1978年3月。それまでの暗いムードを吹き飛ばすクルマが登場しました。マツダの
サバンナRX-7。SA22Cという型式名で呼ばれることが多い、マツダロータリースポーツの本流に位置するクルマです。ルーツは元祖REスポーツカーのコスモスポーツで、FC3C、FD3S、SE3P(RX-8)へと継承されているマツダスポーツDNAの原点ともいえる存在ですね。
1973年10月の第4次中東戦争に端を発した第1次石油危機からの約4年間は、折からの排ガス規制の強化と重なって日本車が初めて経験する停滞期だった。昭和48年規制にはじまり、50年、51年と強化された排ガス規制は、クルマの性能を落してでも排ガスをクリーンにするという強制的なものでした。
48年規制では、進角を司るディストリビュターを遅角調整(3度)して封印し、HCとNOXの排出量を低減する措置が取られました。対象は昭和43年以降登録の48年非対策車。結果として、①出力減により加速性能が悪くなる、②燃費性能が悪くなる、③オーバーヒートしやすくなる、④ランオン(イグニッションを切ってもなかなかエンジンが停止しない)しやすくなるなど、クルマらしさは大幅に低下しました。
封印はデスビ(ディストリビューター)のベークライト製カバーにシールテープを貼るという簡単なもの。 あまりの性能低下にガソリンスタンドではお客の要求に応えたこともあったような……。封印テープをきれいに剥がして進角を正常化し、また元に戻す。実際にやったかどうか記憶違いかもしれないけれど、そういう時代です。
この頃までは、燃料供給装置はキャブレターが一般的。スポーツモデルではウェーバーやソレックス、デロルトなどといったサイドドラフト(REはダウンドラフト)タイプが隆盛を誇っていました。僕のTSサニーのキャブもウェーバー45DCOEでした。
ところが、和製マスキー法といわれた昭和53年排出ガス規制に向けた前段階の50年、51年規制にはキャブでは適合できない。レシプロではホンダのCVCCが早い段階でセーフとなりましたが、トヨタや日産はおもに上級車向けにそれぞれEFI、EGIという名の電子制御燃料噴射装置採用に踏み切っています。この頃のトヨタは比較的廉価な量販モデルではホンダのCVCC技術を買っていたりもしている。
この時期のクルマは、本当に走らなかった。それでも新車の販売がゼロにならなかったのが不思議に思えるほど。そんな時代背景もあったと思うのですが、ここで時代を動かす漫画が登場します。後のスーパーカーブームの火付け役となった
『サーキットの狼』です。
サーキットの狼については、多くの説明は必要ないと思います。風吹裕矢とロータス・ヨーロッパの組合せに始まる伝説のクルマ漫画。後年、僕は作者の池沢さとしさんとは取材でお会いしている。
78年か79年頃、氏の所有する512BB(ウェーバーのリプルチョーク)を箱根まで試乗してリポートを書きました。D誌に輸入車の連載を持っていたのかな。たしか現地まで一緒に出掛けたはずだ。豪邸にお邪魔したことは記憶に残っている。
そんなこんなの時代。SA22Cの登場はまさにタイムリーだったわけです。スーパーカーブームの影響で、国産初のリトラクタブルヘッドライトを備えたセブンは熱烈な歓迎を受けた。試乗中に小学生の群れに遭遇すると、(ヘッドライトを)「上げて、上げて」と必ずせがまれたものだ。
今でこそ現在のマツダスポーツカーの原点として位置づけられるSA22Cだが、当時はまだスポーツカーという呼称が時代背景としても好ましくないということから、スペシャルティスポーツという奥歯にモノが挟まったような控え目な表現に留められている。
国産車が総崩れ状態にあった中で、その存在はひと際インパクトに富んだものでしたが、実際の走りのパフォーマンスはそんなに大したことはない。12A型REは、130ps/7000rpm、16.5kgm/4000rpm。この当時の性能表示は現在のネット値より15%ほど大きな数値となるグロス値。今で言う110ps程度のものでしかない。
ただ、軽量コンパクトなREを活かしたサバンナRX-7は、車重が985~1015㎏と非常に軽かった。そのセットアップは、SA22Cの約10年後に登場し、世界的なヒットとなったNA(ユーノス)ロードスターに重なる。歴史は繰り返すとしたら、今同じようなコンセプトの軽く手頃なパワーのスポーツカーが登場しても不思議はないでしょう?
筑波サーキットのラップタイムが物を言った時代がありました。僕は、ある段階でその無意味さに気づき、積極的にタイムを追い求めることを止めました。あるタイミングとは、バブルが崩壊した頃。日本社会が発展途上段階から成熟段階を迎え、豊かさの底上げから豊かさの実感に移るべきところに来たと思えた頃です。
僕は、まだ市販車のサーキットテストが一般的でない1977年頃からツクバのタイムアタックを担当していました。80年代の中頃までのレコードはほとんど僕のものだったし、怪我をした後の90年前後にもしばしばトップタイムを残しています。テストには必ずレース用コスチュームで臨むことをルール化したのも、業界では僕が最初だと思います。
しかし、このパフォーマンス至上主義を放置しておくと、やがてタイトになる省資源、環境保全の時代に上手く対応することが難しくなる。スピードの魅力については誰よりも知っているつもりでした。
あまりにも魅力的だからこそ、それに代る価値観を身につけないと新しい時代への対応を妨げる存在になりかねない。今まさにその時を迎えていて、相も変わらぬの人が支離滅裂なことを言っている。一見正統を装っているだけに注意が必要です。パフォーマンス至上主義とサステイナビリティは激しく衝突して融合することはありません。
エントロピーの視点に立てば、今クルマ好きと言われている多くの人々がクルマの敵になってしまう可能性が高い。エネルギー消費を最小にしながらfun to driveを確立しないと、中国、インドを初めとする巨大人口を抱える国々の爆発的な自動車普及の時代に対応することはできない。
現在彼らが追い求めているのは、エネルギー多消費型のアメリカンモデルです。従来の路線がそのまま使えるということで、旧態依然の欧米メーカーは進出を競い合っている(日本もですが)。今年中に中国が世界一の自動車消費国となることは決定的です。当然石油の消費量は飛躍的に増えます。そう遠くない将来再び石油価格は高騰するでしょう。
石油のピークアウトと地球温暖化の両面から考えれば、HVもEVもFCEVもやらざるを得ないし、やらなければ未来はないともいえるのです。オバマ大統領は、本気でグリーンニューディール政策を考えている。5年後のアメリカは今とまったく違う国になっている可能性が高い。
78年3月に登場したSA22Cのツクバ初テストは、たしかD誌でやはりこの年に初登場して時代の先駆けとなった
アドバンHFのテストを兼ねたものだったと思います。バックナンバーを当たらないと正確なところは分かりません。
このヨコハマ・アドバンを追いかけるようにブリヂストンがポテンザRE47(79年)を送り出し、ハイパフォーマンスタイヤの時代が幕を開けました。1978年は、現在に至る日本車のハイパフォーマンス元年と位置づけられる。
もっとも、タイヤに関しては当時はまだ70偏平が上限。本格的なハイパフォーマンス時代は、1983年9月に当時の運輸省が60偏平のいわゆる60タイヤを認可するまでもう少し時間が必要でした。
この辺の話はまたその年の項で触れますが、クルマの走りパフォーマンスは、エンジン(パワーアウトプット)とタイヤ(グリップ力)のバランスで決まります。どっちが過剰でも意味はありません。70年代前半のクルマのほとんどはバイアスタイヤであり、それに対応したシャシーは非常にトレッドの狭い貧弱なものだった。
日本のみならず、世界中の国のクルマがハイパフォーマンス化を果たした背景には、エンジニアリングに対応したタイヤメーカーの技術力アップが不可欠だった。あたりまえですが、重要な視点です。
SA22Cのあの時のタイムは今でもはっきり覚えています。1分19秒37。今なら軽自動車でも可能なタイムですが、当時市販車の1分20秒超えは壁でした。SA22Cのひと月前にこれ伝説的なクルマとして挙げられるKP61スターレットがデビューしていますが、このクルマが1分20~21秒台で走ったのは衝撃的な事件として捉えられました。
今では欠伸(あくび)を催すほどのタイムですが、性能というものはいつでも相対的なものです。他が遅ければ際立つ。300㎞/hは100㎞/hの3倍速ですが、少なくとも法規上はその3分の2は過剰性能ということになる。今はもう使えない性能を有り難がっている場合ではないんです。
エコ視点が最優先されるこれからの時代でどうすべきか。いままでの行き掛かりを忘れて考える時が来ている。かつて遅くても楽しかったあの感覚は、大いに参考になるのではないでしょうか。
少なくとも、SA22Cが物凄く刺激的で走り実感が得られたのは間違いない。それは、NAロードスターにも共通するところです。コンパクトFRなら、コンベンショナルなICE(内燃機関)カーでもポジションを得ることができる。80年代前半に僕が見出した結論に至る道筋は1978年に始まっていたようです。
つづく