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ドライブへ行こうのブログ一覧

2015年12月31日 イイね!

やっぱり飛行機を撮りにドライブへ行こう。  皆様の飛躍飛翔を期して。


今年は年内もう一度行けたこの城南島にての飛行機で締めくくりたいと思います。いつも城南島への到着時間がだいたい同じだと教えてくれる、この中華機からスタート。



2015年、嬉しかったこと、重要なトピックスはいくつかありますが、まずは可愛い後進に愛娘ができたことです。



次にその父親になった後進が、大人になったと感じる大きな成長をしたことです。四面楚歌に合ったこともあった彼でしたが、それをも耐え忍び、成長すると信じて私も守ったと思えるときもありましたが、それも限界だと思ったときもあり、しかし見事に、いや見事に、ある面では私も越えられ、多くの予想を覆す成長を見せてくれました。彼のおかげで全体の帳尻が合ったという名のロードマップも道しるべ通りになりそうです。あとは誤差の範囲。役割を知った人は幸せだと思います。役割を悟った人間は大人だと思います。



前の写真と何が違うと聞かれれば、機種。
私は特段に予測できないことが二つあります。それは人との出会い、縁というものと、人の成長です。こいつはダメだなと思っても化けるときがあります。出会いと成長はいつも想像を遥かに超えていきます。



さらにはもう一人の若獅子たる後進も、大きな成長をし、大きな所帯を持つまでになりました。彼も同世代隣接世代合わせ何百万人もごぼう抜きをしたと言ってもいい一人だと思います。まだまだ登りそうです。この彼がまだ27か28の頃の数年前に稼いだ中から1年で1億円を溜めさせたことがあります。そしてそれを一瞬で蒸発させたこともあります。「お金が溶ける?溶けるなんてもんじゃない、吹っ飛びますよ一瞬で」なんていうセリフが言えるようになった経験を手にしたこともありました。修羅場も潜り抜けさせました。長年社長職を経験してきたような年配者からも若くしてトップリーダーと認められ、そして活かしている姿も噂で聞いたりし、素養もすばらしい。私には出来ないことです。




一人は弩トンネルに突っ込んでいます。恐らく真っ暗なしかも長いトンネルになることでしょう。しかしそれとて順調なこと、と思います。抜ければ大きく成長することでしょう。人生トンネルもありますが、一定のトンネルを抜けて本当に図太くなったり、何かを達観すると、もう二度とトンネルが来ない、そんな域もあると思っています。




今年は大きな別れもありました、昨年もありましたが。業の深さ、それもあれもすべて含めて順調と評せると思います。




機体記号なき謎の飛行機。
これから日本は大変な時期に突入していきます。いやもうしています。たとえば人口減。国力として大事ではありますが人口数そのものはさして問題ではないと思います。江戸時代は3,000万人のときもあり、それでも十分な幸せは作ることができるのでしょう。



大変なのは「減」する縮小です。古今東西、いかなるときも、いかなるところでも大変さはあるものですが、この縮小する過程では、本当に大変な状況が訪れると言ってもよいでしょう。まだまだ序の口です。そして何事も国家も企業も個人も、上がるときは大変で時間もかかりますが、転げ落ちるときは加速度的な指数関数ばりに早いのが世の常。すべり台と同じです。



しかし、それでも恵まれた環境にあるのは間違いなく、どころかたった70年前の戦中やあるいは戦国時代に比べれば、楽勝モードと言ってもいいかもしれません、と同じようにやはりチャンスも多大に訪れるのです。



太陽が西から昇ることはあっても、三井と住友が合併することなんてない、と言われた時代があったのかと思うほどにすでに過去となり、サンヨーが消滅し、シャープも相当に厳しくなり、NECはだいぶ前から危なっかしく、熊谷組は一時期空前の灯級だったのが今や息を吹き返し、今度は東芝。ひと昔前では考えられないことが起こっています。



つまりは、戦争のときほどとまではいわないまでも、リセットがかかるくらいに天変地異並みな変質が起ころうしているわけで、そしてそれはもう始まっているわけです。




しかし、どんなに国力が下がろうとも、向こう50年内は世界中でも10位以内には踏みとどまり、まだまだ恵まれた状況は続きます。



新進気鋭の社会学者古市憲寿氏は「世代という概念はもういらなくなる」と説いている中、それでも世代という概念を用いさせてもらえば、




私も分類される団塊ジュニア世代と言われるところも、就職氷河期で派遣スタートの年代であったり、50の声を聞く前の頃には親の介護に、失職に、相当に厳しい状態も待っているかと思います。この世代は2chへの書き込みもメイン層と言われ始め、おじさんが顔文字つけてもうだめぽという文章を記し、何をしているんだ、という状況になりはじめ、そんな国になっています。この世代がもっと意識してインテリジェンス、ナレッジ、そしてマインドもしっかりとしないといけないときなのだと思います。が、なかなか現実は厳しい。コンビニに行けばこの世代が大人しそうな風体で夕食であろう弁当を買っている光景も珍しくありません。




とは、いいつつ私の文章はねちっこい中で、2chではたった一言で本質的なことを表現できる人であふれており、私は天才がたくさんいるのではないか、とも思っています。実は人的リソースの宝庫なのではないかと。文才、要点をまとめる能力だけででなく、検索能力や画像加工能力など、この能力を活かす仕組みは作れないのか、とアイディアが生まれたときがあり、オーダーをかけていますが、まだ出来上がってきません。




ゆとり世代に思うことは、世界的にも美しい幹線道路、高速道路、SAにPA、もしくはクルマがなければ世界的にも有数な交通インフラを享受しておきながら、既得権益あるいは保守層が強すぎればそれを嘆き、既得権益も壊れるほどのチャンス期間に入れば、今度は将来が厳しいとそれも嘆いてばかりいるように感じます。ゆとり世代が社会へ出たころちょっとびっくりしたのが多くの子が話し始めるときに構えていたことでした。「ゆとり世代はこうだって言われますが」が話のスタートです。さんざん大人がマスコミが言ってきたせいでしょう。



どの世代も若いころは不安があります。将来、あるいは社会へ出てやっていけるのかと。そんな中でゆとり世代は次元の異なる強くて大きな不安を抱えている人が多いように感じ受けます。



私の素直な実感としては、いやいやゆとり世代というのは、非常に根が堅実で、しっかりしている人が多く、どこか必死さを凛として持っており、他の世代よりぜんぜん強い芯を有しているように思います。同じ年齢時で比べるならば、どの世代よりも精神年齢も高く感じます。ここがもっと活きるように、大人が本気で引き上げていくと、国力のプラスになると思っています。





たわいもなく飲んでいるとき時代の変遷が話題となり、私は団塊の世代に謝罪をされたことがあります。「あいつらを叱れなかった俺ら世代の責任だ。しかし叱れなかったんだ。叱ればすぐ『他に行きます』という時代だったから」。このように言えるこの団塊の世代の方は大人だなと思いました。あいつらとはバブル世代のことです。




あらゆる世代と対話してきた中で、このバブル世代だけは言葉や想いが中に入っていきません。微塵も。わざわざ敵を作るようなことを言わなくとも、他にも言い方はあるように思いますが、しかしあえていうならば、私が一つチャンスだと思っている切り口を言うなれば、それはバブル世代がこれから多くの組織でトップに立ち始めるということです。




バブルの人は基本陽気な人が多い。これは良いことだと思います。しかし踏み込んで会話をしていくと芯が空っぽの人が多い傾向にあると思います。本人達は自分の世代が一番だと思っているのですが、内面を磨かなくとも、能力以上に成果が出た時代を謳歌してきたせでしょうか。




キリギリス型が多いようにも思いますが、後進を本気で育てるわけでもなく「若いときはもっと遊べよ」「クルマ買えないの?」なんて平気で言うわけです。次の世代を育て、あるいは経済を作る努力を全うレベルにした上で次や若い子へ遊べよ、ならば筋は通ると思うのですが、大切にするのはプライベートの充実。



とあるバブル世代の人から「もういいかなと思って」と自殺を相談されたこともあります。「何もしてないくせに子供に変なことを残すなんてバカなことをするな」と叱責させてもらいました。がさして深く考えてない様子でした。年収1億円あった人ですが、一時期サウナの掃除のバイトをしていたときのことでした。私を地上げした人です。この人は面白いのでまた今度詳しく。



ある財閥系不動産会社に当時部長として勤めていたバブル世代の方はリーマンショック前に「私の感覚からすると、やっと(相場が)戻ってきたという感じですよ、はっはっは」と言っていましたが、何言ってんだろと思ったものです。




身なりはしっかりとするのですが、遊んできた部分に関しては成熟性もありつつ、しかし本質的な中身は幼稚で、実は困窮するやもろい人が非常に多い世代だと感じます。私はこういう感覚を持った世代がぞくぞくとあらゆるところでトップリーダーになり、要も押さえはじめるこれからがチャンスだと思っています。つまりはゆとり世代にとっても十分大きなチャンスが到来します、必ず。



もちろんバブル世代の方でも、能力も人もすばらしい人もいるのですが、世代論は傾向論ゆえ。そしてバブル世代こそが今一番しっかりとしてもらわないと困るので、辛辣なエールとして、人生の後輩より。




1兆円、私からしたら、途方もない数字です。を動かした人二名と深い縁があります。一人は年間の決裁額、一人は株でしかも個人で遊んだ人です。一定以上をやった人、やり抜いた人、やり切った人の言うことは、とくに素直に、何も考えず、そういうものなんだ、と受け入れることにしています。



株で1兆円、遊んだほうの人が言っていた一つは「男たるもの45歳から55歳が一番脂が乗るときだ」というものです。そう言うからそうなのでしょう、あとで理屈も理解できるときがくるから、そう思っておけばよい、という感覚で素直にそう思っています。今のバブル世代であり、これから団塊ジュニアが突入する年齢ゾーンです。例外中の例外は何事もつきものですが、多くの人がうまく行った場合の仕事で迎えるピークなのでしょう。私もピークを高いところに持っていけられるよう努力中です。ゆとり世代の人も、そのときを楽しみに、自らを磨いていってほしく思います。



ここに記すことは、いつも周りへ伝えている一部で、特段にあるいは個別に他意も悪意もありませんが、気分悪く思う人がいたのであれば、申し訳なく思いつつ、それは思い当たることがある場合もあるのやも、とも思いつつ、あまりそこら辺は考えておりませんゆえ、重ねて陳謝いたします。あ、バブルの世代にはもっとしっかりとしてほしいと思っています。



2015年は特に早く感じました。神田明神へ年明け行ってきます、なんて聞けば、あれこの間行ったばかりだったのに、という感覚。そして年末ぎりぎりまでブツブツ独り言を発してしまいました。



2016年、よいお年をお迎えください。迎えましょう、どうやって、努力して。




飛躍、飛翔の年が来ますように。

来年も鬼を笑わせて、ドライブへ行こう

Posted at 2015/12/31 01:35:14 | コメント(3) | トラックバック(0) | 羽田ドライブ|飛行機 | 日記
2015年12月30日 イイね!

男だけで草津にドライブへ行こう。


今年の男草津の旅は、後進のクルマで行きました。昨年の男草津の旅は勘違いすることなかれの意味も込めて年相応の雰囲気にしましたが、今年は幹事もバトンタッチ、ちょっとよい仕立てになってました。たかがクルマ、されどクルマ。後進にも少しでもいいクルマに乗ってもらいたいと思っています。



いいクルマ、すなわち企業価値を高めたメーカーの考えや、教育プログラム、マーケティングを体感してもらったり、高品位な商品を味わってみたり、あるいは安全を買い、もしくは行く先が増え、車中彼女や家族との時間もより快適になり、つまりは感性を磨く機会を増やしてもらいたい。換言すれば、男には本物にふれさせろ、を少しでも多くしていきたいと思っています。新車に乗れ、お前は中古で十分。ステージや状況でメリハリもつけながら、いいクルマを「買う」ということも経験であり、そのような経験も若いうちからしてほしいと思っています。私自身はよほどのことがなければもう中古で十分です。



いいクルマを買うことはさして難しいことではないと思います。大変なのは他のことも充実させながら、あるいは飲み代もたんまり使いながら、維持することです。10年後もいいクルマに乗り続け、つまりは買い替えて、乗り続けるという難しさも知ってほしく思っています。どころか、自分だけでなく、後進に、さらにはたくさんの後進にそれをし、かつこれまたやり続けるハードルも越えてもらいたく、できれば軽々と。




東芝や、もっと厳しい事例たるサンヨーなど、万や十万以上いても適切なトップリーダーが生まれてこないところもあることを思えば、あるいは中小零細では後継者が育たなかったところのほうがマジョリティと言ってもいい中、私は100人いて、1人でも育つのならば御の字であると思っています。どころか比率で言えば2人、3人と育ってきているので、なんたる幸せなことであるのか、とも思ってこれを味わいながら生きています。



裏を返すと、99人なのか97人なのか、%に単位を変えてもいいですが、どれだけの経験や環境を用意しても無駄に終わることがある、と心得ないと、本当の意味で人など育てられず、かつ育たないと思います。表現を変えれば1人に裏切られたり、多大な投資が無駄になったりして折れているようでは真に人は育ちません。99人に裏切られたり、育成に失敗したり、それでも折れないどころか、それも内包していることであると思える強さも必要だと思います。日本はちょっと従順すぎるとも思いますが。そして幸せなことに、今年は男7人で一部屋。この年になってこんな泊まり方するとは思いませんでしたが、今年から26歳の若手も参加して、将来も楽しみな幸せな状況を噛みしめました。





まともに写せない大人の時間。
人を育てる、正確にいえばリーダーを育てる仕事というものは、多くの場合、最後の仕事であり、あがりの仕事なのだと思います。換言すれば仕上げです。しかしだからと言って50、60ましてや70になってから取り組んだのでは遅きに失すると思います。「あがり」という言葉に惑わされてはいけないと思う次第です。言うなればお寿司を食べながら、途中でも「あがり」たるお茶を飲むかのごとくです。ちなみに最終仕上げの仕事はもう一つ残っており、グランドデザインとしての最後の仕上げはまだまだ時間を要し、さらにもう一つはまだまだ見届けなくてはなりません。




私の知り合いで営業の成約率100%というありえない人がいました。もう定年をしたのですが、それなりに大きい会社でプラントを売っていた方で、後年は役付き取締役までなっていました。売れるまで絶対に諦めない、売れるまで毎日顔を出す、とおっしゃっていました。同じように営業のスタートは「断られてからが営業である」という格言みたいなものがあるのかと思うのですが、私が思う人を育てる格言みたいなものは「心底もう無理だ、手は尽くした」と強く限界を感じ思うところまで行ってからはじめてその人を育てるスタートに立ったと思っています。



己も変わり続け、器も広げ、やり方も考え方も変えて成長していくと思っている中で、後進に対しても、自らの子供に対しても、愛情の量は同じだと思いつつ、掛けているお金は後進のほうが圧倒的にこの先も多くありつつ、想いはほぼ同じです。




ほぼ同じ想いの意味は、後進へは「より大きな社会貢献ができる人に育って欲しい」と想い、子供へは「多大な社会貢献ができる人間に育ちなさい」と思っている違い程度です。前者はいろいろな器の人がいることを想定しています。ともに負けじともっと社会貢献ができる人間を私も目指します、と想いながら。




子供が生まれるずっと遥か前から、とにかく教育、つまりは人に興味が強く、10代の頃から、人と接するときは「教育」という視点は必ず持ってお話を伺ってきました。この人はどう育ったのだろう、どう育てたのだろう、どういう人を育てたのだろう、育てられなかったのだろう、なぜ人を育てられなかったのだろう、と。





人はなぜ20年もの歳月を使って育ち、育てられのか。私はその答えはその人が将来「社会へ貢献するために」だと思っています。




自分が食べるため、いい人生を送るため、だけであれば虫と何が違うのだろう、と思っています。福沢諭吉に教わる前に、自分でこの答えにたどり着きましたのは、自慢してもいいことかなと思っています。




教育というものは、100人いれば100の論があると言われますが、93ぐらいはさした論でないと思い、蹴散らしたいとも思っています。ほとんどの育成論は仕事ができないおじさんが飲み屋で「俺のやり方」をのたまわっているようにと同じなんだと思っています。どの口が言えるんだと。その人なりの器で一生懸命に生きているのは知ってはいるのですが。




若さとは無限の可能性と同義だと思うので、ダメ出しもたくさんします。答え合わせをたくさん一緒にやります。しかし年配者へはよほどの場面でないと批判をしません。それがその人が懸命に生きてきた結果であり、否定するということは、人格なんいうものではなく、人生を否定することになるからです。もう戻れない人生を批判しても何にもなりません。




親というものになる前から、たくさんの親に質問をしてきました。将来どうなってほしくて育てていますか、と。



多くが「いい学校」や「いい会社に入る」「手に職をつける」「食べていけるようになってほしい」などありますが、ひっくるめて言うなれば、多くが「しっかりと自分の力で生きていけるようになってほしい」という趣旨のことなんだと思います。「いっぱし」という表現を使う人もいます。これらはすべて換言すると「自分のことだけ考えて生きなさい」と教えていると同義だと思えてなりません。




そうではなくて、「社会に貢献しなさい」「社会に貢献できる人間になりなさい」と言われて育ったほうが、視野も広く育ち、自分のことだけで精一杯な器にならず、結果としてそう育てたほうが、本人も潤うように育つように思います。経済的にも精神的にも。




自分のことだけ考えなさい、と同義に言われ育つ人が多いゆえ、自分のことしか考えない大人、で構成された社会があるのだとも思います。あるいは自分が生きていくので精一杯で他者の人生をよくする実力を付ける前に皆無なうちにボランティアで悦に入る若者を生んだり。これが「社会に貢献しなさい」と幼い時から20年言われて育ってきた大人で構成された社会になると、なんとすばらしい世界になるのかと思います、こういうのを理想論というわけですが。



社会貢献とはなんだろう、それはまたの機会にするとして、名家であれば「国のことを考えなさい」「国を動かす人になりなさい」と育てられると思うのですが、そうでなくとも少なくとも「社会のためになることを考えなさい」と言われ、そう育ったほうが本人も張り合いが出てこようものかとも思います。政治家と官僚、前者の子息息女のほうがしっかりと育つケースが多く、この辺の違いも大きく一つあるのではないかと思います。



よく聞く、「将来、何がしたいか本人が決めること」本当にそうなのでしょうか。そう思った瞬間に親として、育てる側として、考える、ということの放棄に思えてなりません。少なくとも大切な将来についてしっかりと話し合い、だけでなく、社会というものを親が教え、その上で本人が決める、換言すれば社会の先輩としての信頼関係も作って一緒にとことん考えてやる、ということも必要であり大切なのではないかと思います。




後進や子供だけでなく、育てたり、その手伝いをすることが、おそらく天職を越えて、天命だとすら思いこんでいます、というぐらい好きです。




T芝といえば、副な社長をやったことある方にある日お会いしました。私はすでに相当に遊んでいたのですが「君、たくさん遊びなさい。遊ぶということは人間の幅を広げるんだよ」とおっしゃるので、御礼を伝え、そしてご子息の話を伺ってみればぜんぜん真面目すぎるということで、他人の私より自分の息子にアドバイスしたほうが、と思いつつ、息子氏を借り出して遊び仲間のところへ放り投げてきたこともあります。それから数年、真面目な芯はそのまま壊れることなく、艶が生まれていました。ということもありました。



不登校の中学生を、職場で預かったことがありました。小学校2年生のときから中学2年まで一度も学校へ行かなかった、ちょっとした名家のご子息です。




職場へ遊びに来るようになり、ゲームなどたくさんの話を聞いて、半年ぐらい職場へ通うようになり、仕事も手伝ってくれるようになりました。途中からは社会についていろいろなことも伝え、はじめは午後、やがて昼、だんだんと朝に「おはようございまーす」と来るようになりました。一貫して心がけたのは「な?人って怖くないだろ。社会なんてこんなものだよ」と問いかけたとしたら「そうですね、楽しいです」という心象を持ってもらうよう留意はしました。




その後、大学まで進学し、今や30歳ぐらいになる頃でしょうか。社会人になってからも鍛えてあげたかったですが、あとは親の役割もあるのでしょう。自信のない人には自信を持ってもらい、人や社会が怖い人には怖くないと知ってもらい、そして知らない間に強さを持ってもらい、あるいは傍観者には少しずつ、そして気が付くと自分こそが問題を解決するんだと思ってもらうようになってもらい、いろいろな実力というものも付けてもらい、その実力をどんな方向で活かしていくのかも話し合ったりして、人生を充実することを味わってもらい、すばらしい仲間にも恵まれ、いずれにしても、いきなりトップギアではなく、だんだんと少しずつ知らない間に、まるでレンズ沼のように。子供がもう少し大きくなってから、孤児院へ何らかの手伝いをするような人生の使い方をしたいな、とも思っています。近年は経済的困窮から育児を放棄するケースが増えているようです。


ドライブへ行こう

Posted at 2015/12/30 10:38:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | 群馬ドライブ | 日記
2015年12月29日 イイね!

新幹線を流し撮りにドライブへ行こう。 東北新幹線 大宮 宇都宮


国道17号、板橋区舟渡と埼玉県戸田の境になる荒川にかかる戸田橋。右端に見えるは新幹線の高架。




目指すは、はじめて利用する戸田公園駅。前回宇都宮へ行った際は在来線へ乗っている時間が長すぎたのでもう少し大宮寄りまでドライブすることに。



人生初の戸田公園駅へ到着して踊る胸。東北新幹線が見えました。




子供が寝ているので、写真を撮りながら少々待ち。新しいBMW7シリーズ。



ベンツEクラス、この色が渋かったので一枚。




手前は空き家。だんだん増えていきそうです、このような光景。



起きる気配がないので、もう少し大宮寄りまで移動しよう、という家人の求めに応じ、これまた人生初となる中根中浦和駅という駅。途中の休憩も入れてここまで一時間半のプチドライブ。




分かりにくいながら、写真右手の新幹線。在来線とともにホームに入ってくるような構図を撮りたかったものの、カメラが間に合わず。



大宮到着、フェラーリをデザインした奥山清行氏監修という車両、輝きを一枚。




そのまま東北へ旅行でも行きたくなる雰囲気ながら、大宮から宇都宮まで20分だけの旅。




前回ははやぶさでしたが、今回はつばさ。自由席にて。



まだ新車でしょうか、綺麗な車両でした。



スズキのSを狙って流し撮り。



あっという間に宇都宮へ到着。



何本か新幹線を見学することに。



停車するやまびこ系。絞り優先モードにて絞りだけで対応するも、あまり流れず。




なので、シャッタースピード優先モードにてSSを変えて。



見送って、



怒涛の通過が見たいので、もう少し粘り、



こちらはズーミングも入れたりしながら一枚。



怒号の稲妻かのような音とともに通過。



あまりに早いのでSSでは自信がなく、絞りで対応。あまり流れずスピード感でず。



ゆっくり出発をする車両をSS下げて。




今回は宇都宮餃子館。我が家のイブランチ。



外のたんぽぽ、コンデジにて。



よく見るとこんな造形。



ほんのちょっと駅前をぷらぷらして、



帰還準備。



お煎餅やら仕入れて、そそくさと乗車。マンションも流し撮り。意味のない本来の性格とは相反する躍動感。



大宮で少し流し撮り。




近すぎると難しい。



在来線へ乗り換えた埼京線。



新幹線に追い抜かれる光景は撮れず。



コンデジでも流し撮りの練習。



帰路。このあたりの高速道路裏。迫力を感じるデザインです。


新幹線の流し撮りにドライブへ行こう

Posted at 2015/12/29 07:12:35 | コメント(3) | トラックバック(0) | 栃木ドライブ | 日記
2015年12月28日 イイね!

流し撮りしにドライブへ行こう。流し撮り強化期間ウォーミングUP 南青山 富士急ハイランド



この日は寝具を仕入れに南青山へ。

踏切待ちも流し撮り。小田急線、の雰囲気は好きです。以前は小田急沿線の世田谷代田駅に住んでいたことがあります。各停しか止まらない小さな駅ですが、下北沢が隣にあり気持ち足を伸ばせば食べるところも多く、また三軒茶屋もワンメーター程度の距離で、新宿や渋谷もアクセスしやすい落ち着いたところながら若い人にも住みやすいエリアです。



自立したのは少々早く、高校一年生の頃には実家が東京にあるにも関わらず、一人暮らしをはじめました。親不孝もいいところで、もちろん大反対されましたが、周りに地方から出てきた一人暮らしの友人・知人も多く違和感が無かったことに加え、中学生の頃から親戚の材木商店でアルバイトさせてもらい、なんと自分で稼ぐとは楽しいことなんだろう、と思ったのもあり、一日も早く自分の力で生きていきたい、と自立をしたくて、あとちょっぴり同棲もしたくて、結局は同棲には至りませんでしたが。生活費があるのでアルバイト漬けになりましたが、お金を稼ぐのが楽しくてしかたありませんでした。



学業に専念すべきである、という考えもあり、賛否両論あるいは目指す人生のコースや家庭の階層にもよるかと思いますが、若いうちはやはり学業を中心にしたほうがいいと思いつつ、アルバイトをする機会があれば一つのアルバイトを長くやるよりも、一つでも多くの世界を経験したほうがよいと思います。学生のうちほど、数多くの業種に携われ、広く社会勉強できる機会はありません。単純作業に肉体労働、配膳などのサービス業に、夜の街で働いてみたり。16歳のときには大手カラオケチェーンの渋谷店で店長もやらせてもらいました、年をごまかして働いていたので。毎朝仕事が終わると、私服警官から干支を聞かれる職質です。




バイトに精を出し、好きな読書で独学する以外の勉強はまったくしなくなりました。偏差値が測定不能な底レベルで、毎年1コマでも遅刻すると留年決定、という状況ぐらいギリギリでした。本当に測定不能と出たことがありました。




受験が見えてきたころ、バイトを中止し、椅子に体を括り付けて猛勉強。一ヵ月ほどで底辺の偏差値が60台になり、一か月でこれなら楽勝、と受験勉強はそっちのけにまたアルバイト開始。あとパチンコも同時並行。永福町にあったボロボロのパチンコ屋さんの黄門様は本当によく出て、生活費を稼ぎました。



そうこうしているとかなり目の前が受験シーズン。これはまずいな、時間が足りなくて間に合わないかもしれない、ということで推薦入試を先生にお願いしたところ「あんたバカじゃないの」と一蹴。



そりゃそうです、欠席、遅刻だらけで、高校は公立だったので1~5までの五段階評価の中、煙突とアヒルの大行進。停学処分も一度経験しました。世界有数の繁華街から交通の便もいい学校だったので帰りはいつも友達とナンパの日々もしつつ。諸々恥ずかしながら。



そんな中でも、しかし受験勉強するのも面倒であり、椅子に括り付けて猛勉強する大変さも知ってしまったので、どうしても推薦で楽して行きたい、過去を帳消しにして、ということで、先生に懇願する日々のスタートです。



担任はどうしても相手にすらしてくれなかったので、とある教科の先生へお願いするターゲット変更。何日も「大学へ行ってこんな勉強をして、社会に出てこうしたいんだ」と言うなればプレゼンをマムシのごとくしつこく繰り返していると、なんとある日先生折れてくれました。



この先生が味方になったあとは、この先生がほかの先生を口説いて回ってくれ味方が増えていきました。過去の成績と出席状況もすべて改ざんのねつ造、いや素敵なストーリを作って頂きました。餅は餅屋です、やったはずのない各種委員会歴任や学校行事の担当までしていたことになっていました。推薦要件プラスアルファも含め、すべて満たしました、書類上。大人になってから気づきましたが、公立なので公文書偽造同行使でそれなりに重い罪かもしれません。を、先生達がしてくれたわけです。想像の域はでませんが、校長先生も巻き込んでの話だったのかもしれない、と反省もしつつ。




別日、富士急ハイランドへトーマスを見に河口湖方面へ。

「こんなことありえない」「前代未聞、絶対におかしい」と最後まで担任は言っていましたが、私もまったくもって同感で、反論の余地はありません。若いころは「俺は交渉学で大学へ行ったんだ」などと調子に乗っていましたが、後にして思ったのは、先生達に進学させてもらい、そして感謝であり、そこまでしてもらったのだから先生たちに報いるためにも、社会に貢献するためにがんばるんだ、というマインドが根底に、そして根強くあります、今でも。身勝な話と自覚しつつ、能力は別にして少なくともマインドだけは、これだけ社会へ貢献したいと思う人間を世に送り込んだという意味では教師冥利につきる、という評価があっていいかもしれません。




もう時効であり、当時の先生方も定年を迎えていらっしゃる昔話ゆえ、記せますが、こんなことあるんだ、と今でも自分自身で思います。何事も頭から不可能、無理と決めつけることなく、ほとんどのことが突破でき、既成概念や常識に捉われることなくということと、そして固い一念も信念も岩をも通す、相手が人間であれば岩よりも楽、とその後の価値観に大いに影響もした出来事となりました。事実なのでしかたありませんが、子供には一貫してまともな教育を、と思い願っています。




推薦は単願とし小論文と面接でした。面接で寝耳に水で質問されたのが「大阪へは自転車でどれぐらいかかったのですか」という学部長。なんのことか一瞬分かりませんでしたが、どうやら餅屋の先生達が「夏休みに自転車で大阪まで行った」という在りもしない、パフォーマーとしての私を作り上げてくれたようだと察しました。これはグレーな回答をしないとまずいと思い、とっさに「途中で友人が風邪を引きました関係で1週間かかりました」と嘘をつきました。





先生達のリスクを冒した努力の甲斐もなく学生のころは1~2年は遊び続けました。さんざんプレゼンした大言壮語は忘れて。しかし20代は心を入れ替えて、3~4年は学業に専念しました。遊びから学業へ。図書館から学生が遊んでいる姿が見えるのが何より集中力の敵でしたが乗り切りました。大学前半、テストは当然にノートを見せてもらう手法でかつ非常に高度に難しく感じましたが、学生後半はテスト勉強はこれまた一切せずとも「なぜこんなに簡単で初級な設問なんだ」と思うほどに、普段まともに勉強すると簡単に感じるテストしか出てこないように思います、日本の多くの大学は。人生猛勉強するときも必要なのでしょう。そのまま社会人となった20代はとにかく勉強をし続けました。30代になってのみ遊ぶとは露知らず。




家庭教師など、とくにお年玉もたんまりな美味しいバイトにありついている学生もいるやもしれませんが、私も学生のころは美味しいバイトに出会えました。歴代先輩から引き継ぐ新聞社での編集補助という名目の坊やです。ADのような存在と言ってもいいかもしれません。



ナンバーが付いた年収1,000万円プラスタクシー代と貢物を稼ぐ女子大生キャバ嬢には敵いませんが、新聞社では年収で600万円頂きました、しかも週2~3回の勤務で、勤務中はほぼほぼテレビを見ながらお茶を飲んでいるか、読書です。換言すれば既得権益の業界の強さ、と言ってもいいかもしれません。この程度の出勤でOKなので掛け持ちも可です。合わせて学生には十分すぎる以上の金銭です。すべて今の家人、当時の彼女とのデート代で浪費、いや消費しましたが。



準社員としての扱いで年二回のボーナスに加え、私は管理部付け社会部に配属されていたのですが、社会部の記者は東京本社だけで100余名ほどだったと記憶しています。記者の方ほぼ全員から寸志も別途頂ける環境でした。当時のデスクや部長など、テレビで拝見することもよくあります。今はインターネットでなんでも見れますが、非公開な少年犯罪者の顔写真や、世間を騒がせるような特ダネは早くに知ることができたり、あるいはちょっとした隅っこの記事は書かせてもらったり、いい社会勉強をすることが出来ました。大手町勤務なんてこんなものか、という経験もさせてもらいました。ちなみに政治部だけは異質でした。女性記者も原色のスーツを着たりして。




二歳が見えてきた子供が撮った写真。だんだん安定してきました。あまり若くして写真趣味にはなってほしくはないながらに、写真好きのマインドは埋め込んでおこうと思います。学ぶことや仕事に尋常でないぐらい打ち込む期間も作ってもらいたい。あまりに早くカメラ趣味になると、撮れないストレスが生まれてもかわいそうです。



自分が配属されている先の部長の力量も関係しつつ、そしてその部長に気に入られるとそのまま新聞社へ記者として、あるいは関連会社への就職も可能でした。いろんな大学から集まっていましたが、同門含め何名かはそのまま就職の道を選んでいました。社会部は花形の一つなので、十分に部長に力がありますので有利に働くと思います。今は派遣や通常のアルバイトになってしまい、好条件ではなくなったようですが、志望する人にとっては一番早い就活と言ってもいいでしょう。諸々はっきり言って相当にぬるま湯でした。ゆえにこれは腐る環境です。三回ほどボーナスをもらって後輩へ引き継いで辞めました。



マスコミの中や、あるいは東京のど真ん中での大きな企業の本社、を見れたという経験はのちにいろいろ活きていくわけですが、このときは今回のボーナスいくらだろう、そんなことしか頭にあらず、いい仕事をしよう、などとは思わず、つまらない人生でした。ちなみにマスコミを使って、言ってみればタダで知名度を上げる人もいますが、利用したら、必ず利用されます。マスコミは甘くありません。



社会へ出てから仕事と猛勉強もする日々の中、ある作家との出会いがありました。当時数冊ヒットが出ていた作家でした。その作家の方は毎晩20時ぐらいになると、ふらっと私の職場へ来ました。気が付くと23時、そして0時。職場の時計とチラチラ睨めっこしながら、「あー電車が終わった・・・」と心の中で思い、終電が過ぎれば腹を決めて、徹夜で議論。毎晩のように繰り返しました。




ある時は音楽の本質と絶対性の話になり「絵を見て自殺する人はいないが、音楽を聴きながら自殺する人はいるんだ」と言っていたのが印象的です。というように1円にもならない話を徹夜で、本当に来る日も来る日も激論を交わさせて頂いたのも、今にして思えばいい経験です。有効な無駄は必要である、という人もいるそうですが、まさにその一つかもしれません。




この日は女優さんが子連れできていました。「撮った?」と家人から言われましたが隠し撮りはしていません。
そういえばあまりに勉強をしない高校生の頃、一度親が知り合いの伝手で家庭教師をつけてくれました。その家庭教師は合格請負人の看板を持った地方公務員の中年な隠れアルバイトでした。



フィーが高く三か月程度で経済的負担が親へ申し訳なさすぎて心苦しかったので断ることになるのですが、この家庭教師の方針は実検でした。つまり歴史の勉強にしても座学だけでなく現場を見に行く、です。自分の目で見て、肌で感じれば一生忘れないだろう、というやり方です。



当時、元寇襲来の勉強だと九州へ行き、温泉にも入って一晩、帰りは瀬戸大橋にも寄り、行ってみればM菱の方が黒塗りのデボネアで、この地方公務員の方を迎えに来て一緒にクルマへ乗ってみれば「先生、わざわざお越し下さりありがとうございます」「先生、先生」の大合唱。地方公務員でも「先生」と呼ばれ上げられるんだ、と大人の世界を見せてもらったことが何よりの社会勉強になりました。加えて公務員としての出張経費を使い、プラス家庭教師としての出張費用、経費の二重取りをしていること、も高校生ながらに気づき、せこい大人のやり口というものの勉強になりました。



公務員と言えば、社会へ出てからは、とある作成した大作の書類がとある国家公務員の方の目に止まり、事務力を見染められスカウトを受けたことがあります。しかも「一種として来い」と。こんなこともあるのですね。当時の時代の趨勢と当該機関の状況とが許したことだと思います。



この時ばかりは、国のためにダイレクトに働けると、仕事の魅力を感じて一週間毎晩風呂に入りながら悩みましたが、自分で選んだ道を歩み、自分の役割を全うしていくことに決めお断りをさせて頂きました。本当は能力云々ではなくて、信頼できる右腕、いや左腕が欲しかったのだと思います。



その方とは、その後もお付き合いが続くのですが、いろいろなお話を聞き勉強させてもらってきました。大きな、そして力のある組織では足の引っ張り合いも半端ではなく、ときにマスコミにたたかれるだけでなく、組織内で怪文書も出回ったり、今やネットでの書き込みも当たり前で、このような世界では並みの精神力では持たなそうです。外からの批判はいいとしても、日々内部で刺し合う魑魅魍魎さは相当にきついと思います。



この日も小作のほうとうへ。いつもはバスも来て近年は中国人も多いですが、一瞬の貸し切り状態。
いろいろな稀有な経験もさせてもらってきた中で、苦労もしてきましたが、家人は逆に何一つ、とくに経済的に苦労をしたことがなく、すべて推薦で進学し、就職もコネと、こういう人もいるんだ、と今も不思議に思う次第です。後進は両親が教師というパターンがあるのですが、一人は親の授業を生徒として受けたことがあるそうです。人生いろいろ、いろんな人の人生を知るのは、私は面白くて好きです。知っているようで知らない仲間のエピソード、聞いてみるものです。




経済界の雲の上、と呼ばれる方と縁があり、加えてそのお子さんと出会う機会も何度か恵まれてきました。思うことは、教育がうまく行ったところもありつつ、一方でつぶれたお子さんの比率が高い、ということです。




いわゆるエリート中のエリートと評される世界で生きてきたような父親を持つと、価値観の押し付けが半端ないのだと思います。「そんなことはとっくの昔に(頭がいい人間同士で)済んでいる議論だ、結論だけ受け入れろ」と説明する丁寧さがないように思ってきました。私も何度もお叱りを受けたことがあります「君は要領を得ない男だな」と。負けじと食い下がってもきましたが。距離感があり誰の紹介でもなく会うと「どこの馬の骨ですか」と言われたこともあります。どこにしようかな、と思いつつ、雲の上は厳しくも冷たくもあります、高高度の飛行機が飛ぶ環境のように。



真正と付く団塊ジュニア世代として、同じ年代だけですと190万人、前後+-2年も合わせると1,000万人近い中で、間違いなく一度は最下位あたりまで落ちています。そこから20代の数年で恐らく800万人はごぼう抜きしたのではないかと、振り返ればそんな見方も成り立つのだと思いました。「読むことは人を確かにし、話すことは人を俊敏にし、書くことは人を確かにする」フランシスコベーコンという人の言葉ですが、これをやるほどに人生が向上していくような気がいたします。



しかし、そもそも世界を見れば、同じ世代だけで1億人前後以上いる中で、日本に生まれたというだけで間違いなく平均値を十分に超えた環境を誰しもが持っています。アフリカやフィリピンでは本すら読めない子もいるのに、本を買うお金も、読む識字能力も教養もありながら、この環境を活かせるのかどうか。最低時給で考えても1~3時間の労働対価でだいたいの本を買うことができます。ブックオフへいけば数冊買えることでしょう。後進国の貧困層では場合によっては一ヵ月の労働対価と本一冊が同じ場合もあります。一ヵ月家族で働いても本一冊も買えないところもたくさんあります。ちなみに私と同じ世代で中国が2000万人、アメリカが300万人、それぞれ2015年生まれで1600万人、400万人です。2015年各国の出生数





高速道路ではスポーツサスの設定にするととても心地よく、やはりドライブはいいものです。
過日、おかげさまで四十路に突入しました。これからがさらにまた早そうですが、そんなことを言えるのも幸せなことです。プレイヤーとしては昔と言ってもいい前に、あるいは第一線も相当前に譲り、自分にしかできない役割をしている、つもりな中、思った以上にたくさんの祝電をもらいました。夜の子も。はじめてもらったフレーズとしては私のシャーマン。調べてみると「シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。」よしこれで食べていこう。恐山へ行ってイタコを口説きながら、スキルアップする所存です。


恐山へ流し撮りやりに、ドライブへ行こう

Posted at 2015/12/28 19:01:45 | コメント(3) | トラックバック(0) | 山梨ドライブ | 日記
2015年12月26日 イイね!

富士山を楽しみにドライブへ行こう。 中伊豆~河口湖


中伊豆ドライブ続きです。


毎度、構図に四苦八苦しているこのバス停をもう一枚撮ったあとは、この先日本経済が厳しくなる中であっても、ずっとこの宿を楽しみたいと願いながら、宿のみなさんに謝意を伝えつつ、




伊豆縦貫道を北上し、帰路がてらまずは伊豆の国パノラマパークへ向かいます。富士山が綺麗に見える快晴。



ロープウェイに乗って、富士山が見えて来ました。
2050年になる頃には、鬼籍に入っているやもしれませんが、あるいは支えられるほうになっているかもしれませんが、おおむね1人の若者が1人の高齢者を支えなければならない時代が到来します。移民政策を取ったとしても、日本の若い世代が苦しむことに変わりはないように思います。



山頂到着。小笠原諸島から伊豆半島を通って富士山まで続く火山帯の痕跡。遥か太古は激しい地殻大変動があったのだと想像しながら、今は美しい富士山と箱根、伊豆など温泉が楽しめる有り難い時代だと思い巡らせ。

1人が1人の老人を支える。自身も食べて、家族も養い、親の面倒も見ながら。現状でも年収300万円時代と言われていたのが、気づけば200万円時代であるのに、この先の疲弊を勘案しなくとも、不可能と言っていいレベルだと思います。





駿河湾も同じような雰囲気で一枚。国際的には太平洋に属するフィリピン海にある駿河湾。日本一深い湾です。海底から富士山頂までだとおよそ6,000m。ここで獲れるタカアシカニはその味噌が逸品だと思います。

来る2050年や2060年を待たなくとも、2030年、2040年と向かうに従い、いやもっと早い段階で、日本列島から壮絶な悲鳴が聞こえ、軋轢だらけになることでしょう。今や実は江戸時代なら一揆が起こっていた年貢率を超えている場合もあります。年収300万円ならば切りつめてもほぼすべて支出となるので家賃以外の手取り分すべてから、消費税という名目でさらに8%上納することになります。これから長いタームとしては根本的かつ全体的な解決策はないに等しく、海外移住を考えるか、開き直るか、一人ひとりの防衛策を全力でやるしかないと思います。




昆虫というものは宇宙からの外来生物である、という都市伝説があるほどに、その造りが異なるわけですが、カニやエビは節足動物という生物学的に便宜上分類されてた地位から、近年は遺伝子的にも蜘蛛と祖先が同じかもしくは親戚のようだ、ということまで分かってきたそうです。を知ると、なぜかおいしさダウン。ネガティブな話をしてしまいました。エビやカニはもっとネガティブな話もありますが、とくに越前カニなどのズワイガニは、春までのシーズンに一度食べに行きたいと思っています。そして実は昆虫どころか植物も負けじとすごい造形、とカメラをやるようになってから思いました。植物を間近で見ると、まるでエイリアンそのものです。いや人間の部位や器官も見方によっては怖い世界であり、あるいは精密な造りを思えば、とんでもない芸術性もあるのかもしれません、という感覚はちょっと危ないかもしれませんが。




パノラマパーク山頂を散策。小一時間は歩けるアップダウンありの散歩道。

昭和50年代には、いやその前から人口減が分かっていたという話もありますが、少しは人口が増やせたかもしれないラストチャンスな団塊ジュニアの層も期待できず、そもそも「国家百年の計は教育にあり」という中で、教育は票に繋がらず、結果としてこれだけの識字率と教養を誇る国民を擁しておきながら、国力が駄々下がり真っ最中なのは、もう少しマインドと考え方を育ててきたほうがよかったのではないかと思います。戦後の様々なアレルギーの中で一定の考えを如実に押し付ける難しさもあったのだとは思いますが。




富士山をトリミングして宝永第一火口。すごい時代です。

遡ること16年前の2000年。文部省の官僚であり広告塔の役目もした寺脇研氏の講演を見る機会がありました。「競争から共生へ」、何度もおっしゃっていたメインテーマでした。まだ社会人になったばかりの私でも「何を言っているんだ」と憤りを覚えたものです。思うに、生きとし生けるものはすべて生存競争をしているのであって、にも関わらず、国をあげて共生だ、と生ぬるいことを発しはじめた。そのような方向へ持って行ったさらに遡った先人にも責任はあるのかと思うのですが、総括するのであれば、ときの文部省にも教育というものをより劣化させた重い責任があるように思います、と言っても何もはじまらないのですが。




街をトリミングして沼津と三島の一部を俯瞰。これだけ見える怖い時代です。俯瞰、つまり全体を見渡す立場、あるいはそのような役割を預かるものは、俯瞰したくともできない階層にいる人を思えば、しっかりと見渡し、目を凝らしとにかく見て気づくという役割も遂行しなくてはならず。

そんな憤りも感じた若いころ、自らできる範囲で人を育て、あるいは教育というファクターに関わっていこうとも思い、今日まで七転八倒ばかりの八起きもしてきました。これから10年、20年、さらにはその先も壮絶な時代が必ず来ると思っています。そのような時代でも立派に社会で役立てる人を作りたい、できれば大きく役立つ人を。そのためには自らも成長しなくては、がカメラ趣味にはまり。




同じようなパターンで、こちらはコンデジ。
厳しさが増す一方で、大きなチャンスもたくさんあることでしょう。地殻変動レベルに日本経済が変わっていきます。チャンスを掴むためには、チャンスを掴めるだけの成長と準備をしておかなければならない、とも思っています。そして厳しい時代にどの方向へ舵を切っていくのか、船長、あるいはリーダーには重要な役割と遂行する強靭さが求められ、蚊帳の外。




三万円少々出せばこれだけの技術を享受できる時代。数百万画素時代のズームオリジナル画像ぐらい、いやそれより綺麗かもしれません。




街をトリミング。三万円出しても、これだけのカメラを自分で作ることなど不可能です。いやどうやっても作れません。やはりいい時代です。しかも何枚撮ってもランニングコストもかかりません。フィルム時代では一枚が貴重なので、こんなところで景色だけを何枚も撮れませんでした。なんと恵まれた時代に生きているのか。




いや、デジカメ時代になっても、当初は記録メディアの容量もなく、余計な風景写真など撮れて1~2枚、そんな時代もありました。



もみじのトンネルを通って。

頭を使い「心底考えた」と実感できるほどに、考えるという行為をしたことが三度の機会あります。一つの機会は子供が生まれたとき、猛勉強し考え抜きました。子供の人生を導くにあたり20年、30年先、いやその先もまでも考え、様々なケーススタディも想定した帰納法で。方針によってはゼロ歳児から取り組むこともあるので、いつまでも考えられません。一定期間内に決めなければなりません、最善を。



昼食は静岡県を中心に展開する「沼津魚がし寿司」。ささっと食べられるネギトロ丼を掻き込んで子供の相手。

同じようにもう一つの機会としては、社会へ出てから、猛勉強し考え抜きました、長いスパンの未来を想像しながら、原理原則と睨めっこして、どう進んでいくべきか。ときには空を仰ぎながら来る日も来る日も未来の社会がどうなっているのかシミュレーションするのに、ゴマ粒程度の脳みそが爆発するんじゃないかと思うくらい考えました。




伊豆修善寺 虹の郷(にじのさと) 花と緑の公園

残る一つの機会は、似たように万馬券を2回中、2回とも三通りだけ買って当てたとき頭を使いました。全紙のデータを頭に叩き込んで頭の中で映像としてシミュレーションを何度もし、言ってみれば考え抜きました。非常に疲れる行為であり、コスパが悪いので競馬は二回以降やっていませんが、人生も子供も考えに考え抜いたのは一定期間だけです。あとは多少の修正はしながらも、大筋は考えたことに全力かつ一糸乱れぬように行動を合わせ、想像もしなかった試練は乗り越えるのみの、努力のみ。人生だらだら考えるのではなく、集中して考え抜いて、あとはそのことは考えない、人生そんなときも必要かもしれません。




伊豆市の第三セクターが運営する虹の郷が誇るロムニー鉄道。さすが第三セクター、サービスクオリティがてんでバラバラのせいか、いつきてもガラガラです。



そんな伊豆の車窓から。ここでも富士山が綺麗に見えました。薄っすらピンク。




望遠ではなく、トリミングの良点としては、圧縮効果がなく本来の形により近い描写ができることです。



望遠の圧縮効果では、飛行機も機種によっては前後がやたら短く写ったり、だいぶバランスがおかしくなってしまいますが、トリミングであればその心配がありません。もちろんケースによっては圧縮効果のよさもありつつ、1億画素まで行くと望遠への感覚も変わり、選択肢が増えてくるかもしれません。



天候は不思議なものです。この15分後には富士山がいったん雲に覆われて見えなくなりました。天気の予報を気にするくらい、経済の予報も気にしたい、みんなで。



終点で降りて、少しだけ散策し、帰りは園内バスです。ダイヤ構成もちょっとした気遣いも、利用者目線なし、それがいつの世も第三セクター。動かざるごと山のごとし級にどの時代も変わらない、という意味では太古より変わらず生存してきたゴキブリ並みに貴重なことかもしれません。もっと多くの人が楽しめれるように出来ると思うと、そして伊豆で遊んでいく人も増えると思うと、もったいない。でもそんなところもお茶目に感じます。



同世代の中では、残念ながらトップを走れていませんが、客観的にはトップクラスのトベぐらいには残留してこれたかなと、思っています。同世代の平均値のような感覚になりたくて憧れみたいなものもあって、という理由でこのみんカラもスタートした経緯がありました。



やがて行った先を記しておこうと思うようになり、カメラの話題も増えつつ、同じところばかり行っているのでマンネリ解消も含め、粘りだけはある納豆一粒ほどの脳みそながら一国民同士で何かのナレッジみたいなものの投げ合いや共有していくことも大切だと思いつつ、余計な記載もはじまったように思います。やがてご家族との交流にブログを活かしている方を見て、子供へ伝えておきたいことも盛り込んでおこう、というブログ使用の変遷を辿ってきました、が



企業規模と成長性、加えて日本における自動車マーケットの縮小を鑑みるに、このみんカラが二十年後に果たしてあるのだろうか、という継続性にはかなり疑問符が付きそうです。継続性という観点だとgoogleブログが一番固いかもしれません。いよいよなときはブログというものは引っ越しでもできるようですので、カメラ好きも多いこのみんカラの住民でまだまだいさせてもらいたいと思っています。

暗くなってきましたが、山梨の河口湖を目指します。ほうとう食べに。




東名を御殿場で降りて、闇に消えゆく漆黒の存在感な富士山。



道中、まだまだ驚異の存在感を放つ富士。



富士五湖道路にて富士山を狙って、あとで明るさをあげて見れるはず




で見れました。だいぶ画像は汚くなりますが。



これも同じく。肉眼では闇の中、薄っすらとさらに黒い存在感をまだ感じ。



小作、河口湖店。ほうとうで体を温めて帰りました。




往復約370kmのドライブを楽しみました。


いい時代のうちに、ドライブへ行こう
Posted at 2015/12/26 06:56:56 | コメント(5) | トラックバック(0) | 伊豆ドライブ | 日記

プロフィール

「「けっこう遠いじゃん。あんなとこまで行くの?」「パパにとっては近いんだよ」往復10km超つまりは1リットル160円のコストかけてレギュラー152円入れてきました。あぁ〜満足。穏やか普通に走ってリッター2〜3kmの車で通勤してたとは思えない(笑)他の車両も入れたいけどおでかけです。」
何シテル?   06/13 15:38
ドライブへ行こうです。 子供と出かけた全記録です。 よろしくお願い申し上げます。
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