レースをやろう! 決心したのは何年の何月だったか。記憶が曖昧ではっきりしない。GSでアルバイトを始めてそれほど経たない20歳の頃。1972年だったと思います。しばらくはKB110で通ったのかな。
やる、と決めたはいいけれど、何をどうしたらいいいか分らない。まず貯金だと、100万円を目標に定めた。薄給だったけど、何とか貯まったのが約3年後の1975年。23歳になっていて、少し焦りました。あの時の暮らしぶりは漫画だったな。
寝食は実家で面倒をみてもらって、衣類は年間を通してワンパターン。当時ブルージーンズをブリーチアウトするのが流行ってました。ジージャンとベルボトムのジーンズを(淡青に)漂白した上下を基本に、夏はTシャツとジーンズ、冬はジージャンの下にセーターを重ね着する。お洒落にはまったく目が向かなかったなあ。普段はGSのユニフォームで通しちゃったし。
3年目に入っていたKB110に乗る頻度も意識的に控えるようにした。相当気に入っていたはずなんですが、1973年には買い換えを決めるんですね。何だと思います。シビックGL(SB1)です。
当時としては画期的といっていいFF2ボックスの3ドアハッチバックで、ミッションは☆レンジのホンダマチック。ボルグワーナーをはじめとする当時のATのライセンスを避けた遊星ギアによる無断変速AT。動力伝達効率が???ものの、いかにもホンダらしいユニークメカです。
誰がFRの伝道師やねん……突っ込みが入っても仕方ないFF/ATパッケージですが、青臭い進取の気性と変化に過敏に反応するガキんちょそのものの僕は、けっこう大真面目に「これからはこれですよぉ」スタンドのIオヤジに吹聴したものである。オヤジさんは230セドリックHTの2ℓ4MTに乗り「オートマは物足りない」を口癖にしていた。
今から考えると、SB1シビックは相当なやっつけ仕事だった。後に川本信彦元社長とよもやま話をした際にさまざまな裏話を伺って、納得したこと多しだった。
エンジン逆転のトリビアとかね。ホンダの4気筒エンジンは、S2000のK型以前は他の一般的な右回転とは反対の逆転エンジンでした。もともと2輪が起源という歴史が影響しているのですが、最初のメガヒットN360は2輪そのままの逆転搭載となった。
空冷から水冷に移行する際、つまりN360からホンダライフへのモデルチェンジのタイミングが正転に変えるチャンスだったということですが、コストを考えて治具をそのまま流用できる逆転のままが選択された。
その"伝統" がシビックの1.2L直4にも踏襲され、互換性のない(エンジン単体をビジネス化できない)状態が続いた。1999年のS2000に搭載することを念頭に正転化が断行されたK型が登場するまで、である。「いや、水冷化の時に思い切って変えちゃえばよかったんだけどな。株主に叱られたら、率直に謝るよ」カワさんのべらんめぇ口調が懐かしい。
もうひとつ。昨年SB1シビックの開発責任者を務めた故木澤博司さんのお別れの会に出席したときに、大先輩の三本和彦さんから聞いた話。
『SB1はドライブシャフトの長さが左右で違っていて、右回りと左回りで回転半径が違うんだよな』
えっ?と思った。どうやら本当らしいのだが、あの頃の僕がそのことを意識することは一度もなかった。何年も付き合ったのに。プロとアマの違いとはこういうことなのだろう。
シビックGLもまた家族で一台の存在。このクルマには77年頃まで乗っていたはずだが、その後は2歳下の弟に譲り、最後は彼の自爆事故によって廃車になったと記憶する。
僕のデビューレースは、富士フレッシュマンシリーズの最終戦。1975年のたしか10月でした。マシンの製作はスタンドのガレージを借りたり、チーフメカを任せた元生徒会長のYKの修理工場で行なった。
エンジンだけは実家から近い東名自動車にお願いしてね。あとは日産純正スポーツキットを中心にYKを中心に自分らで仕立てたわけです。マシンのベースは最初の所有車とはまったく別。37万円で購入した中古車でした。
話を1973年に戻します。レースをやると決めた僕が貯金の次に始めたのはFISCO(富士スピードウェイ)通いです。やる前にレースをちゃんと見ておかなくては。そう考えました。
レース観戦はお金がかかります。そこで節約のために当時流行りの50㏄バイク、ダックスホンダを購入し、日常の足とすることに決めました。これでFISCO通いを始めたわけです。
国道246号をトコトコと走り、片道約3時間ほどでFISCOに辿り着くわけですが、山北あたりからの登り区間はけっこう急で、給油ポイントとなるいつものGSでオーバーヒート気味になっちゃう。さらに登りの道のりを行くと、ゲートに到着した時にはプスンとしばらく動かなくなった。
入場料2000円、ガソリン代が約500円、これに昼飯に焼きそばでも食ってちょうど3000円。一人で行くんだからこれで十分。恥じるところは何もなかったなあ。
少し方向性が見えてきた73年の秋。時代は一変します。エジプトとシリアの連合軍が、シナイ半島とゴラン高原に侵攻し、イスラエルから旧領土を奪還する奇襲作戦を敢行。第4次中東戦争の開戦でした。その影響で石油の供給が遮断され、流通が滞り、価格が暴騰した。いわゆる第一次石油危機の勃発です。
実際には、中東からのタンカーは予定通りに航行していて、輸入量はまったく減少していなかったということですが、今ほど情報網が発達しておらず、国際感覚という点でも未熟だった日本社会はパニックに近い混乱を来します。石油元売りの便乗値上げもありました。どういうわけかトイレットペーパーが不足するというデマが生れ、スーパーをはじめとする店頭からロールが消えてなくなりました。
普通に買っていれば十分間に合ったのに、パニックになった主婦が一斉に買い占めに走ったために供給が追いつかなくなった。それだけの話なのに、誤解が誤解を生む、とても嫌な雰囲気に包まれた。いまでは懐かしさを覚える記憶です。ガソリンスタンドではそれまでに経験したことのない行列販売に直面しました。お客が来ても、売るガソリンがない……なんてねぇ。
ただでさえ、18歳で免許を取った際にも、公害や交通戦争といった負のイメージを持たざるを得なかったところに石油危機。さらに、お先真っ暗感を増幅させる事件が起きた。11月の富士GC最終戦でスタート直後のバンク内で多重クラッシュが発生。24歳の中野雅晴選手が焼死、他の3選手が重傷を負う
大アクシデントだった。
僕はこの時はFISCOには足を運んでいなかったが、TVの生中継で映し出された光景を呆然と眺めていたことを思い出す。重苦しい時代の幕開けだった。
つづく
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2009/07/15 09:55:44