1977.6.5 富士スピードウェイ
左から早乙女実 長坂尚樹 伏木悦郎
この写真は、故小野田耕児(82年没)撮影。
ピンボケご容赦。
とにかく100万円貯めてから……。スタートラインに達したのは3年余りが過ぎた1975年の初め頃だったか。歳も気になって、多少焦りを感じていたように思う。
まずは、マシンの素材となるKB110サニーの物色から始まった。実家所有のサニーGXは、シビック購入の下取りに出してしまっていたからね。なんとか川崎市内中を探し回ってやっと見つけた。37万円のGLだったかなあ。欲しいのはドンガラとエンジン/ミッション・デフケースぐらいのものだけど、なるべく長く使えるようにと奮発した。
ボディワークなどの基本的な作業は高校同期のYの修理工場で行い、形が出来上がってからのエンジン搭載や艤装関係は中野島のGSのガレージを使わせてもらった。油圧リフトが完備された立派な作業場だった。スタンドの営業時間後にトンテンカントンテンカン。鄙びた川崎の外れの街ではけっこう目立つ存在になっていた。
チームの構成は、僕を含めて本当にチンピラ軍団みたいな軽る~い顔ぶれだった。高校で生徒会長を自ら立候補して務めたYはけっこう強面だったが、それにしても23歳の3級整備士である。レースカー製作の経験はゼロでした。
まあ、エンジンだけは当時トップコンテンダーを数多く輩出していた東名自動車にお願いしたわけです。それ以外のパワートレインや足回り関係は日産純正スポーツ部品、シートは何だったかなあ。ステアリングは、SB1シビックにも付けて気に入っていたMOMOの3本スポークを選んだ。
僕は一時期ステアリングの革巻きにこだわり、自ら所有したアルテッツァやS2000ではわざわざスペシャルメイドの一品モノを作ってもらってその意味を問うていた。その原点は、遠くSB1シビックに始まり、TSサニーで常に実感していた原体験による。
ステアリングホイールを替えただけで、クルマのタッチが変わる。鞣(なめし)の効いた革を丁寧に巻き、慣性モーメントやアンバランストルクが極小となるMOMOを付けただけで、クルマの雰囲気がガラリと変わる。
1980年代後半にインターフェイスという言葉を使い、人とクルマの接点の重要性に意識を集中させるようになったのは僕が初めてだが、それは大した知識もなく試してみたらなるほどいい……そんな無知な20代前半の頃に身についた感覚が基礎になっていた。
これは暴論と捉えられても仕方がないと思っているが、実用上まったく関係のないハイスピード領域の走りのパフォーマンスを得るために、たとえば10万円余計にサスペンションをはじめとするシャシー周りに投資するなら、その10分の1のコストで済むステアリングの革巻きにこだわった方がユーザーメリットは大きい。
素人っぽい発言と捉えられやすいが、使用不可能な過剰性能を得ることを目的としたメカニズムに馬鹿馬鹿しいコストを掛けるくらいなら、誰もが間違いなく実感できる触感レベルのクォリティを追求したほうが遥かに健全だし、エコだろう。誤解を恐れずに言えば、僕は高速性能=高性能という価値観から一歩も出ていない、クルマとクルマの比較論でしか評価しない20世紀型のクルマのあり方には未来がない、と思っている。
人間の欲望に根ざした人間中心主義には積極的に反対したほうがいい。それはどうやってもエネルギー多消費に向かうからね。いま一度自分たちの身体感覚や能力を見つめ直し、からだとクルマの関係からベストバランスを探すのは面白いことでは?少なくとも、オープンロードについてはそっちの方向にしか有効な答えはありません。
僕はもともとがサーキット上がりでもあるので、モータースポーツには心の底からシンパシーを感じている。オープンロードでの制約を解き放つ場がクローズドサーキットのルールに則ったコンペティションだと思う。80年代に盛り上がり、今も一向に衰えることのないサーキットとアウトバーンの論理の見境のない路上進出は、基本的に誰も幸せにしない。
何だっけ? おおっ、我がヘッポコチームの面々の話だった。YとYの弟、GSの先輩のショージさん、長尾タイヤのサトルさんに石屋職人のツーチャン、僕の弟に後に苦楽を共にすることになるMちゃん。牧歌的だった当時の富士フレッシュマンシリーズエントラントの中でもこれほどのシロート軍団も珍しい。
しかし、もう本当にお金がなくてね。マシン完成は秋口になってしまった。慣らしを兼ねて、一度くらい日産レーシングスクールに出ておこうよ。初めてのサーキットの公式行事(?)は、雨の筑波のスクールだった。タイヤはサトルさんの口利きでダンロップから何割引かで手に入れた。
けれどホイールがない。雨ということで中古で手に入れたアルミホイール(ス〇ードスター・ディッシュ)にダンロップレインを組んで、いざ出陣!と意気込んで出ていったはいいけど、その周の最終コーナーでエア漏れであえなくストップ。道に迷いながら延々行った苦労は数分で水の泡になっちゃった。
走行後の講評で、日産レーシングスクールの辻本(征一郎)校長から『最終コーナーで止まった人……あれはパンク?』図星で当てられて赤面した。辻本さんと後年立場を替えてお会いすることが多かった。1985年は僕にとっていろんなことがありすぎたターニングポイントの年だが、思い起こしてみるとそういえば校長とレースに出たな……。
1985年10月13日、鈴鹿300㎞レース・クラス2優勝。おおっ、そうだった。仕事場のデスクの背後にある書棚の上をあらためると、僕のささやかなレース戦歴の中で唯一優勝の文字が刻まれたトロフィーがあった。
そうだった。この年はじまったグループAマシンによる全日本選手権を盛り上げるプロモーション活動の一環として、日産は辻本校長にS12シルビアを委ね、毎戦ごとに異なる雑誌媒体と組んで参戦するプログラムを組んでいた。僕はD誌での出場だったはずである。
まあ、始まったばかりのレースシリーズで、2Lのクラス2は有力なコンペティターを欠いた。我らのシルビア以外ではVWシロッコとR30スカイラインぐらい。そう言えばR30のドライバーには、後に因縁浅からぬ仲になるK君(またKだ)が名を連ねていた。
雨の日産スクールでインパクトがあったのは同乗走行。高橋国光さんのとなりで初めて『あれ』を目の当たりにした感激は、その少し後の富士グラチャンにエキシビジョンでやってきたF1デモラン・JPSロータス72のロニー・ピーターソン(ペテルソン)の『あれ』に匹敵する驚天動地の初体験だった。
コーナーアプローチでブレーキングをスパンと決めたと思った次の瞬間、マシンは平衡感覚を一瞬失わせる浮遊状態に陥った。素早く軽く的確にステアリングをクルクル回し、スロットルを開けながらバランスを取り、直進状態になった瞬間にパッと手をステアリングから離した。今では何と言うことはないドリフトだが、初物は衝撃そのものだった。
富士のヘアピンをタイヤマークを黒々と残しながらカニ(蟹)走りを見せたロニーへの憧れは、今も30年以上変わらぬヘルメットのカラーデザインに留められている。
デビュー戦は、75年富士フレッシュマンシリーズの最終戦。予選はトップ10には入っていたはずだ。しかし、決勝は数周でリタイヤ。バッテリーが台座から外れて、電気が途絶えたのが原因という"とほほ"な内容だった。
明けて76年。緒戦はいきなり3位表彰台ゲット。実質的なデビュー戦は幸先よく始まった。さあこれから、本人も相当その気になっていたはずだが、ここですっと勝ちの波に乗れないところが僕の星か。寒い夜空の下、暖房もないGSのガレージでマシンのメンテ作業に明け暮れる内に、持病の痔を悪化させ、入院手術。次戦を自らも走る意欲を見せマシン作りの資金の一部を提供していたチーフメカのYに委ね、さらにもう1戦パスせざるを得ない事態に陥った。Yは4位だったのかな。
こうやって昔を振り返るといろんなことを思い出すね。しかし、この年のその後の記憶は薄い。たしか、富士フレッシュマンシリーズTSクラスでは早くからトップコンテンダー扱いとなり、この年はほとんど表彰台。1位はなかったけれど4位以下もなかったと思う。
おおっとそうだ。競技ライセンス取得の経緯も記憶に残る出来事だ。B級から積み重ねて……という余裕は経済的にも精神的にもなかった。折しも74年頃に元トヨタワークスの北原豪彦さんが、イギリスのジムラッセルというレーシングスクールの日本校を開設するという。それを受講し卒業するとA級ライセンスが取得できるという耳寄りな話に、僕は乗った。
肩に道具一式を詰め込んだズタ袋を下げて行ったなあ、岡山の山陽スポーツランド。スクールカーは後のFJ1600のひな型になるスバルフラット4搭載のベルコ98B(だったかな)。受講生はすくなかったけれど、一緒に走った何人かと自分を比べて『やれる!』と確信したのは本当だ。
このスクールの同窓としては、いまやBMW系のディーラーとしてたくさんの店舗を展開するニコ・ローレケがいる。レースへの選手登録はニコ・ニコル。ローレケが日本人には馴染まないと判断して、母方の姓を名乗った。ニコは、ドライバーとしてもF2まで登り詰めたが、ビジネスシーンでもっとも成功した外国人ドライバーのひとり。比べてもしかたがないが、彼我の才能の差は歴然だ。
75年10月から78年9月までの足掛け4年で全25戦。経済力のないプライベートドライバーとしてはそれが精一杯だった。76年にある程度の手応えを掴んだところで、迎えた77年。この年からフレッシュマンシリーズから徐々に名物レースGCマイナーツーリングに移行しようと考えていた。
そう多くはない僕の戦績で唯一ちょっと誇らしげな気分になれるのが、77年6月5日のJAF富士グランプリのTS1300クラス決勝。いや、スタートの瞬間にあるマシンがクラッチをバーストさせ、FRPのボンネットを突き破ったフライホイールが無数の破片をまき散らした結果、大番狂わせが生れたという話である。
破片を踏んだ上位陣が脱落して行くのは確認できていた。しかし、チェッカーフラッグを受けた瞬間もまさかそんなことは夢想だにしない。クーリングラップを終え、ピットレーンをゆっくりもどりパドックへの右にステアリングを切ろうとしたところで、オフィシャルが直進せよという。『エッ?』3位入賞を知ったのは、表彰台下のパルクフェルメにクルマを止め、チームの面々や関係者に囲まれた時だった。
これほど低予算のチームでこれだけの成績を残した例は本当にまれだと思う。実力はたいしたことないし、スピードも明らかに劣ったけれど
3位表彰台の事実に変わりはない。賞金10万円也。ささやかなリザルトではあるけれど、ここまで生きてきた僕のプライドの一部であり、とっておきの宝物になっている。この時はまだまだ見果てぬ夢の途中ではあったけれど。
つづく
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2009/07/17 23:58:00