
群馬 太田 太平洋戦争末期の地上から撮影した空襲映像見つかる
2023年10月11日 11時53分
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群馬県太田市で太平洋戦争末期に起きたアメリカ軍による空襲の様子を地上から撮影した映像が残されていたことがわかり、専門家は「当時の状況を生々しく伝える、非常に価値のある資料だ」と指摘しています。
映像は太田市で160人余りが犠牲になった、昭和20年2月10日の空襲の様子を地上から撮影したものです。
当時、市内にあった軍用機の製造工場に勤務していた男性が撮影し、40年余り前に群馬県立歴史博物館の学芸員が男性の許可を得てフィルムにダビングしましたが、そのまま保管され続けていました。
太田市は陸軍の訓練用の飛行場があったこともあり、戦争末期に繰り返し空襲を受けましたが、専門家によりますとその様子を伝える映像はこれまでアメリカ軍が上空から撮影したものしか確認されていないということです。
群馬県立歴史博物館は、撮影した男性の家族の了承を得て今後、映像を公開したいとしています。
映像は1分半余 逃げる人や航空機が写される
残されていたフィルムの中に太田空襲についての映像は1分半余りあり、冒頭には「群馬地区来襲、昭和20年2月10日」という文字が写されています。
続いて、
▽上空に長く伸びる飛行機雲や
▽防空頭巾をかぶった大勢の人たちが同じ方向に集団で走って逃げる様子
▽上空で最大で10機余り編隊を組んで飛ぶ航空機
また、
▽航空機が墜落して炎上する様子などが写されていました。
この映像についてNHKは、所有者側の許可を得て、2人の専門家に分析を依頼しました。
その結果、専門家は
▽飛行機雲についてはアメリカ軍の爆撃機を迎撃するために発進した日本軍の戦闘機によるもの
▽編隊を組んで飛行しているのは、アメリカ軍の爆撃機、B29であること
また、
▽きりもみ状態で墜落したのはB29で、日本軍の戦闘機に体当たりをされたものだと回答しました。
この映像は最後に「撮影 監修 金子三千雄」、「終」という文字が写されて締めくくられています。
専門家「極めて貴重な映像」
今回見つかった映像についてNHKはアメリカ軍による空襲に詳しい2人の専門家に分析を依頼しました。
このうちアメリカ軍による空襲の歴史を研究している工藤洋三さんは、アメリカ軍が残した太田市の空襲に関する別の資料にあった爆撃機が組む編隊の形や、当日の天気などと照らし合わせた結果、それらが映像と一致していると指摘しています。
工藤さんは工場から逃げる人々の様子について「非常に早足で慌てて逃げているようにみられ、組織的な動きがあまり見受けられない。空襲を事前に察知して、従業員や学徒を早く逃がしておくといった対応ができていないことの現れだと思う。日本側の防御に対する心構えが非常に弱かったことを教えてくれる資料だ」と分析していました。
また、アメリカの国立公文書館から入手した戦時中の全国の空襲映像の分析をしている大分県宇佐市の市民グループ、「豊の国宇佐市塾」のメンバーの1人、織田祐輔さんは「初めて見た映像で、大変興味深く感じた」と話しています。
そのうえで「B29が墜落して炎上するまでの流れが映っていること、また、日本側が終戦直後に撮影した映像フィルムの多くが焼却処分されている中で、それが現存しているという意味でも極めて貴重な映像だと思う」と話していました。
フィルムの保管者「歴史を立体的に見ていく手がかりに」
フィルムを残していた原田恒弘さん(85)は群馬県立歴史博物館の学芸員だった41年前、「軍用機を製造していた「中島飛行機」の工場で『写真班』だった男性が桐生市に住んでいる」と聞き、男性のもとを訪ねたということです。
その男性が映像の最後に撮影者として名前があった金子三千雄さんで、原田さんは許可を得てフィルムを見てダビングさせてもらったといいます。
フィルムはその後、博物館で保管されていたものの映写機がなかったことなどから見られることなく40年を超える時が過ぎましたが、博物館の資料のデジタル化に伴い9月、映写機を手配して今いる学芸員が原田さんとともに映像を確認しました。
原田さん自身は終戦10日前の昭和20年8月5日から翌日にかけてアメリカ軍の空襲を受けて535人が犠牲となった「前橋空襲」の体験者の1人で、今も語り部として活動しています。
原田さんは「金子さんは工場専属のカメラマンで『あなたならばどの部分を撮ってもかまいませんよ』という『特別部隊』に所属していたと聞いている。日本側が空襲をどのように捉えていたのかがわかる映像だと思う。歴史を立体的に見ていくための手がかりになることを期待しています」と話していました。
Posted at 2023/10/11 13:43:35 | |
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