし、話すことは人を俊敏にし、書くことは人を確かにする」フランシスコベーコンという人の言葉ですが、これをやるほどに人生が向上していくような気がいたします。

しかし、そもそも世界を見れば、同じ世代だけで1億人前後以上いる中で、日本に生まれたというだけで間違いなく平均値を十分に超えた環境を誰しもが持っています。アフリカやフィリピンでは本すら読めない子もいるのに、本を買うお金も、読む識字能力も教養もありながら、この環境を活かせるのかどうか。最低時給で考えても1~3時間の労働対価でだいたいの本を買うことができます。ブックオフへいけば数冊買えることでしょう。後進国の貧困層では場合によっては一ヵ月の労働対価と本一冊が同じ場合もあります。一ヵ月家族で働いても本一冊も買えないところもたくさんあります。ちなみに私と同じ世代で中国が2000万人、アメリカが300万人、それぞれ2015年生まれで1600万人、400万人です。
2015年各国の出生数

高速道路ではスポーツサスの設定にするととても心地よく、やはりドライブはいいものです。
過日、おかげさまで四十路に突入しました。これからがさらにまた早そうですが、そんなことを言えるのも幸せなことです。プレイヤーとしては昔と言ってもいい前に、あるいは第一線も相当前に譲り、自分にしかできない役割をしている、つもりな中、思った以上にたくさんの祝電をもらいました。夜の子も。はじめてもらったフレーズとしては私のシャーマン。調べてみると「シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。」よしこれで食べていこう。恐山へ行ってイタコを口説きながら、スキルアップする所存です。
恐山へ流し撮りやりに、
ドライブへ行こう。