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伏木悦郎のブログ一覧

2009年07月13日 イイね!

『隣のクルマが小さく見えまぁ~す!!』 1970=1990=2010?

『隣のクルマが小さく見えまぁ~す!!』 1970=1990=2010?※少し加筆修正しました※ 2009.7.14 11:06

左の写真は、1977年の富士フレッシュマンシリーズの一コマ(斉藤東樹カメラマン撮影)。モノクロ写真はセピア色を通り越して、色落ちが始まっている。32年前。25歳!



有名なCMコピーとともに2代目サニー(B110型)が登場したのは1970年1月。高校時分の僕は先代のB10サニークーペのスタイリングがとても好きで、以来よくある〇〇党的なニュアンスで言う日産シンパになっていた。

カローラの排気量を+100㏄とする後出しジャンケンを苦々しく思っていた僕は、あの隣のクルマが……のTVCMに溜飲を下げていた一人だった。

3月早生まれの僕は、18歳になるのを待って、4月頃から実家から歩いて通えるK自動車学校に入り、たしか5月の末に晴れて免許を取得したはずである(更新日が誕生日になって正確なところが分らなくなった。一度更新を1週間ほど忘れて、免許証に記載される交付日がうんと若くなっちゃったんだ)。まあ39年前であるわけです。

さっそく、クルマ選びが始まった。といっても、当時の選択肢はそう多くない。エントリーカーとして考えられるのはサニークラス。ブルーバードやスカイラインなんて遠い遠い。トヨタはまったく視野に入らなかった。川崎育ちだと西のメーカーは輸入車と同じ距離感だった。僕だけかな?

ちょうど折よく、サニーにSUツインキャブを装備するGXシリーズが追加された。B10クーペにぞっこんだった僕がKB110サニーGXにご執心となったのは当然だった。

しかし学生の分際で、購入は親掛かり。家のクルマの運転手をやるから…というのが、僕が主張できる唯一の立場だった。選択肢としてはやはり同じ頃にデビューした三菱のギャランGSがあった。

1600㏄のサターンエンジン(SOHCツインキャブ)を搭載する4ドアセダンは、家族のクルマということでは非常に好ましい内容のクルマだったが、18歳の小僧としてはそんな所帯じみた感覚よりパリッとスポーティな2ドアクーペのほうがいいに決まっている。何故か主張が通って、白いボディに青いストライプがサイドに走るサニークーペGXがわが家にやってきた。

けっこう家計が苦しかったはずなのに、よく買ったなあ。あとから振り返ると親父の英断には感謝する他はなかった。もしもギャランだったら……今こうしていられたかどうか分らない。

KB110は、伝説の小型スポーツクーペとして知る人も多い。1171㏄のOHVエンジンに当初は4速MTのみ。フロントはストラットだが、リアはリーフスプリングで、タイヤは6.00-12 4PRという、今ではその意味も分かってもらえない表記がなされていた。

ボンネットを開けた際、誤って大きなスパナを落しても、どこにも引っ掛かることなく地面に転がり落ちた。エアコン?そんなものはない。三角窓で風を室内に送り込み、汗でべたつくビニールシートにはTシャツやタオルを巻き付けた。

グロス値で83psは、今の軽自動車よりもひょっとしたら非力かもしれない。でも、楽しかったなあ。しかし、このクルマではあまりヤンチャはしなかった。タイヤをラジアルに替えたくらいで、基本はノーマルで通したはずである。

当時の世相は、64年の東京オリンピックを皮切りに、66年のサニー/カローラ登場によるモータリゼーションの進展などを絡めながら、グングン経済が伸びる高度経済成長がピークアウトを迎えた段階。

クルマでいえば、スカイラインGT-R(PGC10)、トヨタ2000GT、コスモスポーツ、ベレットGT、ホンダS800など、パワー競争を彩る時代の”華”が数多く輩出していた。いずれも、当時の僕には高嶺の花で、それらのクルマについて語れるようになったのは、ずっと後のことだ。

その時の状況は、今から20年前に自動車人生を始めた現代のアラフォー世代が、R32スカイラインGT-RやZ32やNSXやFD3Sや三菱GTOを上目遣いで見ていたのと同じだし、現在のエントリードライバーがR35GT-RやIS FやランエボXやインプWRX STIなどを見上げている感覚と重なると思ってもらっていい。

昭和バブルの時も、最近の金融バブルの時も、冷静に判断すると環境やら安全やら資源やらの問題が見え隠れしていた。それらを振り返ると20年周期説がにわかに浮上してくるのだが、1970年の僕はサニークーペGXとの蜜月の時間に対する期待を抱くのと同時に、これはヤバイのかもしれない……TVや新聞によってもたらされる情報に暗い気分が深まるのを感じていた。

公害問題と交通戦争と呼ばれた安全問題。去年北京モーターショーの取材で訪れた北京の白く澱んだ空気を見て、今からこれか。遠い40年前の記憶が交叉して本当に胸が苦しくなる思いが募った。川崎育ちの僕の身体には40年前のあの空と川と海の状態が片隅にメモリーされている。

あれを日本の10倍の民が、猛烈な上昇志向とともに再現するのか? 日本があれからどれだけの労力を払って東京湾を今の状態まで戻したか。多摩川から洗剤の泡をなくしたか。工場が輩出するスモッグを吹き飛ばしたか。

多くの河川が工場排水のために死んでいる。伝えられる中国の状況は人ごとではないのだが、そこに思いを寄せている現代の日本人はごく少数派だ。

豊かであることがあたりまえで育った世代が、そこに至る前の段階に思いが及ばないのはしかたがないことだ。しかし、温故知新はいつの時代になっても重要な語り部の基本スタンスだろう。

無知は問題ではない。最初から知っている者など存在しない。知らないことを知ったら、後は知りに行くだけのことである。問題は、無知の状態を放置したまま、知っている範囲だけで強く主張することなのだ。それこそが若さでもあるのだが、過ちを更むるに憚ることなかれ……視野を広めずに大人になることは叶わない。

70年当時には、鉛公害というのがあった。エンジンのバルブシートの磨耗を防ぐために、当時のガソリンには4エチル鉛という物質が混合されていた。これが排気ガスとして放出された結果、鉛による中毒症状が問題となった。すり鉢状に道路が交叉する牛込柳町の交差点が有名になったのもあの頃だ。

72年頃、僕は高校の同級生の伝でガソリンスタンドでアルバイトを始めた。すべては成り行きだが、そこでそのスタンドの元売りがスポンサーだったある有名ドライバーの本を読んだことがきっかけで、レースの世界に飛び込むことになる。

ガソリンの無鉛化には最初からずっと立ち会った。青の無鉛、赤の有鉛、高速走行する際には有鉛ガソリンを入れるオレンジ色の高速有鉛、そして常に3分の1を有鉛を混ぜる緑色の混合。クルマごとにシールが貼られ、それに従って給油した。

当時は、まだポイント点火が主流で、燃料供給もキャブレターが常識。昭和48年排ガス規制に対応するために、ディストリビューターを遅角調整したり、キャブを薄くしぽったりするなど、あれやこれややることがどんどん増えて行った。

今時ポイントやプラグのギャップ調整なんて理解できる人……ほとんどないだろうな。

電子化されてメインテナンスフリーになっちゃったから、そんなこと知らなくたって何の問題もない。蒸気機関が内燃機関に変わり、機械式から電子制御式へと進化し、そして内燃機関から次のステップに移る。

これまで大きな変化を何度か目の当たりにしてきた。しかし、今度のはどうも様子が違う。過去からのつながりが最大限に膨れ上がってしまっているから、にわかにそれが蒸発するとは思えないが、変わる時にはあっと言う間に変わる。

1973年11月。第4次中東戦争をきっかけに降って湧た第1次オイルショック。公害問題と安全問題と排ガス規制が一緒くたになってぐちゃぐちゃになったあの混乱の真っ只中にいて、「すいませんガソリン、一台につき10Lしかいれることができないんですよ」行列待ちしてやっと番が来た常連客に告げて「パカヤローッ、そんなんじゃ明日仕事になんねぇだろ!!」どやされた経験は、去年のガソリン高騰とは似て非なるものでした。

もちろん深刻なのは去年のほうなんだ、状況的にはね。石油資源のピークアウトが迫っているという意味では、記憶に残るオイルショックよりも去年のほうがヤバイ。僕は密かに背筋が寒くなるのを感じているんですよ。

つづく

Posted at 2009/07/13 23:42:39 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月12日 イイね!

『明日の走り』  皆悩んで大きくなった? 1970~2009

ここに来るまでに、どれだけの道を走ってきただろう。僕がそんな思いに耽る気分になったのは、多分老いのせいだ。社会の変化の兆しは今世紀に入る少し前に察していた。

ここまで30余年、なんとかかんとかやってきた。フリーランスなどという言葉がまだ一般的ではない1970年代末にこの仕事を始めて以来、本当にいろんなことがあった。

山あり谷あり。望外の境遇を当然のことと考える”天狗”の頃もあれば、天罰のような事故も経験した。結果的に天罰は天啓だったと思う。テングのまま無事に波に乗ることができたなら、今とは比べようもないほど羽振りが良く、周囲が一目置く存在になっていたかもしれない。しかし、はたして、それまでとは違う生き方や考え方に思い至ることができただろうか。今ある自分こそがリアルだと思いたい。

アマチュアレーサー崩れのフリーライター。出自と歴史は変えようもなく、本質は何も変ってはいないのかもしれないが、走るプロセスの中で様々な経験を積み、それが血となり肉となって、当初とは随分異なる印象を与える言動の持主となっている。顔はそんなに変ってはいないと思うけれど、その評価を下すのはあくまでも皆さんだ。

来年の今頃、クルマに乗りはじめて満40年を迎える。20世紀末だった10年前、変化の兆しを肌で感じ、自力でHPを立ち上げた。結果はいろいろあって3年で頓挫してしまい、それが尾を引いて深く沈んだ現在に至っている。まあ、いつまでも後ろ向きでは、果実の収穫期となるこれからが台無しだ。そういうわけで僕は今ここにいるんですよ。

僕のクルマの旅は1970年の7月に始まった。これからの10年を語るために、しばらくの間これまでの40年を振り返ってみようと思っている。

つづく
Posted at 2009/07/12 10:24:13 | コメント(7) | トラックバック(0) | 日記
2009年07月08日 イイね!

とても良く出来ている

とても良く出来ているデザインは良く練られていて、エクステリアには素直にかっこいいと言いたくなる情緒が濃厚に漂う。インテリアではシートのフィット感が気に入った。

走らせてみると、6速MTを介してのマナーの良さが印象的だ。1~3速までのトップスピード(@6700rpm)は60、100、140㎞/h。100㎞/hのエンジン回転数は、3速4750、4速3500、5速2750、6速2250rpmである。

180㎞/hで速度リミッターが作動してしまう最高速に意味はないが、おそらく従来型をアウトバーンで試した250㎞/hの壁叩きはまったく問題なくクリアするのだろう。

それにしても、スムーズで軽く切れ味のクリアな加速フィールはどうだろう。走りを動質という視点で評価して行くと、この世界最速レベルにあるFF5ドアハッチバックは、もうどこに出しても恥ずかしくないクォリティとレベルの高さを備えている。

10年前なら、俺も諸手を挙げて『いいぞ、いいぞ』その痛快な乗り味を素直に楽しいと言っていた。5年前でも、若干の後ろめたさを感じつつも、まだ走りの質感の高さを称賛せずにはいられなかっただろう。

しかし、もはや完全に時代の潮目は変わり、トップパフォーマンスの単純な底上げには心を動かせなくなっている。従来価値観に照らして言えば素晴らしいという他はないが、そこに未来はあるのか? 問われた時に沈黙せざるを得ない。どうする? これまで良しとされていたことに駄目出しをしなければならない。難しいぞ、これは。

1.5LにCVTを組み合わせたベースモデルの仕上がりも素晴らしい。現代の1.5Lエンジンというのは、このくらいのボディをストレスなく走らせる。分かってはいたが、CVTで最適なトルクをピックアップしながら軽快なtouchでスピードを高める味わいは、標準モデルとして高い総合力を持っていると思う。

ただボディサイズの評価を横に置いておくわけにはいかないだろう。このセットアップでさらにエンジンをDISI化させてi-STOPを組み込むことができたなら、シリーズ全体としての評価もぐっと高まったはずだし、買う側としても納得して手を伸ばすことが出来た。

ターボとi-STOPとCVT……それぞれ方向性がバラバラで、シリーズとしてのビジョンが伝わらない。全部一遍に用意しなければ意味がないのに、肝腎なところでエクスキューズが入ってしまう。まあ、従来型の販売データがそのまま今回も通用するとして、全生産台数の1割にも満たない国内マーケットを考えたら、あれもこれもは望めない。

でもなあ、マツダはICEでやるしかないことを表明しておきながら、パワートレインの開発に明確な戦略性が見えない。急遽担当に任命されたFさんは、ここまでの経緯を明らかにしてくれたが、果たして彼の奮迅の建て直しは間に合うか。

ひとつだけ朗報。初心に立ち返って軽くて手頃なパワーと効率の良さが際立つLWS(略字は各自で開いてください。簡単だよね)のプランを具体化させる強い意志があることを確認しました。1・3L、1000㎏以下、NAのコンセプト……。いいじゃない!!






Posted at 2009/07/09 15:19:24 | コメント(15) | トラックバック(1) | 日記
2009年07月05日 イイね!

次行ってみよー

ありがとう さようなら 時の流れは さらさらさらさら 振り向く男を置き去りにしていく
ほっとけよ ひとりこの身を任せていたら 胸の奥から静かにこぼれた 熱い想い
1999年4月21日 10年はさすがに長かった 気がつけば いまはもう梅雨

ありがとう さようなら 人の心は ゆらゆらゆらゆら 四角い男を白く眺めている
そんなもん 膝を抱えて身を固くしていたら 蜘蛛の糸が密かに逢わせた 厚い情け
15万2千850㎞ あの日からずっとひとり 走り続けた 美しい森羅

ありがとう さようなら 諦めるつもりはないけれど 時代は大きく動き出している
楽しかったこれまでが 厳しいこれからの心の支え 負けに不思議の負けはなし
分かってるってそんなこと 知っていながらあえてここにいる
プライドは空腹のタネ それがどうしたというのだ

さあ次だ 身も心も重い そういう時もあっただろ あせらない あわてない あきらめない まだまだ先はあるようだ 愛着のない暮らしはつまらない 積もった歴史が悩みの種 いいじゃないの幸せならば 俺だけが知ってることがいっぱいある

ありがとう さようなら まあそういうことだよな お互いさまということで

Posted at 2009/07/06 01:29:13 | コメント(9) | トラックバック(0) | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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運転免許取得は1970年4月。レースデビューは1975年10月富士スピードウェイ。ジャーナリスト(フリーライター)専業は1978年9月から。クルマ歴は45年目、...
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