
銭の稼げる人。風貌容貌に始まり、声や仕草や立ち居振る舞いに型がある。個性というのは元来肉体というか身体などの具体的な存在にあって、個性的な姿というのはあるけれど抽象度の高い思考そのものに個性が認められるかどうか疑わしい。自分の身体を他人と置き換えることはできないが、考えなんかその気になって語ればオリジナルを装うことは簡単だ。
僕も結構やってしまう受け売りは、個性の本質を語る上で重要だろう。オリジナルの発案者が語るより、受け売りの人の信憑性が高く感じられることがある。決めては、外見や醸しだされる雰囲気、巧みな演出による発声や所作などの個性だ。
外見は才能だ。非常にアンフェアな物の見方に思われてしまうかも知れないが、持って生まれた具体的な身体は変えようがないという点も含めて才能であり、その上に努力が加わった存在に対しては率直かつ素直に憧れを持っちゃった方が楽だ。妬いたってしかたがない。マイナスパワーで互いに凹むよりも、元気を頂いちゃったほうがいい。好みがあるので無理は禁物だが、嫌じゃなかったら積極に。
僕は年寄りは才能の一つだと思っている。多くの人が誰もが年老いて老人になれると信じているが、その前に黄泉の国に旅立つことは珍しくない。事件事故病気。一寸先は闇であり、現実問題として今そこにいる年長者はただ生き延びたという事実だけで尊敬に値する。好みは別として認めることは必要だろう。
そんなわけで、年長者との距離感の取り方は心得ているつもりだ。そもそも煙たい存在とは思ってはおらず、まだ若輩が見たことのない世界を知っている可能性が高いということだけで傾聴すべきものがある。
礼を逸することなく、きちんと向き合えばそこは人間である。好意的に接しようとする人に邪険に対応する人はどっちに転んでも訳ありだ。質問が的確で、こちらの知っていることだったら、まあ話すだろう。若い内からそうだったわけではなくて、昔は未知なる者に対する恐怖もあって積極的にアプローチすることはなかった。
水は高きから低きに流れるが、先人が頼まれもしないことに進んで答える必要はない。尋ねられたら答えてあげる。年齢を重ねると代替わりの意識が徐々に芽生え、伝承という考え方が生れてくるからなのかもしれない。僕はまだ山っ気があるので全面的とはならないが、近しい同業の若手であれば話すことに抵抗はまったくない。言うだけ言わせてもらって後は本人が決めること。それでいいと思う。
今夜は自動車評論家(Car Critic)の草分け的存在で、所属する日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)の創設メンバーの一人でもある大先輩三本和彦さんにあれこれ話を聞く『講話会』というシリーズイベントに参加した。三本さんとは1980年代中頃から海外プレスツアーなどで同行の機会を得、折に触れてお話しを伺ったことがある。
三本さんは昭和5年(1930年)生れの御歳82歳。亡父の6歳下だが、まあ親子ほどの世代差だ。元々カメラマン志望であり、東京新聞への入社からフリーランスへの道のり、TVのワイドショーの司会から自動車評論家への展開と長寿を極めた自動車番組『新車情報』を始めた経緯などから、国際ラリーへの出場、日本モータースポーツへのカメラマンと評論家二足の草鞋での関わりと、その広がりは果てしない。
容姿といい声といい様になるニ枚目。それを写真の技術をパーソナリティの火種というか核にして存在感を高めて行った。もちろんその裏には様々な努力があったはずで、正しい誤っているという単純な議論ではなく、自分はこう思うという説を曲げることなく相手と向き合う。敵も増えるし、煙たがられたり誤解も半端ではなかったと思うが、82歳にして『こう思う‥‥』という乗り心地に対する意見を臆することなく語る。多くの横道話の面白さが人の心を離さないから、多少耳の痛い話でも素直に通る。
若者よ先人に訊け。いい大人は必ず自分の言葉を持っている。それが自分にとって合うかどうかは自分の勘とセンスで嗅ぎ取る他はない。少し前の某大部活ジムカーナで新入生を前に『いい大人に巡り合い、薫陶を得られるような接し方を意識しておくように』、と伝えた。
しかし、82歳でまだVWゴルフに乗って、自分の言葉を感じさせる視点で乗り心地論を展開する。かくありたい。しゃべりの達者さは老いてますます盛ん。もっと話を聞きたいと思わせる大人が少なくなった今、得がたい才能とキャラクターは今もなお輝きを失わない。やっぱ、人が面白いなあ。面白い人が乗るクルマが面白い。駄洒落ではありません。
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2012/10/04 08:56:32