蝦夷防衛の兵制文献裏付け、木簡に「鎮兵」 全国初出土
2023年09月22日 08時25分
出土した木簡(左)。「鎮兵」の文字が確認できる(右)(福島市提供)
奈良時代―平安時代に集落があった福島市平石地区の西久保遺跡から、東北地方に派遣された兵士を指す「鎮兵(ちんぺい)」と書かれた木簡が出土した。「鎮」「兵」と記された木簡の発見例はあるが、2文字とも確認できるのは全国で初めて。朝廷と蝦夷(えみし)の対立が激化し、776~806年ごろに出羽国(でわのくに)(現在の秋田、山形両県)から下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の国司宛てに送られた防衛に関する書状とみられる。
福島市が21日発表した。鎮兵は「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記載があり、陸奥国(むつのくに)や出羽国の守備が任務だった。木簡で記載が裏付けられた形となる。1200年余り前の同市は陸奥国信夫郡で、国府が置かれていたわけでもなく、木簡の出土に歴史の謎は深まるものの、断片的な資料が多い鎮兵について考察する上で重要な手掛かりとなる。
木簡は市が本年度から行っている本格的な発掘調査で8月に見つかり、赤外線画像の分析で「出羽国牒(ちょう)下野国司 鎮兵□□□之状□□□」(出羽国、下野国司に牒す。鎮兵□□□の状□□□)の18文字が書かれていることが分かった。
「□」の6文字は不鮮明になっており、内容を全て判読できていないが、市は今後も分析を続ける。大きさは長さ29.6センチ、幅2.5センチ、厚さ1.1センチで、上下の一部が折れている。
市文化振興課によると、当時は紙が貴重で、木に文字を記した後に小刀で削って再利用していた。信夫郡は出羽国と下野国のほぼ中間にあり、近畿と東北を結ぶ「東山道(とうさんどう)」が通る交通の要衝だったため、何らかの理由で木簡が運び込まれたと考えられる。担当者は「道中で木簡を落としたかもしれないし、再利用だった可能性もある」との見方を示す。西久保遺跡も建物跡の構造から、役所のような機能を果たしていたことが推察できるという。
776~806年ごろは蝦夷が朝廷の侵攻に激しく抵抗、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷のリーダー阿弖流為(あてるい)を降伏させた。戦いの長期化を背景に、鎮兵が坂東(ばんどう)諸国(現在の関東地方)だけではなく、信夫郡などの陸奥国からも集められた可能性が木簡の出土で浮上した。
分析に協力している宮城県多賀城跡調査研究所の吉野武所長は「度重なる軍役による坂東諸国の疲弊の様子と、鎮兵制の実態や変遷などを見る上で重要な資料だ」と評価している。
9月23日公開
市は23日、現地説明会を開くとともに、木簡を特別公開する。近隣に臨時駐車場を設ける。時間は午前10時~正午と午後1時~同3時。雨天中止となる場合は同日午前8時に市のホームページで知らせる。
古代の福島とその周辺図
西久保遺跡 福島市平石地区にあり、国道13号バイパス「福島西道路」の改築事業に伴い来年度まで発掘調査が行われている。松川丘陵の北側に位置し、これまでに奈良時代―平安時代ごろの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、土坑、溝跡、ピット、沢が見つかった。土師(はじ)器や須恵器、中世陶器、金属器などが出土している。
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2023/09/22 12:35:03