※少し加筆修正しました※ 2009.7.14 11:06
左の写真は、1977年の富士フレッシュマンシリーズの一コマ(斉藤東樹カメラマン撮影)。モノクロ写真はセピア色を通り越して、色落ちが始まっている。32年前。25歳!
有名なCMコピーとともに2代目サニー(B110型)が登場したのは1970年1月。高校時分の僕は先代のB10サニークーペのスタイリングがとても好きで、以来よくある〇〇党的なニュアンスで言う日産シンパになっていた。
カローラの排気量を+100㏄とする後出しジャンケンを苦々しく思っていた僕は、あの隣のクルマが……のTVCMに溜飲を下げていた一人だった。
3月早生まれの僕は、18歳になるのを待って、4月頃から実家から歩いて通えるK自動車学校に入り、たしか5月の末に晴れて免許を取得したはずである(更新日が誕生日になって正確なところが分らなくなった。一度更新を1週間ほど忘れて、免許証に記載される交付日がうんと若くなっちゃったんだ)。まあ39年前であるわけです。
さっそく、クルマ選びが始まった。といっても、当時の選択肢はそう多くない。エントリーカーとして考えられるのはサニークラス。ブルーバードやスカイラインなんて遠い遠い。トヨタはまったく視野に入らなかった。川崎育ちだと西のメーカーは輸入車と同じ距離感だった。僕だけかな?
ちょうど折よく、サニーにSUツインキャブを装備するGXシリーズが追加された。B10クーペにぞっこんだった僕がKB110サニーGXにご執心となったのは当然だった。
しかし学生の分際で、購入は親掛かり。家のクルマの運転手をやるから…というのが、僕が主張できる唯一の立場だった。選択肢としてはやはり同じ頃にデビューした三菱のギャランGSがあった。
1600㏄のサターンエンジン(SOHCツインキャブ)を搭載する4ドアセダンは、家族のクルマということでは非常に好ましい内容のクルマだったが、18歳の小僧としてはそんな所帯じみた感覚よりパリッとスポーティな2ドアクーペのほうがいいに決まっている。何故か主張が通って、白いボディに青いストライプがサイドに走るサニークーペGXがわが家にやってきた。
けっこう家計が苦しかったはずなのに、よく買ったなあ。あとから振り返ると親父の英断には感謝する他はなかった。もしもギャランだったら……今こうしていられたかどうか分らない。
KB110は、伝説の小型スポーツクーペとして知る人も多い。1171㏄のOHVエンジンに当初は4速MTのみ。フロントはストラットだが、リアはリーフスプリングで、タイヤは6.00-12 4PRという、今ではその意味も分かってもらえない表記がなされていた。
ボンネットを開けた際、誤って大きなスパナを落しても、どこにも引っ掛かることなく地面に転がり落ちた。エアコン?そんなものはない。三角窓で風を室内に送り込み、汗でべたつくビニールシートにはTシャツやタオルを巻き付けた。
グロス値で83psは、今の軽自動車よりもひょっとしたら非力かもしれない。でも、楽しかったなあ。しかし、このクルマではあまりヤンチャはしなかった。タイヤをラジアルに替えたくらいで、基本はノーマルで通したはずである。
当時の世相は、64年の東京オリンピックを皮切りに、66年のサニー/カローラ登場によるモータリゼーションの進展などを絡めながら、グングン経済が伸びる高度経済成長がピークアウトを迎えた段階。
クルマでいえば、スカイラインGT-R(PGC10)、トヨタ2000GT、コスモスポーツ、ベレットGT、ホンダS800など、パワー競争を彩る時代の”華”が数多く輩出していた。いずれも、当時の僕には高嶺の花で、それらのクルマについて語れるようになったのは、ずっと後のことだ。
その時の状況は、今から20年前に自動車人生を始めた現代のアラフォー世代が、R32スカイラインGT-RやZ32やNSXやFD3Sや三菱GTOを上目遣いで見ていたのと同じだし、現在のエントリードライバーがR35GT-RやIS FやランエボXやインプWRX STIなどを見上げている感覚と重なると思ってもらっていい。
昭和バブルの時も、最近の金融バブルの時も、冷静に判断すると環境やら安全やら資源やらの問題が見え隠れしていた。それらを振り返ると20年周期説がにわかに浮上してくるのだが、1970年の僕はサニークーペGXとの蜜月の時間に対する期待を抱くのと同時に、これはヤバイのかもしれない……TVや新聞によってもたらされる情報に暗い気分が深まるのを感じていた。
公害問題と交通戦争と呼ばれた安全問題。去年北京モーターショーの取材で訪れた北京の白く澱んだ空気を見て、今からこれか。遠い40年前の記憶が交叉して本当に胸が苦しくなる思いが募った。川崎育ちの僕の身体には40年前のあの空と川と海の状態が片隅にメモリーされている。
あれを日本の10倍の民が、猛烈な上昇志向とともに再現するのか? 日本があれからどれだけの労力を払って東京湾を今の状態まで戻したか。多摩川から洗剤の泡をなくしたか。工場が輩出するスモッグを吹き飛ばしたか。
多くの河川が工場排水のために死んでいる。伝えられる中国の状況は人ごとではないのだが、そこに思いを寄せている現代の日本人はごく少数派だ。
豊かであることがあたりまえで育った世代が、そこに至る前の段階に思いが及ばないのはしかたがないことだ。しかし、温故知新はいつの時代になっても重要な語り部の基本スタンスだろう。
無知は問題ではない。最初から知っている者など存在しない。知らないことを知ったら、後は知りに行くだけのことである。問題は、無知の状態を放置したまま、知っている範囲だけで強く主張することなのだ。それこそが若さでもあるのだが、過ちを更むるに憚ることなかれ……視野を広めずに大人になることは叶わない。
70年当時には、鉛公害というのがあった。エンジンのバルブシートの磨耗を防ぐために、当時のガソリンには4エチル鉛という物質が混合されていた。これが排気ガスとして放出された結果、鉛による中毒症状が問題となった。すり鉢状に道路が交叉する牛込柳町の交差点が有名になったのもあの頃だ。
72年頃、僕は高校の同級生の伝でガソリンスタンドでアルバイトを始めた。すべては成り行きだが、そこでそのスタンドの元売りがスポンサーだったある有名ドライバーの本を読んだことがきっかけで、レースの世界に飛び込むことになる。
ガソリンの無鉛化には最初からずっと立ち会った。青の無鉛、赤の有鉛、高速走行する際には有鉛ガソリンを入れるオレンジ色の高速有鉛、そして常に3分の1を有鉛を混ぜる緑色の混合。クルマごとにシールが貼られ、それに従って給油した。
当時は、まだポイント点火が主流で、燃料供給もキャブレターが常識。昭和48年排ガス規制に対応するために、ディストリビューターを遅角調整したり、キャブを薄くしぽったりするなど、あれやこれややることがどんどん増えて行った。
今時ポイントやプラグのギャップ調整なんて理解できる人……ほとんどないだろうな。
電子化されてメインテナンスフリーになっちゃったから、そんなこと知らなくたって何の問題もない。蒸気機関が内燃機関に変わり、機械式から電子制御式へと進化し、そして内燃機関から次のステップに移る。
これまで大きな変化を何度か目の当たりにしてきた。しかし、今度のはどうも様子が違う。過去からのつながりが最大限に膨れ上がってしまっているから、にわかにそれが蒸発するとは思えないが、変わる時にはあっと言う間に変わる。
1973年11月。第4次中東戦争をきっかけに降って湧た第1次オイルショック。公害問題と安全問題と排ガス規制が一緒くたになってぐちゃぐちゃになったあの混乱の真っ只中にいて、「すいませんガソリン、一台につき10Lしかいれることができないんですよ」行列待ちしてやっと番が来た常連客に告げて「パカヤローッ、そんなんじゃ明日仕事になんねぇだろ!!」どやされた経験は、去年のガソリン高騰とは似て非なるものでした。
もちろん深刻なのは去年のほうなんだ、状況的にはね。石油資源のピークアウトが迫っているという意味では、記憶に残るオイルショックよりも去年のほうがヤバイ。僕は密かに背筋が寒くなるのを感じているんですよ。
つづく
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2009/07/13 23:42:39