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伏木悦郎のブログ一覧

2009年07月17日 イイね!

『棚ぼたはある。そこに居さえすれば……』

『棚ぼたはある。そこに居さえすれば……』1977.6.5 富士スピードウェイ
左から早乙女実 長坂尚樹 伏木悦郎
この写真は、故小野田耕児(82年没)撮影。
ピンボケご容赦。




とにかく100万円貯めてから……。スタートラインに達したのは3年余りが過ぎた1975年の初め頃だったか。歳も気になって、多少焦りを感じていたように思う。

まずは、マシンの素材となるKB110サニーの物色から始まった。実家所有のサニーGXは、シビック購入の下取りに出してしまっていたからね。なんとか川崎市内中を探し回ってやっと見つけた。37万円のGLだったかなあ。欲しいのはドンガラとエンジン/ミッション・デフケースぐらいのものだけど、なるべく長く使えるようにと奮発した。

ボディワークなどの基本的な作業は高校同期のYの修理工場で行い、形が出来上がってからのエンジン搭載や艤装関係は中野島のGSのガレージを使わせてもらった。油圧リフトが完備された立派な作業場だった。スタンドの営業時間後にトンテンカントンテンカン。鄙びた川崎の外れの街ではけっこう目立つ存在になっていた。

チームの構成は、僕を含めて本当にチンピラ軍団みたいな軽る~い顔ぶれだった。高校で生徒会長を自ら立候補して務めたYはけっこう強面だったが、それにしても23歳の3級整備士である。レースカー製作の経験はゼロでした。

まあ、エンジンだけは当時トップコンテンダーを数多く輩出していた東名自動車にお願いしたわけです。それ以外のパワートレインや足回り関係は日産純正スポーツ部品、シートは何だったかなあ。ステアリングは、SB1シビックにも付けて気に入っていたMOMOの3本スポークを選んだ。

僕は一時期ステアリングの革巻きにこだわり、自ら所有したアルテッツァやS2000ではわざわざスペシャルメイドの一品モノを作ってもらってその意味を問うていた。その原点は、遠くSB1シビックに始まり、TSサニーで常に実感していた原体験による。

ステアリングホイールを替えただけで、クルマのタッチが変わる。鞣(なめし)の効いた革を丁寧に巻き、慣性モーメントやアンバランストルクが極小となるMOMOを付けただけで、クルマの雰囲気がガラリと変わる。

1980年代後半にインターフェイスという言葉を使い、人とクルマの接点の重要性に意識を集中させるようになったのは僕が初めてだが、それは大した知識もなく試してみたらなるほどいい……そんな無知な20代前半の頃に身についた感覚が基礎になっていた。

これは暴論と捉えられても仕方がないと思っているが、実用上まったく関係のないハイスピード領域の走りのパフォーマンスを得るために、たとえば10万円余計にサスペンションをはじめとするシャシー周りに投資するなら、その10分の1のコストで済むステアリングの革巻きにこだわった方がユーザーメリットは大きい。

素人っぽい発言と捉えられやすいが、使用不可能な過剰性能を得ることを目的としたメカニズムに馬鹿馬鹿しいコストを掛けるくらいなら、誰もが間違いなく実感できる触感レベルのクォリティを追求したほうが遥かに健全だし、エコだろう。誤解を恐れずに言えば、僕は高速性能=高性能という価値観から一歩も出ていない、クルマとクルマの比較論でしか評価しない20世紀型のクルマのあり方には未来がない、と思っている。

人間の欲望に根ざした人間中心主義には積極的に反対したほうがいい。それはどうやってもエネルギー多消費に向かうからね。いま一度自分たちの身体感覚や能力を見つめ直し、からだとクルマの関係からベストバランスを探すのは面白いことでは?少なくとも、オープンロードについてはそっちの方向にしか有効な答えはありません。

僕はもともとがサーキット上がりでもあるので、モータースポーツには心の底からシンパシーを感じている。オープンロードでの制約を解き放つ場がクローズドサーキットのルールに則ったコンペティションだと思う。80年代に盛り上がり、今も一向に衰えることのないサーキットとアウトバーンの論理の見境のない路上進出は、基本的に誰も幸せにしない。

何だっけ? おおっ、我がヘッポコチームの面々の話だった。YとYの弟、GSの先輩のショージさん、長尾タイヤのサトルさんに石屋職人のツーチャン、僕の弟に後に苦楽を共にすることになるMちゃん。牧歌的だった当時の富士フレッシュマンシリーズエントラントの中でもこれほどのシロート軍団も珍しい。

しかし、もう本当にお金がなくてね。マシン完成は秋口になってしまった。慣らしを兼ねて、一度くらい日産レーシングスクールに出ておこうよ。初めてのサーキットの公式行事(?)は、雨の筑波のスクールだった。タイヤはサトルさんの口利きでダンロップから何割引かで手に入れた。

けれどホイールがない。雨ということで中古で手に入れたアルミホイール(ス〇ードスター・ディッシュ)にダンロップレインを組んで、いざ出陣!と意気込んで出ていったはいいけど、その周の最終コーナーでエア漏れであえなくストップ。道に迷いながら延々行った苦労は数分で水の泡になっちゃった。

走行後の講評で、日産レーシングスクールの辻本(征一郎)校長から『最終コーナーで止まった人……あれはパンク?』図星で当てられて赤面した。辻本さんと後年立場を替えてお会いすることが多かった。1985年は僕にとっていろんなことがありすぎたターニングポイントの年だが、思い起こしてみるとそういえば校長とレースに出たな……。

250
1985年10月13日、鈴鹿300㎞レース・クラス2優勝。おおっ、そうだった。仕事場のデスクの背後にある書棚の上をあらためると、僕のささやかなレース戦歴の中で唯一優勝の文字が刻まれたトロフィーがあった。

そうだった。この年はじまったグループAマシンによる全日本選手権を盛り上げるプロモーション活動の一環として、日産は辻本校長にS12シルビアを委ね、毎戦ごとに異なる雑誌媒体と組んで参戦するプログラムを組んでいた。僕はD誌での出場だったはずである。

まあ、始まったばかりのレースシリーズで、2Lのクラス2は有力なコンペティターを欠いた。我らのシルビア以外ではVWシロッコとR30スカイラインぐらい。そう言えばR30のドライバーには、後に因縁浅からぬ仲になるK君(またKだ)が名を連ねていた。

雨の日産スクールでインパクトがあったのは同乗走行。高橋国光さんのとなりで初めて『あれ』を目の当たりにした感激は、その少し後の富士グラチャンにエキシビジョンでやってきたF1デモラン・JPSロータス72のロニー・ピーターソン(ペテルソン)の『あれ』に匹敵する驚天動地の初体験だった。

コーナーアプローチでブレーキングをスパンと決めたと思った次の瞬間、マシンは平衡感覚を一瞬失わせる浮遊状態に陥った。素早く軽く的確にステアリングをクルクル回し、スロットルを開けながらバランスを取り、直進状態になった瞬間にパッと手をステアリングから離した。今では何と言うことはないドリフトだが、初物は衝撃そのものだった。

富士のヘアピンをタイヤマークを黒々と残しながらカニ(蟹)走りを見せたロニーへの憧れは、今も30年以上変わらぬヘルメットのカラーデザインに留められている。

デビュー戦は、75年富士フレッシュマンシリーズの最終戦。予選はトップ10には入っていたはずだ。しかし、決勝は数周でリタイヤ。バッテリーが台座から外れて、電気が途絶えたのが原因という"とほほ"な内容だった。

明けて76年。緒戦はいきなり3位表彰台ゲット。実質的なデビュー戦は幸先よく始まった。さあこれから、本人も相当その気になっていたはずだが、ここですっと勝ちの波に乗れないところが僕の星か。寒い夜空の下、暖房もないGSのガレージでマシンのメンテ作業に明け暮れる内に、持病の痔を悪化させ、入院手術。次戦を自らも走る意欲を見せマシン作りの資金の一部を提供していたチーフメカのYに委ね、さらにもう1戦パスせざるを得ない事態に陥った。Yは4位だったのかな。

こうやって昔を振り返るといろんなことを思い出すね。しかし、この年のその後の記憶は薄い。たしか、富士フレッシュマンシリーズTSクラスでは早くからトップコンテンダー扱いとなり、この年はほとんど表彰台。1位はなかったけれど4位以下もなかったと思う。

おおっとそうだ。競技ライセンス取得の経緯も記憶に残る出来事だ。B級から積み重ねて……という余裕は経済的にも精神的にもなかった。折しも74年頃に元トヨタワークスの北原豪彦さんが、イギリスのジムラッセルというレーシングスクールの日本校を開設するという。それを受講し卒業するとA級ライセンスが取得できるという耳寄りな話に、僕は乗った。

肩に道具一式を詰め込んだズタ袋を下げて行ったなあ、岡山の山陽スポーツランド。スクールカーは後のFJ1600のひな型になるスバルフラット4搭載のベルコ98B(だったかな)。受講生はすくなかったけれど、一緒に走った何人かと自分を比べて『やれる!』と確信したのは本当だ。

このスクールの同窓としては、いまやBMW系のディーラーとしてたくさんの店舗を展開するニコ・ローレケがいる。レースへの選手登録はニコ・ニコル。ローレケが日本人には馴染まないと判断して、母方の姓を名乗った。ニコは、ドライバーとしてもF2まで登り詰めたが、ビジネスシーンでもっとも成功した外国人ドライバーのひとり。比べてもしかたがないが、彼我の才能の差は歴然だ。

75年10月から78年9月までの足掛け4年で全25戦。経済力のないプライベートドライバーとしてはそれが精一杯だった。76年にある程度の手応えを掴んだところで、迎えた77年。この年からフレッシュマンシリーズから徐々に名物レースGCマイナーツーリングに移行しようと考えていた。

そう多くはない僕の戦績で唯一ちょっと誇らしげな気分になれるのが、77年6月5日のJAF富士グランプリのTS1300クラス決勝。いや、スタートの瞬間にあるマシンがクラッチをバーストさせ、FRPのボンネットを突き破ったフライホイールが無数の破片をまき散らした結果、大番狂わせが生れたという話である。

破片を踏んだ上位陣が脱落して行くのは確認できていた。しかし、チェッカーフラッグを受けた瞬間もまさかそんなことは夢想だにしない。クーリングラップを終え、ピットレーンをゆっくりもどりパドックへの右にステアリングを切ろうとしたところで、オフィシャルが直進せよという。『エッ?』3位入賞を知ったのは、表彰台下のパルクフェルメにクルマを止め、チームの面々や関係者に囲まれた時だった。

これほど低予算のチームでこれだけの成績を残した例は本当にまれだと思う。実力はたいしたことないし、スピードも明らかに劣ったけれど3位表彰台の事実に変わりはない。賞金10万円也。ささやかなリザルトではあるけれど、ここまで生きてきた僕のプライドの一部であり、とっておきの宝物になっている。この時はまだまだ見果てぬ夢の途中ではあったけれど。

つづく
Posted at 2009/07/17 23:58:00 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月17日 イイね!

使用前~使用後? (笑)

180
180

閑話休題。

昨日久しぶりに都に上って、都会の空気を吸ってきました。マセラティ・グランツーリスモSのオートマティックについては3月のジュネーブで見てきたけど、展示されている有楽町のCOVAという店に興味があったので。知った顔数人と挨拶を交わして早々に退散。途中『はしご』のダンダン麵/餃子 サービスライス+お新香&ビールでお腹パンパン。帰りの道すがら『茶子』に寄ったらまだお店があって、チャコママも健在で。しっかり御布施を支払わさせていただきました(笑)。

上の写真は、1977年のFISCO CLUBの会員証 弱冠25歳!!
下は昨夜のCOVAにて。57歳の夏
Posted at 2009/07/17 21:18:40 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月16日 イイね!

『お前、これをやるのか?』 瞼に焼きつく紅蓮の炎@FSW 1974.6.2

1974年の年明けはとても重苦しいムードに包まれた。レースをやると決めて、サーキットにも通いはじめたのに、オイルショックで世の中のムードは一変してしまった。73年のGC最終戦のアクシデントは、時代の変化を象徴する出来事のように思われた。

フェアレディ240Zを含めると30台以上の出走(73年まではGCとGTSの混走)という大盛況。排ガス対策や安全問題の表面化などもあって、すでに日産、トヨタ、マツダなどのメーカーチーム(ワークス勢)はサーキットから去っていた。

高度経済成長期に盛り上がったT(トヨタ)N(日産)にプライベートチームのT(タキレーシング)が挑むTNTの時代も過去のものになっていた。富士グランチャンピオンシリーズは、メーカー主導から、経済成長の結果生れた富裕層がプライベートチームを作り、タイトルを競い合うという、新しいレースのスタイルを日本に根付かせた。

あの盛り上がりが急減速。きっかけはオイルショックであったわけだが、状況的にはサブプライムローン問題の結果として起きた昨年の金融危機の前と後によく似ている。それまでの好況を一夜の内に暗転させたリーマンブラザーズの破綻と、オイルショックをリアルな形で印象づけたGC最終戦のアクシデントは、全然タイプの異なる事象だが、それまでの活況から一気の暗転という意味で何となく重なる感じがする。

明けた74年はとにかく自粛ムードが強烈に漂った。FISCOの屋台骨を支える看板シリーズとなっていたグラチャンシリーズからも、開催を危ぶむ声が聞かれた。記憶違いかもしれないが第一戦はキャンセルとなり、6月2日の第2戦がシーズン開幕戦となったのではなかったか。

僕はこのレースに父親を誘って出掛けた。本当なら大学を卒業して就職している時期。いまで言うフリーターの境遇でレースをやると言い出した息子を、どのような目で見ていたのだろう。僕としては、やると決めたその意志をきちんと伝えようと思ったのだと思う。誘うと、父親は何も言わずに同行を承諾した。

シビックSB1で出掛けた。グランドスタンドの最終コーナー寄り。当時はまだ立派なピット上のホスピタリティルームもなく、ストレートと同時にヘアピンコーナーが見下ろせる観戦ポイントがあった。

レースは2ヒート制で、スタートはローリング方式が採用されていた。初めてサーキットで生のレースを観ると、ほとんどの人がマシンの集団が発する轟音に魂を奪われる。
それは大音量のロックコンサートなどで経験するトランス状態と多分同じだ。

僕がサーキットに足を踏み入れたのは73年のシーズン開幕頃。すでにこのレースが行なわれたタイミングではある程度慣れていたが、18台の2Lマシンが一斉に火を入れて動き出すローリングには鳥肌の立つ思いをしていたはずである。

ただ、このレースのスタートシーンは明らかに異様だった。第1ヒート。ローリングスタートは、オフィシャルカー(確か240Z)の先導で1周。最終コーナーで240Zがピットに向かい、ポールシッターがペースメーカーとなってコントロールラインを通過するところから、レースは正式なスタートとなる。

ところが、ポールシッターのKの動きは素人目にも変だった。低速で加減速を繰り返しているのか、スピードが全然乗っていない。結果、後続は隊列を維持することができず、眼下のスタートラインを通過する頃には2列の編隊は横に広がる団子状態に崩れ去っていた。

Kは、後続に呑み込まれ順位を5、6番下げるが、何とか2位でストレートに戻ってきた。その後の2位争いは大接戦のスペクタクルだったようだが、そこは記憶に残っていない。ただ、得も言われぬ嫌ぁな雰囲気のままチェッカーが振られた、なんだかなぁという気分を抱いたのは確かだ。

昼は何を食ったのかな。多分いつもの焼きそばだ。第2ヒートは午後2時のスタートだった。第1ヒートの混乱に不吉な予感を覚えながら、その時を迎えた。

ローリングスタートは、1周では隊列が整わずもう1周。緊張感が倍増したところで、第1ヒートを制したTのリードでレースは始まった。大音響に身が共鳴し鳥肌を立てながら隊列を見送った。次に目に飛び込んできた光景は今も瞼に焼きついている。

コントロールラインを通過して10秒足らず……それまでに見たことのない炎の塊がひとつ、ふたつ、みっつ……やがて紅蓮の炎の上にどす黒い煙が覆い被さり、事態が呑み込めた。

しばらく動くことができなかった。「見に行ってみよう」父親に促されて、現場に向かったのは事故発生からかなり経ってから。すでに完全に鎮火し、焼け焦げたマシンの残骸が点在する現場付近から人影が引き始めた頃だ。思わず息をのんだ。

『お前、これをやるのか?』その時発した父親の言葉を今でも覚えている。しかし、それに対してどう答えかはまったく覚えていない。何も答えられなかったのかもしれない。やると決めたらやる性格である。

親の立場になってみれば分かるが、子供の性分は大体掴めている。親は親としての価値観を不当に子に押しつけないほうが上手く行く。これは子から見た勝手な推測だが、多分その時父親はそう考えたのだろう。

あからさまな反対はなく、後にレース活動は実現した。そして、その結果として今の自分がある。もちろん、その間四方八方にずっと迷惑掛けっぱなしではあったけれど。

事故はモータースポーツという競技中に出来事。今では警察が介入することはほとんどなくなったが、未曾有の規模ということで刑事事件扱いとなった。Kは、業務上過失致死傷の疑いで書類送検されたが、結果的には不起訴処分で終っている。

2人の有能有望なレーサーの死は、1モータースポーツファンとして心から悔やまれたが、僕にとっては個人的に残念なことがあった。亡くなった鈴木誠一選手は、後にエンジン製作からレースサポートまで頼りにすることになる東名自動車の社長でもあった。

実家から10分の身近さもあって、チューナーとしても才能を発揮していた未来の師匠筋に薫陶を受けるのを楽しみにしていた。

その後のKとの因縁は浅からず。評価は人によって異なるが、この一件を機にKはレース界から追放の形となり、しばらく表社会から姿を消す。

その彼と偶然仕事を一緒することがあった。1978年8月に登場したトヨタ初のFF車ターセル/コルサの企画で、当時川崎市にあった多摩サーキットというダートコースでタイムトライアルをするという。そこにゲストとして現れたのがK。こっちはばっちり知っているが、彼から見ればただの小僧である。僕はこの時にはレースを一旦諦め、マシンも売り払ってライターで行く腹を括っていた。

D誌の別冊で、取材スタッフは元AS誌の面々。当時のD誌編集長が元AS編集長だった関係のつながりだった。そこで、さあタイム計測となったわけですが、何度か走った結果いずれも僕のほうが速い。「まあ、素人じゃないから……」Kは言い訳がましいことを言わなかったと記憶している。

しかし、出来上がった誌面を見て「?」。全部僕のタイムのほうが遅く書いてある(笑)。なるほど、これがマスコミか……カルチャーショックを受けた覚えがある。その後も紆余曲折があったけれど、それはまたの機会としよう。ちなみに、当時のD誌K編集長は、モータースポーツの本筋の立場からKを擁護した人で、BCG(後のBC)に活躍の場を提供した。後に知った話である。

1974年6月2日以降この年がどんな年だったか……まったく思い出せない。それくらいショッキングな出来事であり、オイルショックによる時代の変化と方向性を決定づける重大な転機だったのだろう。それでも、レース挑戦をやめようとは思わなかった。

つづく
Posted at 2009/07/16 09:24:34 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月15日 イイね!

『トイレットペーパーが店頭から消えた日』 青天の霹靂 第一次石油危機 1973

『トイレットペーパーが店頭から消えた日』 青天の霹靂 第一次石油危機 1973レースをやろう! 決心したのは何年の何月だったか。記憶が曖昧ではっきりしない。GSでアルバイトを始めてそれほど経たない20歳の頃。1972年だったと思います。しばらくはKB110で通ったのかな。

やる、と決めたはいいけれど、何をどうしたらいいいか分らない。まず貯金だと、100万円を目標に定めた。薄給だったけど、何とか貯まったのが約3年後の1975年。23歳になっていて、少し焦りました。あの時の暮らしぶりは漫画だったな。

寝食は実家で面倒をみてもらって、衣類は年間を通してワンパターン。当時ブルージーンズをブリーチアウトするのが流行ってました。ジージャンとベルボトムのジーンズを(淡青に)漂白した上下を基本に、夏はTシャツとジーンズ、冬はジージャンの下にセーターを重ね着する。お洒落にはまったく目が向かなかったなあ。普段はGSのユニフォームで通しちゃったし。

3年目に入っていたKB110に乗る頻度も意識的に控えるようにした。相当気に入っていたはずなんですが、1973年には買い換えを決めるんですね。何だと思います。シビックGL(SB1)です。

当時としては画期的といっていいFF2ボックスの3ドアハッチバックで、ミッションは☆レンジのホンダマチック。ボルグワーナーをはじめとする当時のATのライセンスを避けた遊星ギアによる無断変速AT。動力伝達効率が???ものの、いかにもホンダらしいユニークメカです。

誰がFRの伝道師やねん……突っ込みが入っても仕方ないFF/ATパッケージですが、青臭い進取の気性と変化に過敏に反応するガキんちょそのものの僕は、けっこう大真面目に「これからはこれですよぉ」スタンドのIオヤジに吹聴したものである。オヤジさんは230セドリックHTの2ℓ4MTに乗り「オートマは物足りない」を口癖にしていた。

今から考えると、SB1シビックは相当なやっつけ仕事だった。後に川本信彦元社長とよもやま話をした際にさまざまな裏話を伺って、納得したこと多しだった。

エンジン逆転のトリビアとかね。ホンダの4気筒エンジンは、S2000のK型以前は他の一般的な右回転とは反対の逆転エンジンでした。もともと2輪が起源という歴史が影響しているのですが、最初のメガヒットN360は2輪そのままの逆転搭載となった。

空冷から水冷に移行する際、つまりN360からホンダライフへのモデルチェンジのタイミングが正転に変えるチャンスだったということですが、コストを考えて治具をそのまま流用できる逆転のままが選択された。

その"伝統" がシビックの1.2L直4にも踏襲され、互換性のない(エンジン単体をビジネス化できない)状態が続いた。1999年のS2000に搭載することを念頭に正転化が断行されたK型が登場するまで、である。「いや、水冷化の時に思い切って変えちゃえばよかったんだけどな。株主に叱られたら、率直に謝るよ」カワさんのべらんめぇ口調が懐かしい。

もうひとつ。昨年SB1シビックの開発責任者を務めた故木澤博司さんのお別れの会に出席したときに、大先輩の三本和彦さんから聞いた話。

『SB1はドライブシャフトの長さが左右で違っていて、右回りと左回りで回転半径が違うんだよな』

えっ?と思った。どうやら本当らしいのだが、あの頃の僕がそのことを意識することは一度もなかった。何年も付き合ったのに。プロとアマの違いとはこういうことなのだろう。

シビックGLもまた家族で一台の存在。このクルマには77年頃まで乗っていたはずだが、その後は2歳下の弟に譲り、最後は彼の自爆事故によって廃車になったと記憶する。

僕のデビューレースは、富士フレッシュマンシリーズの最終戦。1975年のたしか10月でした。マシンの製作はスタンドのガレージを借りたり、チーフメカを任せた元生徒会長のYKの修理工場で行なった。

エンジンだけは実家から近い東名自動車にお願いしてね。あとは日産純正スポーツキットを中心にYKを中心に自分らで仕立てたわけです。マシンのベースは最初の所有車とはまったく別。37万円で購入した中古車でした。

話を1973年に戻します。レースをやると決めた僕が貯金の次に始めたのはFISCO(富士スピードウェイ)通いです。やる前にレースをちゃんと見ておかなくては。そう考えました。

レース観戦はお金がかかります。そこで節約のために当時流行りの50㏄バイク、ダックスホンダを購入し、日常の足とすることに決めました。これでFISCO通いを始めたわけです。

国道246号をトコトコと走り、片道約3時間ほどでFISCOに辿り着くわけですが、山北あたりからの登り区間はけっこう急で、給油ポイントとなるいつものGSでオーバーヒート気味になっちゃう。さらに登りの道のりを行くと、ゲートに到着した時にはプスンとしばらく動かなくなった。

入場料2000円、ガソリン代が約500円、これに昼飯に焼きそばでも食ってちょうど3000円。一人で行くんだからこれで十分。恥じるところは何もなかったなあ。

少し方向性が見えてきた73年の秋。時代は一変します。エジプトとシリアの連合軍が、シナイ半島とゴラン高原に侵攻し、イスラエルから旧領土を奪還する奇襲作戦を敢行。第4次中東戦争の開戦でした。その影響で石油の供給が遮断され、流通が滞り、価格が暴騰した。いわゆる第一次石油危機の勃発です。

実際には、中東からのタンカーは予定通りに航行していて、輸入量はまったく減少していなかったということですが、今ほど情報網が発達しておらず、国際感覚という点でも未熟だった日本社会はパニックに近い混乱を来します。石油元売りの便乗値上げもありました。どういうわけかトイレットペーパーが不足するというデマが生れ、スーパーをはじめとする店頭からロールが消えてなくなりました。

普通に買っていれば十分間に合ったのに、パニックになった主婦が一斉に買い占めに走ったために供給が追いつかなくなった。それだけの話なのに、誤解が誤解を生む、とても嫌な雰囲気に包まれた。いまでは懐かしさを覚える記憶です。ガソリンスタンドではそれまでに経験したことのない行列販売に直面しました。お客が来ても、売るガソリンがない……なんてねぇ。

ただでさえ、18歳で免許を取った際にも、公害や交通戦争といった負のイメージを持たざるを得なかったところに石油危機。さらに、お先真っ暗感を増幅させる事件が起きた。11月の富士GC最終戦でスタート直後のバンク内で多重クラッシュが発生。24歳の中野雅晴選手が焼死、他の3選手が重傷を負う大アクシデントだった。

僕はこの時はFISCOには足を運んでいなかったが、TVの生中継で映し出された光景を呆然と眺めていたことを思い出す。重苦しい時代の幕開けだった。

つづく
Posted at 2009/07/15 09:55:44 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月14日 イイね!

『やっぱり思い出深い年』 僕にも18歳の時がありました…1970

B110サニーを手に入れた僕は、相当有頂天になっていた(ように思う)。プロフィールにある通り、どういうわけかストレートで大学受験に成功。滑り止めだったけれど、我が家の家系で初の大学通いということで、親父としても面目が立ったようだった。

その時はあまり考えなかったが、運の良さは高校受験から続いていた。学校は神田の本校舎通いが基本で、体育が週一回実家からそう遠くない生田。ここにはクルマで通ったような……。神田はもちろん電車通学だったが、入学当初からあまり身が入らない。

もともとがサッカーを続けたくて第一志望を関東一部リーグ(だったかな)の某大としていたのだが、これは叶わず。入った学校は詰め襟角刈りのばりばり体育会系で、それは嫌だとブラブラすることになっちゃった。

僕はどちらかというと夢見る夢男くんみたいなところがあって、サッカーには相当執着していた。高校時分には、後の日本人初のプロサッカー選手となった奥寺康彦(1FCケルン~ベルダー・ブレーメン)を擁する相工大付属(現湘南工科大)と対戦したことが自慢にならない自慢の種だ。0-5でコケ負けしたのがいい思い出になっている。

後年、CSTV局で持っていた自動車のレギュラー番組で1時間の特番をやろうということになって、誰か呼びたいゲストはいますか? ディレクターの問いに答えたの誕生日が3日しか違わない奥寺康彦さん。現横浜FC・CEO兼GMだった。収録はあっという間に終ったと記憶している。

本当はやはり同い年の作家村上龍さんを所望したのだが、JMMを主宰して経済に興味を集中していた彼からの答えは「今はクルマに興味はない」けんもほろろだった。

時折生田にクルマで通う内に、その近くに高校の同級生がバイト勤めするガソリンスタンドに出入りするようになった。大学生活にはまったく身が入らなかった。70年安保の嵐が去った後のキャンパスには妙に温い風が吹いていた。

ノンポリだった僕が言うのも変だが、無気力の雰囲気が充満していた。大学通いで唯一覚えているのは、フランス語の教授が教室に入って来るなり言ったひとこと『三島が死んだね』何のことを言ってるの?いぶかしがったが、それが後で知る市ヶ谷の三島事件(自衛隊の市ケ谷駐屯地で三島由紀夫が割腹自殺)だった。

結局僕は2年を2回やった3年目に、学費滞納につき除籍という処分を受けた。学費は親からちゃんともらっていたはずなのにね。クルマを手にした僕は、当時伊勢原市で合宿をしながらメジャーデビューを目指していた高校の同級生YTに付いて回って、音楽の真似事をしていた。担当は4弦。完全にインチキではあるけれど、茅ヶ崎、等々力と2度ほど舞台を踏んでいる。

YTは、フォーライフに出入りしミッキー・カーチスのプロデュースでもう少しでデビューところまで行ったが、その後の社会変動の荒波に揉まれてチャンスを逸してしまった。僕はというと、やっぱり音楽は違うだろう……違和感を覚え、違う世界を模索し始めた。

生田から近いガソリンスタンドに入り浸る内に、そこでバイトをすることになった。生徒会長を務めた同級のYKが整備士の資格を取るとか言って辞めるのと入れ代わりに、僕が後釜に座った。

当時の三菱石油のスタンドを経営するオヤジさんには本当に世話になった。二人いる息子がやはり高校の同窓の先輩後輩ということもあって、アットホームな居心地の良さにレースマシンを処分し、フリーランスでやって行くことを決める78年9月まで、つかず離れずの雇用関係を続けてもらった。

75年から足かけ4年のレース活動のベースは、この多摩川沿いの小さなガソリンスタンドのガレージだった。そもそも、レースを始めようと思い立ったのもこのスタンドでの小さな出来事がきっかけなのでした。

この元売りをスポンサーとする生沢徹さんの著書『生沢徹のデッドヒート』が、三菱石油の東京支店から送られてきた。そこに描かれていた生き方にコロリとやられてしまったわけです、あの頃の僕は。

(レース参戦が叶った後に、当時のFSWの名物男Sさんの口添えもあって、その三菱石油東京支店でスポンサー契約をしてもらえることになったのだが、その契約書の原稿はなんと生沢選手のもの。こっちの金額は5万円ぽっきりと比較にならない低さだが、薄紙の契約書だけは立派だった)

有名な画家生沢朗の子息という御曹司ゆえのサクセスストーリーを己に当てはめてしまうあたりが、もうどうしようもないガキんちょではあるけれど、あの時その気になっていなければ今はない。しかし、本気でF1を目指そうと思っていたんだよ。

余談ながら、生沢さんとはその後レースリポートの仕事をするようになってから取材対象として話をする機会を得たし、何度か個別のインタビューも経験した。81年のスーパーシビックレースでは同じスターティンググリッドに並ぶという光栄にも浴した。

僕はドライバー誌のエースドライバーとして”有限シビック”(笑)を駆ってこの日本初のワンメイクシリーズに参戦していた。あるレースで、トップ10争いを繰り広げる内に、目前の生沢選手の37番と当時F2で売り出し中の坂本典正が激しくやり合い出した。危険を察知した僕はほんの少し下がった。

……と、鈴鹿の130R手前で両者が激しくサイドを打ちつけ合い、最後は腹を見せながら2台揃って130Rの藻屑となっていった。

おっと、これは1981年のところで書くべき話題でした。

それはともかく、当時最大のスタードライバー生沢徹に感化された僕は、本気でレースに打って出る準備を始めるのだった。


つづく
Posted at 2009/07/14 17:39:32 | コメント(4) | トラックバック(1) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「撤収!! http://cvw.jp/b/286692/42651196/
何シテル?   03/24 18:25
運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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2009年3月3、4日に行われた第79回ジュネーブショーの画像です。

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