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イイね!
2025年08月22日

自動車は文化か?では軽ハイトワゴンは、

自動車は文化だみたいな言動がたまに出るとき、
その文化云々の前提が欧州のそれ、スポーツカーやら高級車やらクラシックカーやらモータースポーツのそれと≒でばかり語られるのはどうかね?って思う。
たかだか100年程度の自動車史で文化というほどそれは昇華されているのか?とか、ごく一般の市民にまで普遍的な価値観として認知されてんのか?とか思うところもあるけどそれ以上に、
そもそも文化云々を語るなら、

日本におけるミニバン~軽自動車のハイトワゴンへと至る、走行性能云々とかロングドライブ性とかそんなのをかなぐり捨てて普段の生活における足、道具としての利便性と車内空間のスペースとしての快適性を極限まで追求したそれこそ日本の自動車における大衆文化の象徴のようなものではないのか、
自動車を文化と言うなら軽ハイトワゴンを日本の自動車文化として語らないのはおかしくはないか?
とかそんな事をなんとなく。
ブログ一覧 | 記憶の断片 | クルマ
Posted at 2025/08/22 23:50:56

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この記事へのコメント

2025年8月23日 10:57
こんにちは~・・・。

一理ありますね。

そこで私は、何故日本には軽自動車と言う規格があるのかを考えざるを得なくなります・・・・。
何の目的で小さく安価な車の企画をお上は作ったのか?考える訳です。そこを考えると少し哀しい・・・・・。
そしてジャパン・アズ・ナンバー・ワンと言った言葉が流行った高度成長時代にもその規格を無くすことをしなかったのは何故か?日本の道路は狭くて軽自動車は丁度良い・・・・???。
本来、軽自動車の規格は日本国の貧しさ故に生まれたものではなかっただろうか?
しかしながら誕生の理由はともかく、生まれてしまって、一つのカテゴリーとして大きくなりすぎた時、それを中止するのはそれなりに無駄なエネルギーも居るし、軽自動車に限った免許証と言うものもあった為、いきなり中止することは出来なくなっていたわけです。

かくして軽自動車の規格は紆余曲折もありながら現在も存続させざるを得ないという所がその実際の所なのであろう。

実際問題、全国の山間部の辺地を走っていると、軽自動車しか通れない様な狭い道も少なくはない。私のCX-30ではタイヤの半分を落としながらやっと通り抜けたという道路もあるのです。

軽自動車と言う規格が無かったとしたらそんな道は存在しなかったはずです。

今になって見れば、そんな軽自動車の規格が存在したことで起きた弊害とも言える事象も残っているという事であり、現在の軽自動車はそれらのもろもろを引き連れて咲く「あだ花」の様な存在に感じてしまう・・・・・。

つまり、出自を問う事もない環境が、少なからず人々を押し流すのが我らの世界の抗えぬ掟と言えるのだろう・・・・。
コメントへの返答
2025年8月23日 16:25
戦後にモータリゼーションを進める中でコストを抑えながら短期間で普及を図る、車両だけでなく道路インフラを大きく更新しなくても使う事ができた軽規格(元々は今よりももっと小さかったですね、)
の役割は大きかったと思います
今でも畑のあぜ道の幅は軽トラの幅と言われてますね。

確かに当初の軽規格の役割は既に終わっているとも言えます、されど道路インフラ等もまだまだ余裕がない場所も少なくなく軽自動車サイズでなければ不自由という場所もまだ多々存在しますし、
それこそ環境や社会情勢の中で生まレ発展した軽規格というのが日本の自動車文化の体現とも思えます、
少なくとも欧州的なクルマ文化の何たらというの真似事よりも独自の文化として語るべきでないのかと。
2025年8月23日 18:22
コメント失礼します。
日本のクルマ好きは「クルマ=楽しいもの」の側面のみ焦点を当てている気がします。「クルマ=生活の道具」と考えると、軽ワゴンやミニバンって独自の進化を遂げて乗り物として進化している、と捉えることもできると思います。
その点では、スズキ・ワゴンRのように制限の中で高さを変えて広さを作ったこととか、トヨタ・プリウス(初代)のように5ナンバーでバッテリーを置いて4人乗れるパッケージとか、制限がある強みもあったと思います。
一方で、そんな日本の購買力とか人口減で「日本市場の重要度が下がる」ことで、日本では使いづらい新車しか入手できない、そもそも新車が買えない(お金とか台数割当てとか)ので「文化になるか?」と言われると、他国の文化に取り込まれるのかな、という気がします。
コメントへの返答
2025年8月23日 21:22
こんばんは。
市場規模と車体サイズ等の縛り、特にエンジン車では海外メーカーが手を出さない独自文化の典型ですが、BEV化でその垣根が少しづつ取り除かれそうです。
BEVで軽のパッケージを逆にマイクロカーとして海外にも売っていく道もあって良いと思います。
2025年8月24日 16:07
こんにちは~・・・・。

軽自動車文化は、日本の税制が生んだ規格が原点に在ります。

ですから、本物の文化なのかを問うには、軽自動車の税金面の軽減と車庫証明を必要としない地域の撤廃をしてみればすぐに解ります。

排気量と外形サイズの縛りは有利な税制を受けるための決まり事で、政府が主導してきたものですよね?車庫証明が無くても自動車を所有できると言う点も軽自動車を売り易くすることに大きく貢献してきたはずですし、今もその恩恵を受け続けている地域は多く存在します。

私が主張するのはそれらの「お上」の決めた優遇制度があって始めて花開いた文化であるという事なのです。

文化ではないとは言いませんよ。しかし本物の文化だと言うなら、それらの優遇措置が無くても、今のサイズや排気量を守り続ける理由と意義が残るのか?良く考えてもらえますか?

狭い道路事情や、保管場所の確保に問題が生じる場合がある。という理由だけで現行のサイズや排気量を守って行くメーカーがどれだけあるのかという点で大いに疑問ですね?と言っているにすぎません。

そもそもそうした狭い道路や保管場所に問題を起こすという現実は軽自動車と言う規格が生んだ弊害であり、ニワトリが先かタマゴが先かを明確に問うものなのです。

軽自動車の幅の規格を小さくしたことで、道の幅が小さくて済むという現象が発生したことを忘れてはいけないと思います。そのことは不幸な現実を招いたと捉えるべきであるという思考順序の問題なのです・・・・・。

以上の事から、1980年頃に軽自動車の規格は無くすべきであったと私は、「べき論」を言っています。その方が現在の日本の道路はもう少し広くなっていたろうと思えるし、多くの日本人はその恩恵を受けられていたはずです。

只、その規格を止める前の10年間程度は猶予期間として、軽自動車の生産で成り立っていた自動車会社の救済も必要であったとは思いますが、それでも一定の役割を果たしたことで、特に優遇措置を存続させる意義はさほど大きいとは思えませんでした。

間違えてはいけない事ですが、ボディーの小さな排気量の少ない車を作ってはならないという法律を施行せよという事ではないのです。税制と車庫証明の件での差別をしなくすると言うだけで良かったのです。

それが行なわれてもなを2025年の今も、軽自動車と言う規格に沿った車が大人気を博して今も存続し得たとお考えなら、私は何も言うことは有りません。

それを称して私は「あだ花」を咲かせた軽自動車・・・と言います。
コメントへの返答
2025年8月24日 22:27
税制と規格が無ければどうなるかは分かりません、
文化をどう定義するかにもよりますが時に政治や経済的事情の制約が元で発展する文化というのも存在すると考えます、本物とは何か、
規格が無ければ本当に道路や駐車スペースは広くなったか、
軽ではないが世界的には特異な形態のAセグメントが普及していたか。
2025年8月24日 23:40
こんばんは~・・・・。

何度も書き込みして済みません・・・・。

私は文化であるか否かを論じていませんから、この問題は日本の軽自動車の中のAセグ車は日本の車における一つの文化である。という事で良いかと思います。私はその出自の点でやや疑問を感じていて、そういう事を書いてきました。

同様に思うのはEVは文化と言えますか?文化と言うには歴史が少なすぎるとお考えですか?

一方、内燃機自動車は文化と言って良いものだと私は思っています。
特に言えることは誕生から排気ガス規制が始まるまでは自由開発とユーザーの指向の結果として発達したと思えるので、これは文化その物と言っても良い気がします。

そこで一つ疑問が生じるのは、企業が利益を追求することで進化して行くことも文化と言ってしまって良いものか?つまり、自由主義経済の生き残りをかけた戦いの結果による技術の進歩は文化なのか?文明ではあっても文化と言うべきではないのではないか?それはイデオロギーの一つの形態として捉えるべき自然淘汰に過ぎないのかと言う問題ですが、如何お考えになりますか?

EVは規制が端緒となって仕方なく生まれて来たという側面があって、歴史も浅い事から文化とは言いにくい感じがします。それらは何時ごろ文化と呼べるようになるのでしょうか?それでも広い意味では文化と言っても良いでしょうかね?

私の感覚では、EUの早とちりか?電力をまとめて発電してそれを細かく分けて車に使うという二酸化炭素の問題を隠すだけの欺瞞が規制という形になってしまった感もあるので、文化とはかけ離れている様に感じてしまいます。その点は如何お考えでしょうか?

発電で二酸化炭素を増やしさえしなければ文化と言っても良いのか?という点も如何考えるか?もし面倒でなければお聞かせください。
コメントへの返答
2025年8月25日 1:08
EVは文化であるか、
そもそも文化とは何を指しているのか、
ある種の集団や構成グループ内で普及している生活様式や価値観や精神活動という定義であればEVもそれを中心とした様式は文化と呼ぶべきなのか、この場合その集団規模と普及度合いがどの程度なら文化とよべるのか、
逆に、ガソリンスタンドで給油するのは文化なのか、

文化と問われてその様式の内容をある程度は形に定義出来るかどうかが文化と呼ぶ境界線かもしれませんね、
その意味ではEVはまだ時間的にも内容的にも境界線にあるのかと。
企業が利益のためであれ広く普及していく中で様式を定義出来るならそれは文化と呼んでも良いのではないでしょうか。
Co2エミッションの有無それ自体だけをEV文化の定義と捉えるのはさすがに範囲が狭すぎるでしょう。

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