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伏木悦郎のブログ一覧

2009年07月22日 イイね!

『初渡航で5000km』 ドライビングスキルは外国語力に匹敵するのだの巻 1980

初渡航はヨーロッパ。海外旅行が初めてなら、飛行機に乗るのも初めてだった。いやなんのことはない、新婚旅行である。ただ、いくつかの点で普通じゃなかった。旅程で予め決まっていたのは往復の飛行機と一泊目の宿だけ。

せっかく行くのだから……英国のシルバーストーンで行なわれるヨーロッパF2選手権(ホンダがF2にカムバック。RA260-E V6搭載のラルトRH6、ドライバーはN.マンセル)とルマン24時間を取材して、多少なりとも旅費の足しにと考えた。

初めて乗るジェット旅客機。機材はたしかボーイング707、エアラインはエールフランスだった。テイクオフのBGMがビリー・ジョエルの"Honesty"だったことは、はっきりと覚えている。飛行機にはまるで不慣れだったので、最後列シートに押し込められても『まあ、そういうもんだろう』何の疑問も抱かなかった。

当時は、もう成田が開港していたけれど、飛行ルートは懐かしのアンカレッジ経由北回り。計16時間ほどは要したのではなかったか。その3年後、とあるロケで出掛けた南回り"各駅停車"は、マニラ・バンコック・カラチ・ドバイ・イスタンブール・アムステルダムと乗り継ぎ、旅程は優に30時間を超えたはずである。停まる度に機内の匂いが変わった。

パリの一泊目は、ポルトマイヨールのコンコルドラファイエット。☆☆☆☆でアメリカンタイプのシティホテルである。新婚旅行だから、着いたその日くらいはね。翌日はチェックアウトして、まずは市内で宿探し。一泊ずつ☆☆☆と☆☆の渋い宿を渡り歩いてパリをゆらゆら。

さあどうする?週末のシルバーストーンまでにはまだ間がある。もう少しパリに滞在しようかということで宿探しをすると、どうも変である。どんなちっぽけな宿を当たっても予約で満杯。不安になって覚束ない英語で尋ねてみると「アンタ知らないの? 明日からローマ法王がパリを訪れるから、まず宿はないわよ」親切そうな女宿主は言う。

フランスは敬虔な信者の多いローマンカソリックの国。ポープが訪れるとなれば全仏から花の都にやって来る。知らないもんねぇ。東京ではその頃ローマ法王がやって来るなんて情報は耳に入らない。入ったとしても、直面した状況に思いが至ったとは考えにくい。そもそんなこと考えもしなかった。今よりずっと情報の薄い時代である。

仕方なしにパリを出ることにした。どうやって? 僕はまだフリーランスでやって行こうと決めて3年目。お金もなければ信用もない。運良く、その時高校を出て銀行勤めをしたことがあるカミさんがアメックスを持っていた。タクシーをつかまえて、レンタカー屋に行っとくれ」着いた先はeuropcarという、当時の日本ではまったく知られていないレンタカーだった。

まあいいや、一番安いやつを貸して下さい。本当に小学校レベルの英語でどうやって交渉したのか。まったく覚えていないが、とにかくキーを手に入れた。タマはルノー5(サンク)。エンジンを室内まで深く進入させ、前方にミッションを置くことで変則的なFFレイアウトを成立させていた、なんともフランスらしい、またルノーらしいFF2ボックスカーだった。ラジオ? 当然付いてません。安さ優先でした。

スーツケースをトランクに押し込み、意気揚々と乗り込んで走り出した。と、しばらくして途方に暮れることになった。地図をみても、今自分がどこにいるか分らない。タクシーでビュンと連れてこられてポイと降ろされた。そりゃあ分からんでしょう。

現在位置がわからなければ、進むべき方向もわからない。動物的勘を頼って東西南北を特定しようにも、パリは同じ高さの建物が延々並ぶ。フランス語を理解できないエトランゼには途方に暮れるしかない街並みなのだ。

冷や汗だらだらで右往左往し、やっとのことでペリフェリック(パリの高速環状線)に辿り着いたのは6時間後? ナビがあたりまえの現在では考えられないアドベンチャーである。

一般にペリフェリックの内側がパリだといわれている。rueなんとかというようにすべてに名がつく市内の道はもう一通だらけ。この時悩んで学んだことが後々のために役立っている。

道路の真ん中に駐車したり、ドンドンドンと斜めに差すように停めたり、バンパーきちきちに詰めて"あれどうやって出すんだろ?"凄い光景のオンパレードだった。

ペリフェリックから一路ジュネーブを目指し、リヨンを回って行くオートルートA5(だったかな)を進むことにした。しかし日の長い6月とはいえ、時間は時間だ。少し行ったサービスエリアに入ってみると、SOFITELというちゃんとした☆☆☆級のホテルがある。即決。

翌朝早めに出て、スイスを目指した。走り出してから"ハタ"と思った。リヨンまで南下して再び北上してジュネーブを目指すオートルートを行くより、直線的に下道を行ったほうが効率が良さそうだ。こういうとき無知の決断力は潔くしかも早い。

つらつらフランスのカントリーロードを進むと、向こうに工事用の柵みたいなものが並んでいる。"国境?"だった。右側にある小さな小屋に赴くと、パスポートをチェックされスタンプをポン!!そう大きくない川に架けられた橋を渡ると今度はスイス側の税関の小屋。入国は何ともあっけなかった。

昼下がりになっていたのかな? ちょっとプランがまとまらないので、ここらでコーヒーでも飲みながら考えよう。そういえば、ジュネーブの街の記憶はあまり残っていないなあ。

ローザンヌの手前、たしかピュリィとかいうレマン湖畔の小さな町を彷徨っていると、小さなレストランが目に留まった。ここでコーヒーとクロックムッシュかなんかをつまみながら、ひと息。と、"!!" どえらいことに気がついた。お金がない。

ひょいと小さなフランス/スイス国境を越えてしまったために、両替の機会を逸していた。フランスとスイスは同じフランでも別の通貨だ。しかもその日は日曜日。頭を抱えていると、偶然というか運良く他のテーブルに英語が喋れるアリスおばさんがいた。スイスはフランス/ドイツ/イタリアの3つの言語圏に大別され、ジュネーブやローザンヌあたりはフランス語が日常語だ。

事情を話すと、「宿は決まっているの? まだ?なら、ここに泊まっちゃいなさい。私が店主に紹介してあげるから」この小さな店は、ホテルも営業する小さなホテルレストラン。名前は『oasisオアシス』だった。いまさらながらできすぎた名前である。

とても素朴で優しい人々のやっている宿で、翌日銀行に行って両替を済ませたら、もっと泊まって行けば? 結局3泊もすることになっちゃった。

そこからいろいろ行ったなあ、という話は……。

つづく

Posted at 2009/07/22 23:14:19 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月21日 イイね!

『曲がらない? なら逆走だ! 』 まだまだ現代にはほど遠かった80年代の入り口

僕が自動車専門誌メディアに足を踏み入れた頃は、自動車専門7社(モーター7社だったかな?)とかいうとても小さな世界でした。

老舗では、モーターマガジン、ホリデーオートのモーターマガジン社、モーターファンの三栄書房、ドライバーの八重洲出版、カーグラフィックの二玄社、月刊自家用車の内外出版、カートップの交通タイムス社、ピットインの芸文社……だったか。

レースをやりながら取材にも関わり出した1977年にルボランとベストカーの前身のベストカーガイドが創刊され、ラジオコマーシャルを耳タコもので聞いたものでした。78年にはカー&ドライバー日本版が創刊されています。

フリーランスという立場はほとんど確立されておらず、モータージャーナリストという肩書も知りません。僕が最初に仕事をしたD誌の場合、普通は編集者(記者)の代筆のような立場で、外注さんという扱い。他誌でも似たりよったりで、僕の記事が署名入りになったのはフリーランスで始めてから5年くらい経った頃でしょうか。

先生と呼ばれるような自動車評論家の先輩もいたようですが、その頃はまあ雲の上の人達です。現在も続く自動車ジャーナリストの団体日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)の設立メンバーだった20名足らずが、存在感を示していた頃でした。

スペシャルプログのメンバーでも、フリーランスとして僕よりキャリアの長い人はいません。男は黙ってのスポーツカーおじさんは5歳年長ですが、当時からずっとしばらくの間はCG誌の編集者でした。僕は、プロとしてちゃんと食えたレーサーではなくて、走り屋のお兄ちゃんからライター稼業に入った者の、まあハシリです。

78年は、自動車専門誌を中心とする自動車ジャーナリズムの勃興期で、日本の自動車産業の成長と軌を一にするように自動車メディアの世界も大きくなって行きました。ピークはバブル経済がピークアウトする90年頃で、最大で月刊100誌以上を数え、月販総数は600万部に達したと聞いた覚えがあります。

栄枯盛衰をずっと見て来ているというような感慨を覚えますが、すでに何度も書いているように駆け出しの頃の僕は、迷惑を掛けることの多い問題児でした。文章で難渋するなら……ということで編み出したのが40点主義です。

もうどんな分野でも手を出して、一つひとつは40点でも5個やれば200点……みたいな。試乗は軽自動車からグループCカーまで、テスト物はサーキットからゼロヨンほか何でも。レースリポートもけっこう本腰を入れてやりました。

僕は、ドリキンのKちゃんよりも実はドリフトのキャリアは古くて、原体験は雨の筑波の日産レーシングスクールの国さんの助手席。そして、75年の富士のF1デモランのロニーのドリドリにすっかり頭をやられた口です。

1979年の11月に510の再来と言われた910ブルーバードが登場しました。CMキャラクターはジュリー(沢田研二 )だったかな?。最初は1800SSS-Eとかいう115psほどの1.8L SOHCエンジン搭載モデルだったと思います。

結果的にこの910は27ヶ月連続販売1位を記録する510ブル以来のヒット作になるのですが、そのスポーティなルックスならやっぱドリフトでしょう。ハードトップモデルのイメージに合わせた走りの写真を撮ろうということになりました。場所はその頃から月に何度も通うことになっていた筑波サーキットです。

いざ、本番ということで第一コーナー、第一、第二ヘアピンと可能性のあるコーナーでトライしたのですが、非力とアンダーステアセッティングの影響でまるで決まらない。LSDの装備でもあれば…というところですが、このクラスには望めないことでした。窮余の一策として僕が提案したのが第一コーナー逆走です。取材のための専有走行ならではの話ですが、必死に試してようやく連続写真を収めることができました。

その後は、小型車に始まるFF化の波がどっと押し寄せ、2LクラスのFRモデルも基本的に安定指向のアンダーセッティングが主流を占めることに。僕は80年代の前半にFR至上主義の境地を発見し、以来今までずっとその基本スタンスを変えてはいませんが、僕が初めて納得したFRスポーツの走りは89年のR32スカイラインGTS-t タイプM。手頃なパワーのコンパクトFR……ということでは、厳密にはまだ出現していないと思います。

この910ブルーバードと相前後して国産初のターボチャージャーがセドリック/グロリアのL20型SOHCエンジンに与えられます。導入の理由は省燃費です。装備重量の増加に対応したトルクを捻り出す一方で、定常走行領域では従来どおり2Lの排気量なりの燃費性能を期待する。

最初にスポーティカーではなく、日産のハイエンドサルーンにまず搭載したのは社会性を考慮してのことでした。現代の常識にもなっているハイパワー化のための手段ということでは、当時の運輸省は認可しなかった。

永遠の成長が信じられた80年代の幕開けは、暗黒の70年代に懲りた官僚の厳しい許認可権による統制から巧みに逃れることから始まったのでした。

つづく
Posted at 2009/07/21 22:20:01 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月20日 イイね!

『筑波ラップタイムの壁は1分20秒』 それでも十分楽しかった1978年

1978年3月。それまでの暗いムードを吹き飛ばすクルマが登場しました。マツダのサバンナRX-7。SA22Cという型式名で呼ばれることが多い、マツダロータリースポーツの本流に位置するクルマです。ルーツは元祖REスポーツカーのコスモスポーツで、FC3C、FD3S、SE3P(RX-8)へと継承されているマツダスポーツDNAの原点ともいえる存在ですね。

1973年10月の第4次中東戦争に端を発した第1次石油危機からの約4年間は、折からの排ガス規制の強化と重なって日本車が初めて経験する停滞期だった。昭和48年規制にはじまり、50年、51年と強化された排ガス規制は、クルマの性能を落してでも排ガスをクリーンにするという強制的なものでした。

48年規制では、進角を司るディストリビュターを遅角調整(3度)して封印し、HCとNOXの排出量を低減する措置が取られました。対象は昭和43年以降登録の48年非対策車。結果として、①出力減により加速性能が悪くなる、②燃費性能が悪くなる、③オーバーヒートしやすくなる、④ランオン(イグニッションを切ってもなかなかエンジンが停止しない)しやすくなるなど、クルマらしさは大幅に低下しました。

封印はデスビ(ディストリビューター)のベークライト製カバーにシールテープを貼るという簡単なもの。 あまりの性能低下にガソリンスタンドではお客の要求に応えたこともあったような……。封印テープをきれいに剥がして進角を正常化し、また元に戻す。実際にやったかどうか記憶違いかもしれないけれど、そういう時代です。

この頃までは、燃料供給装置はキャブレターが一般的。スポーツモデルではウェーバーやソレックス、デロルトなどといったサイドドラフト(REはダウンドラフト)タイプが隆盛を誇っていました。僕のTSサニーのキャブもウェーバー45DCOEでした。

ところが、和製マスキー法といわれた昭和53年排出ガス規制に向けた前段階の50年、51年規制にはキャブでは適合できない。レシプロではホンダのCVCCが早い段階でセーフとなりましたが、トヨタや日産はおもに上級車向けにそれぞれEFI、EGIという名の電子制御燃料噴射装置採用に踏み切っています。この頃のトヨタは比較的廉価な量販モデルではホンダのCVCC技術を買っていたりもしている。

この時期のクルマは、本当に走らなかった。それでも新車の販売がゼロにならなかったのが不思議に思えるほど。そんな時代背景もあったと思うのですが、ここで時代を動かす漫画が登場します。後のスーパーカーブームの火付け役となった『サーキットの狼』です。

サーキットの狼については、多くの説明は必要ないと思います。風吹裕矢とロータス・ヨーロッパの組合せに始まる伝説のクルマ漫画。後年、僕は作者の池沢さとしさんとは取材でお会いしている。

78年か79年頃、氏の所有する512BB(ウェーバーのリプルチョーク)を箱根まで試乗してリポートを書きました。D誌に輸入車の連載を持っていたのかな。たしか現地まで一緒に出掛けたはずだ。豪邸にお邪魔したことは記憶に残っている。

そんなこんなの時代。SA22Cの登場はまさにタイムリーだったわけです。スーパーカーブームの影響で、国産初のリトラクタブルヘッドライトを備えたセブンは熱烈な歓迎を受けた。試乗中に小学生の群れに遭遇すると、(ヘッドライトを)「上げて、上げて」と必ずせがまれたものだ。

今でこそ現在のマツダスポーツカーの原点として位置づけられるSA22Cだが、当時はまだスポーツカーという呼称が時代背景としても好ましくないということから、スペシャルティスポーツという奥歯にモノが挟まったような控え目な表現に留められている。

国産車が総崩れ状態にあった中で、その存在はひと際インパクトに富んだものでしたが、実際の走りのパフォーマンスはそんなに大したことはない。12A型REは、130ps/7000rpm、16.5kgm/4000rpm。この当時の性能表示は現在のネット値より15%ほど大きな数値となるグロス値。今で言う110ps程度のものでしかない。

ただ、軽量コンパクトなREを活かしたサバンナRX-7は、車重が985~1015㎏と非常に軽かった。そのセットアップは、SA22Cの約10年後に登場し、世界的なヒットとなったNA(ユーノス)ロードスターに重なる。歴史は繰り返すとしたら、今同じようなコンセプトの軽く手頃なパワーのスポーツカーが登場しても不思議はないでしょう?

筑波サーキットのラップタイムが物を言った時代がありました。僕は、ある段階でその無意味さに気づき、積極的にタイムを追い求めることを止めました。あるタイミングとは、バブルが崩壊した頃。日本社会が発展途上段階から成熟段階を迎え、豊かさの底上げから豊かさの実感に移るべきところに来たと思えた頃です。

僕は、まだ市販車のサーキットテストが一般的でない1977年頃からツクバのタイムアタックを担当していました。80年代の中頃までのレコードはほとんど僕のものだったし、怪我をした後の90年前後にもしばしばトップタイムを残しています。テストには必ずレース用コスチュームで臨むことをルール化したのも、業界では僕が最初だと思います。

しかし、このパフォーマンス至上主義を放置しておくと、やがてタイトになる省資源、環境保全の時代に上手く対応することが難しくなる。スピードの魅力については誰よりも知っているつもりでした。

あまりにも魅力的だからこそ、それに代る価値観を身につけないと新しい時代への対応を妨げる存在になりかねない。今まさにその時を迎えていて、相も変わらぬの人が支離滅裂なことを言っている。一見正統を装っているだけに注意が必要です。パフォーマンス至上主義とサステイナビリティは激しく衝突して融合することはありません。

エントロピーの視点に立てば、今クルマ好きと言われている多くの人々がクルマの敵になってしまう可能性が高い。エネルギー消費を最小にしながらfun to driveを確立しないと、中国、インドを初めとする巨大人口を抱える国々の爆発的な自動車普及の時代に対応することはできない。

現在彼らが追い求めているのは、エネルギー多消費型のアメリカンモデルです。従来の路線がそのまま使えるということで、旧態依然の欧米メーカーは進出を競い合っている(日本もですが)。今年中に中国が世界一の自動車消費国となることは決定的です。当然石油の消費量は飛躍的に増えます。そう遠くない将来再び石油価格は高騰するでしょう。

石油のピークアウトと地球温暖化の両面から考えれば、HVもEVもFCEVもやらざるを得ないし、やらなければ未来はないともいえるのです。オバマ大統領は、本気でグリーンニューディール政策を考えている。5年後のアメリカは今とまったく違う国になっている可能性が高い。

78年3月に登場したSA22Cのツクバ初テストは、たしかD誌でやはりこの年に初登場して時代の先駆けとなったアドバンHFのテストを兼ねたものだったと思います。バックナンバーを当たらないと正確なところは分かりません。

このヨコハマ・アドバンを追いかけるようにブリヂストンがポテンザRE47(79年)を送り出し、ハイパフォーマンスタイヤの時代が幕を開けました。1978年は、現在に至る日本車のハイパフォーマンス元年と位置づけられる。

もっとも、タイヤに関しては当時はまだ70偏平が上限。本格的なハイパフォーマンス時代は、1983年9月に当時の運輸省が60偏平のいわゆる60タイヤを認可するまでもう少し時間が必要でした。

この辺の話はまたその年の項で触れますが、クルマの走りパフォーマンスは、エンジン(パワーアウトプット)とタイヤ(グリップ力)のバランスで決まります。どっちが過剰でも意味はありません。70年代前半のクルマのほとんどはバイアスタイヤであり、それに対応したシャシーは非常にトレッドの狭い貧弱なものだった。

日本のみならず、世界中の国のクルマがハイパフォーマンス化を果たした背景には、エンジニアリングに対応したタイヤメーカーの技術力アップが不可欠だった。あたりまえですが、重要な視点です。

SA22Cのあの時のタイムは今でもはっきり覚えています。1分19秒37。今なら軽自動車でも可能なタイムですが、当時市販車の1分20秒超えは壁でした。SA22Cのひと月前にこれ伝説的なクルマとして挙げられるKP61スターレットがデビューしていますが、このクルマが1分20~21秒台で走ったのは衝撃的な事件として捉えられました。

今では欠伸(あくび)を催すほどのタイムですが、性能というものはいつでも相対的なものです。他が遅ければ際立つ。300㎞/hは100㎞/hの3倍速ですが、少なくとも法規上はその3分の2は過剰性能ということになる。今はもう使えない性能を有り難がっている場合ではないんです。

エコ視点が最優先されるこれからの時代でどうすべきか。いままでの行き掛かりを忘れて考える時が来ている。かつて遅くても楽しかったあの感覚は、大いに参考になるのではないでしょうか。

少なくとも、SA22Cが物凄く刺激的で走り実感が得られたのは間違いない。それは、NAロードスターにも共通するところです。コンパクトFRなら、コンベンショナルなICE(内燃機関)カーでもポジションを得ることができる。80年代前半に僕が見出した結論に至る道筋は1978年に始まっていたようです。

つづく
Posted at 2009/07/21 12:38:30 | コメント(8) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月19日 イイね!

『僕がこの道に入った理由(わけ)』 出会いと思い切り 1978秋

人は人と出会うことで変っていく。もしも、あの時あの人に出会わなかったら……人生にタラレバはない。人は会うべくして人に会っている。

何らかの意志とそれに共鳴する思いが重なって、人は人と会う。人と人の出会いは、時として偶然を装うが、その時の偶然もあとからゆっくり振り返ると必然だったりする。僕はとくに運命論者ではないけれど、良い出会いもそうでない場合も予め用意されていたような必然性を伴って訪れ、今につながる道程を生み出している。

僕の興味は常に未来に向いている。過去のあれこれは今さら何を言っても元には戻せない。ただ、振り返ることで自分を再確認するのは、これから考える上では無駄ではないだろう。70年代、80年代、90年代、そして21世紀の1st decade……たくさんの人に出会い、いままだ旅の途中だ。

音楽を志していたYT、整備士で身を立てる道を選んだ元生徒会長YK。誰でも最初は狭い世界から始まるものだが、彼ら高校の同級生との出会いがクルマの道に誘った。1970年代の入り口にこの二人と会っていなければ、今日までの道筋はなかった。

GSに配布されてきた一冊の本は、直接の人ではなかったけれど、生きる方向性に決定的な影響を与えた。GSのおやじさんや無償でマシン運搬トラックを貸してくれたお客のヤスキさん。ショウジさんサトルさんツーチャン……チームの面々との出会いも鼻の奥がツンとくる懐かしい記憶だ。

僕が今この仕事をしているのは、GSの顧客にいた二人の自動車雑誌の編集者との出会いがきっかけだ。当時D誌5日号キャップのIさんとCT誌副編のOさんがGSの近くに住んでいて、時折来店した。

しばらくしてガレージでマシンの製作が最終段階を迎える頃(だったかな?)、Iさんが素性を明らかにしながら話しかけてくれるようになった。そして、ある程度戦績を残すようになってからかな、『よかったら、雑誌の仕事手伝ってみない?』その誘いが、今に繋がっている。

77年には、富士のフレッシュマンクラスとしてはまあまあ存在が知られるようになっていて、東名自動車の社長の運転手として鈴鹿まで出掛けたりもしていた。CT誌のOさんつながりでは、たしかこの年か76年、グラビア3ページで僕のページが作られた。

レースに挑戦するスタンドマンみたいなページだったかな。CT誌(本誌)では以来一度も仕事をしたことがないけれど、僕の雑誌デビューは実はCT誌なのですねぇ。取材に来たのはオレンジ色のサーブに乗るカメラマンのノブさん。

同じ頃、D誌にライターとして寄稿していたKさん(故人)の取材で週刊時事という固めの雑誌にも登場した。Kさんは『復讐するは我にあり』のSR氏とは八幡製鉄時代の同僚で、九州の人らしい四角い感じの好漢だった。

D誌での僕は、現役レーサーということで最初から定地テストのテスターなどの扱いで、バイトの小間使いはほとんど経験していない。

初めて書いた原稿は、77年1月にEFI(電子制御燃料噴射装置)装備によって51年排ガス規制をクリアして2年ぶりに2T-Gを復活させたTE51だったか、翌年4月3元触媒とO2センサーの装備によって大難関の53年排ガス規制(和製マスキー法とも言われた)に合致させたTE55型レビンだったか。

多分そのリポートはバックナンバーを調べれば出てくるはずだが、読みたくないなあ。3行と進まぬ内に顔から火を吹きそうになると思います。

自慢ではないけれど、僕はIさんに誘われて仕事をするようになるまで、一行も文章など書いたことありませんでした。学校時分、たとえば夏休みの宿題で読書感想文などがあってもまず書かなかった。

書いて行くことより、授業中1時間立たされていることを選んだ人間です。もう随分になりますが高校の同窓会で仕事を問われたときなどは、誰も信じませんでした。あの光景を見ているからね。

TSサニーを売り払い、フリーのライター稼業で行ってみようと決めたのは78年の9月のこと。やって行く自信? まったくありませんでした。Iさんの『これからはまちがいなくフリーランスの時代だから』という言葉に背中を押されたのと、(レースの世界に近いところに居れば、チャンスが訪れるかもしれない)そう考えての決断でした。

今思い返しても、よくやって行こうと考えられたものだ。我ながら感心します。最初の数年間はもう駄目ライターの見本みたいなものです。自分としては『あたりまえだ』と思ってました。文章経験ゼロなんですから。でも、いつの頃からか不思議と『何とかなるのでは?』根拠のない自信が芽生えはじめたのを覚えています。その話はいずれ記すことになるでしょう。

不純な動機ゆえの、難行苦行の始まり。僕が30年以上この仕事を続けられる。あの当時の僕を知る人は誰一人思わなかったはずです。
Posted at 2009/07/20 20:59:54 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月18日 イイね!

『お前あともう少しだったな』 常識が通用しない世界 1977~1978

プライベートでモーターレーシングに参戦すると、本当に学ぶことが多い。ライセンスの取得やドライビングのスキルアップなど、自分自身に関することはあたりまえ。別にどうということはない。

マシンの製作や部品調達のコストの管理、レースのエントリーから参戦にいたるまでの事務手続きから、サポートしてくれるメンバーの確保と彼らに対する最低限のケア。スターティンググリッドにマシンを並べるまでに、すべてを大過なく済ませておかないと、好成績などは覚束ない。

本当に一人では走れない。それを実感しつつ、サポートしてくれるチームのメンバーに気を配り、少なくないお金を細心さと大胆さを併せて管理しながら、より良い結果を求めて行く。これって、会社の経営じゃない?レースに熱くなっているときは、ただ勝ちたい一心で無茶やった感がナキニシモアラズだが、後から振り返ってそう思った。

まあ、僕の場合、裕福な御曹司レーサーの生き様に感化されて、月よりも遠いF1の世界を本気で夢見てしまったわけです。今考えるとまったくの漫画で、分別のある大人だったら絶対にしないことだというのが分かる。

若さは馬鹿さだ。否定的な意味で言うのではなく、基本的に無知で、限られた情報で猪突猛進できるのが若さの良いところ。いつの時代も変化をもたらすのは情熱溢れる若い馬鹿さ。分別で凝り固まった大人に現状を突き抜けるパワーなどない。

情報が密になりすぎた現代では、空っぽの馬鹿になるのが難しい。溢れ出るエネルギーを一点に集中することができる空っぽさがないと、小狡く要領よく立ち回る輩だらけになってしまう。

変わらなければならない時に、変われない。僕は今がまさにその時だと思っているのだが、いままでのままでいたい既得権益者が老若にかかわらず行く手を阻んでいる。

足掛け4年間のプライベート参戦で、2度大きな出費に頭を抱えた。記憶はいい加減で何年のどのレースかは忘れた。たしか本格参戦を開始した76年のフレッシュマンレース。予選で初めてフロントローに並んで、今日はいけると思った時だった。よーいドンでクラッチを繋いだが、全然加速しない。

???ズルズル後退しながら、それでもアクセルを踏み続けると、低く唸っていたエンジンがいきなり『ドンッ!』。コンロッドが折れて、エンジンブロックに大穴が開いた。経験の少ないYが施した油圧計(ブルドン管)のラインが振動とGでもって折損し、そこから大量のオイルが吹き出してピストンが焼きついたのだった。

経験のなさは僕も同じで、エンジンが吹け上がらない理由が分からず、無理やりスロットルを開け続けたことがブローアップの直接の原因だ。勝てる時に勝っておかないと、勝負運は離れて行く。勝負の世界で良く聞かれる話だが、結局フレッシュマンシリーズでは2位がベストリザルトとなった。

エントリーレースでもなんでもいいから、一度勝ち方を身体に入れておいた方がいい。いまさらながらではあるけれど、これからモータースポーツを志そうという人に僕ができる数少ないアドバイスのひとつだな。

エンジンの次はボディ。GCマイナーツーリングにステップアップしてすぐの事だったと思う。たしかJAF富士GPの後だ。スタートは定位置の10番前後だった。よーいドンッで先陣争いをしながら、1コーナーをクリアし、260Rから名物の100Rに差しかかったその時、直前のマシンがスピン。コースのど真ん中でこっち向きに止まった。

隊列はパニックで回避行動に移ったが、僕はそのマシンを『見てしまった』。こういう時は対象物から目を切らないと、意識がフリーズしてそっちに吸いよせられてしまう。よくビギナードライバーが狭い路地などで電柱が寄って来た、などと言って笑わせるが、あれはあながち嘘ではない。

レースの出費で悩ましいのは必ず付いて回る修理代だが、実はボディがいっちゃった時のほうがエンジンブローより痛い。2代目の愛機は初代よりずっと安い、ヤレが目立つボロになった。さすがに世代がひとつ古くなった中古車に出物は少なくなっていた。

あのリメイクはよくできたな。正直どうやって支払いを済ませたか分らない。GCマイナーにステップアップすると、もう1馬力でも余計にパワーが欲しくなる。ピストンは鍛造がいいと言われれば「お願いします」で10万円。コンロッドも軽量なチタンなら耐久性もいいの? 行っちゃえいっちゃえである。トップチームはさらに高回転化を目指し、バルブも軽量チタン化したが、さすがにそれには付いて行けなかった。もう、10万円が1000円くらいの感覚。完全にインフレ頭だけど、それでも勝つためには……と貪欲になっていった。

着実にGCマイナーツーリングに溶け込めるレベルに上がっていたと思う。しかし、オイルショックによる逆風は、ただでさえ資金力に乏しいプライベートアマチュアから次第にエネルギーを奪っていった。

1973年の第一次石油危機から1978年のイラン革命に端を発する第二次石油危機の間にレースを始めた者に大成した例はない。これは自虐を含む持論で、歳は下でもオイルショック前に活動を始めていた日本人初のF1レギュラードライバーNSや眼鏡を掛けたトップコンテンダーとして有力視されたWTは、暗黒の70年代を難なく乗り越え、無限の成長が信じられた1980年代にプロフェッショナルとして成功を収めて行くのだった。

78年になってもなかなか戦績は上向きにならず、出費は反比例に大きくなっていった。僕の上昇志向と、川崎の片隅で身の丈に合ったレースに満足していたチームの面々と意識のズレが生じてきてもいた。借金をする勇気が持てなかった。

ここが貧乏人の限界ということなのだろう。5位か6位でチェッカーを受けた8月のVICICのレースを最後に、僕は一旦撤収を決断する。マシンを売り払い、売り掛けの借金を精算すると65万円が戻ってきた。常識的に考えれば『良くやった』だろうが、勝負師の資質ということでは全然駄目ということになる。

後日、サーキットで先輩筋のプライベートドライバーと話をした際に「お前借金はいくらくらいあった? ないの、全然? WTはいまも1000万以上抱えてる。やる気があるから面倒見てくれる人がいる」自分に自信さえあれば、借金など怖くはない。

そこで常識に逃げるようでは駄目だよね……そういうことなのだろう。後に国内トップフォーミュラまで上り詰めたWTは、GCマイナーツーリング時代作った借金をプラスに転じさせたと聞いた。

僕にはやっぱり、今の道しかなかったのかもしれません。
Posted at 2009/07/18 18:04:50 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「撤収!! http://cvw.jp/b/286692/42651196/
何シテル?   03/24 18:25
運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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2009年3月3、4日に行われた第79回ジュネーブショーの画像です。

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