
しかし、幾つになっても知らない場所は出てくるもんである。都心の日比谷公園といえば、何度も側を通っているあまりにもポピュラーなスポット。園内を素通りして、霞が関の官庁街に足を運んだことも一度ならずあった。
でも、知らなかったなあ南部亭。こじんまりしたフレンチレストランですね。そういえば、たしか秋だったか『百円(ぢゃなくて十円でした)カレー』という名物がある松本楼も、名前を聞いているだけで訪れたことがない。
まあ、今日は昼飯をご馳走する代わりに、近い将来の計画を話してやるから、それについての何がしかの意見を述べよ、ということでした。未来のトップマネージメント候補は、真面目で優秀なエンジニアではあるけれど、自信家としての有り様に洗練を欠く。純粋で朴訥である種ロマンチストというのはリーダーとして必要な資質とは思うけれど、理よりも人を惹きつける色気のほうがそれに優るでしょう?
今日は話を聞くだけにして意見を吐くのは慎もうと思っていました。ついつい言わなくてもいい話をし過ぎて、思いとはまったく逆に恨まれる。毎度の愚行はいい加減卒業しようと思っていたわけです。でも、あまりに時代認識が大企業のマネージメントらしからぬ田舎紳士ぶりだったので、自制を欠いてしまいました。
近い将来、国産メーカーのいくつかは消滅せざるを得ない。今回の金融危機に伴うクルマ販売の低迷は、一過性のものではなく、時代の大転換の結果としてあるものだ。そう見る方が合理的で妥当だと私は思っています。前世紀末から米国(の悪徳といえる金融機関の運営者)を中心にバブル経済が仕組まれ、世界中がそれに乗ることで束の間の繁栄がもたらされた。
サブプライムローンとその証券化によって利益の拡大とリスクや責任の分散を図る。頭のいい悪党はさっさと売り抜け、強欲に我を失った者が破綻の責めを負うことになった。禁断のローンで手にした家を担保にオートローンが組まれ、どうせならと身の程知らずのプレミアムカーに殺到した。
SUVは、米国政府(というかブッシュ前共和党政権)が、ビッグスリーにインセンティブを与える形で創り出された税制上の枠組み。ライトデューティトラックのカテゴリーに入るそれは、ちょうど日本の軽自動車のような恩典によって市場が形成されている。
トラックは、日本では働くクルマとしてネガティブなイメージで捉えられるけれど、基本的に巨大農業国家でもある米国ではタフで使える存在としてポジティブに受け止められている。
同じくライトトラック系にカテゴライズされるミニバンとともに、ピックアップトラック、SUVが市場の相当数を占め(パーセンテージは確認できていませんが、全米販売実績のベスト10のトップを含む上位にピックアップトラックが入っていることは少し前に紹介しました)、そのプレミアム化が推進された。
SUVに乗用車ベースのクロスオーバープレミアムの発想を持ち込んだのはレクサスRX(ハリヤー)ですが、日米欧の主だったメーカーはそこに殺到。それに引きずられるようにセダン系の大型化、高級化、高性能化が進み、やがてそれがすべてのカテゴリーの底上げという形で現在に至った。
1997年のCOP3で採択された京都議定書とは真逆の方向で事態は進展しました。議定書から離脱した国で仕組まれたムーブメントが、世界中の強欲を引き寄せ、元も子もない状況を産み出して見せた。
しかし、バブルは所詮バブル。弾けた結果、過去最高益を更新し続けた需要は蒸発し、トップメーカーは半年で史上初の巨大赤字に陥る惨状に陥った。
その緊張感は、今まで通りでは絶対に立ち行かない。そう考えざるを得ない決定的な変化が前提にあって漂ってくるものだという気がしている。
暗いことばかり考えていても仕方がないので、FRだとかマニュアル・トランスミッション再生などといった、『いいじゃないの、幸せならば、楽しいならば……』で行こう……みたいな話をすると、四方八方から「何を今さら!」と罵倒され蔑まされるばかりなのは何故? どうして本質に立ち返って考えようとしないのだろう。
皆自ら変わることがそんなに嫌?怖い? オバマが言っているchangeって、今までどおりでは駄目ということだと思うんですけど。まあ、話が飛躍しすぎですかね。
Posted at 2009/05/14 22:20:41 | |
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