2023年12月08日
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以下、wikiより引用
真珠湾攻撃
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第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 南方作戦 > 真珠湾攻撃
真珠湾攻撃
真珠湾攻撃
炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機
戦争:太平洋戦争(大東亜戦争)
年月日:日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明, ハワイ時間12月7日
場所:アメリカ合衆国ハワイ州(当時はアメリカ合衆国の準州)オアフ島真珠湾
結果:日本の勝利、太平洋戦争突入
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オランダの旗 オランダ
指導者・指揮官
大日本帝国 山本五十六
大日本帝国 南雲忠一
アメリカ合衆国 ハズバンド・キンメル
アメリカ合衆国 ウォルター・ショート
戦力
航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機
他
戦艦8隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機
損害
特殊潜航艇4隻沈没
特殊潜航艇1隻座礁
航空機損失29機
航空機損傷74機
戦死64名
捕虜1名
戦艦4隻沈没
戦艦1隻座礁
戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷
駆逐艦3隻座礁
標的艦1隻沈没
その他1隻沈没
その他1隻座礁
その他2隻損傷
航空機損失188機
航空機損傷159機
戦死2,334名
民間人死亡68名
民間航空機損失3機
南方作戦
真珠湾 マレー マレー沖 シンガポール フィリピン 香港 グアム ウェーク島 ニューギニア沖 蘭印 バリクパパン沖 エンドウ沖 ジャワ沖 ダーウィン空襲 バリ島沖 スラバヤ沖 バタビア沖 アンダマン諸島 ビルマ セイロン沖
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大日本帝国海軍艦隊の航跡図
大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、旧字体: 眞珠灣攻擊、英: Attack on Pearl Harbor)は、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)、第二次世界大戦において日本海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った[1]、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による奇襲攻撃である。当時の日本側呼称は、布哇比(ハワイ)海戦、布哇比(ハワイ)作戦と言う。
太平洋戦争(大東亜戦争)における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦開始(太平洋戦争開戦)に次いで実施された。当初はマレー作戦と「同時」の予定だったが、一部の練度の低い戦隊に暗闇の中で編隊を組ませる危険を避けるために夜明けを待ち、攻撃予定が1時間半繰り下げられたためである[2]。
すでに日中戦争(支那事変)を戦っていた日本は中華民国を含む英米・オランダなど連合国との全面戦争に突入した。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失。開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[3]作戦目的を達成した[4]。
背景
ハワイ王国を倒してハワイ諸島を奪ったアメリカが1908年(日本では明治41年)にオアフ島に設置した真珠湾海軍基地は、日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で防御されており、戦艦を圧倒できる16インチ砲を備えた沿岸砲台もあり、水上艦船での接近は不可能だった。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している[5]。米軍の対日戦構想については「オレンジ計画」を参照。
日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが、1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は当初より日米の国力差を熟知して対米開戦には反対の姿勢でありつつも、異なる構想を持っていた。アメリカに駐在武官として長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。戦間期に発達した航空母艦(空母)とそれに搭載する艦上爆撃機(艦爆)、艦上攻撃機(艦攻)により、当時は日本統治下だった南洋諸島からでも遠いハワイを空襲することが可能になっていた。
日本は、日中戦争/支那事変(1937年〜)の拡大と欧州における第二次世界大戦の勃発(1939年)、それらに伴う1940年の仏印進駐および日独伊三国同盟締結で米国との対立を深め、米国などは対日経済制裁を順次強化していた(ABCD包囲網)。
「日米交渉」を参照
準備
作戦の立案
1941年(昭和16年)1月14日頃、連合艦隊司令長官の山本五十六が第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に手紙を送り、1月26日 - 27日頃に戦艦長門(連合艦隊旗艦)を訪ねた大西は、山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された[6]。山本から大西への手紙の要旨は
「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦初頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」
というものであった[7]。
鹿屋航空基地の第十一航空艦隊司令部に戻った大西は、参謀の前田孝成大佐に詳細を伏せて、真珠湾での在泊艦艇に対する魚雷攻撃(雷撃)について相談したが、真珠湾は水深が浅いために航空雷撃は不可能という回答だった。大西は第一航空戦隊参謀の源田実中佐を2月中旬に鹿屋に呼び、同様の質問をした。戦闘機乗り出身の源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究次第で可能になるかもしれぬと回答した。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼した。源田は計画案を2週間ほどで仕上げて大西に提出、それに大西が手を加え、3月初旬頃、山本に提出した[8]。源田案は、空母部隊の集結場所を小笠原諸島の父島か、北海道東部の厚岸として、真珠湾の200海里まで接近しそこから攻撃隊を発進させるもので、二案あった。一つ目は雷撃が可能である場合で、艦上攻撃機は雷装とし、艦上爆撃機と共同攻撃する案、二つ目は雷撃が不可能である場合で、艦攻は降ろして全て艦爆にする案である。艦上戦闘機は制空と敵機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)と第四航空戦隊を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。主目標は空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が低く、大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかった[9][10]。これを大西は、戦艦には装甲貫通能力の高い艦攻による水平爆撃を行うこと、出発基地を択捉島の単冠湾と源田の案を修正した[9]。9月頃、源田が大西から参考のために手渡された書面には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷は与えられなくとも行動をできなくすればよいということになっていたという[10]。山本は、真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ大きな効果を期待しえないので、この作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案が決定された[9]。
攻撃の優先順位として、主目標は戦艦・空母とし、次にその達成を妨害するであろう敵航空基地・航空機が副目標となった。工廠(こうしょう)や油槽(石油タンク)などの施設は目標とされなかった。戦力を二分していずれの攻撃もが不徹底に終わるよりは艦艇破壊に集中したほうが良いと考えたためであり、工廠や油槽などの後方施設の重要性は認めながらも、これらへの攻撃はあえて切り捨てる方針がとられた[11]。また攻撃は持てる艦上機による「一度だけの出撃」とされ、発艦は第一波と第二波に分けられ(当時の航空母艦は艦載機用カタパルトは無いので搭載機を一度に全機飛ばすことは出来ず、飛行甲板に最大限並べても2回に分ける必要があった[12])、戦果の如何にかかわらず再攻撃は計画されていなかった。しかし一方で山本は、攻撃後、ハワイ上陸の案も幕僚にもちかけていたという[13]。
実施部隊である第一航空艦隊(4月10日に編制)に作戦構想が伝えられると、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、先任参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田にハワイ奇襲作戦実行計画の仕上げを命じた[14]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、洋上燃料補給ができない場合もあるとして、一部艦艇の航続力が問題となったが、海軍省軍務局の暗黙の了解のもと、第一航空艦隊司令長官の権限で、燃料庫以外にもドラム缶で各艦の強度が許す限りの燃料を搭載することとした[15]。
使用する航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、連合艦隊は、9月1日に編成された翔鶴(8月8日就役)と瑞鶴(9月25日就役)の新鋭大型空母2隻を擁する第五航空戦隊も、搭乗員や器材の準備が間に合うなら使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順口攻撃において、港外での敵艦隊夜襲が失敗した一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部の考えは4隻であった[16]。10月9日 - 13日に連合艦隊司令部で研究会が行われた。軍令部航空部員の三代辰吉はこの研究会に出席するために出張してきたが、研究会が終わった後に連合艦隊司令部に赴き、6隻使用は到底了承しがたい旨を伝えて東京に帰った[17]。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに、味方空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。
大西と第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地だったフィリピン方面に戦力を集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[14]。作戦再考を求めに来た軍令部の参謀に対しては「南方進攻しているあいだに本土を襲われたらどうするのだ」とも語ったという。
海軍省軍務局や作戦部は大反対であった。大西が9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ち合わせの席上で「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやってもどこをやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」と述べたように、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧するのが反対論の主旨であった[18]。
10月19日、連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長の伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長の永野修身大将は作戦実施を認めた。永野総長は戦後、東京裁判の検察尋問に対し、「私はもともと軍令部案に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに賛同していました」「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったので、こちらの計画に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」と証言している。
また、草鹿によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたという[3]。
援護作戦として駆逐艦二隻によるミッドウェー島砲撃が計画された。
詳細は「ミッドウェー島砲撃」を参照
航空部隊
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[19]。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した[20]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[21]。
当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、真珠湾内のフォード島北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[22]。
技術的な課題は、第一に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第二に戦艦の装甲にどうやって航空爆弾を貫通させるか、の2点であった。
詳細は「九一式魚雷」を参照
第一の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。
第二の爆弾に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量を賄う実験が鹿屋、笠之原で実施された。模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。
鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった[23]。蒼龍の艦攻搭乗員だった吉岡政光の回想によると、通常なら知らされる目的地は一般の乗組員には知らされなかった。伊勢湾近くでは、伊勢神宮へ向けて総員敬礼が命じられたが、それもかつての航海ではなかったことだった[24]。吉岡は、国力に大差がある米国と開戦すると思っておらず、猛訓練は日中戦争激化への備えと考えていた[25]。
吉岡がハワイ攻撃を知らされたのは単冠湾到着後、11月24日で南雲中将からの「宿敵米国ニ対シ愈々十二月八日ヲ期シテ開戦セラレントシ…」[25]、「十年兵ヲ養フハ只一日之ヲ用ヒンガ為ナルヲ想起シ」という訓示が読み上げられた[26]。その後は、ジオラマを使い真珠湾の地形や米戦艦の停泊位置を頭に叩き込んだ[25]。
単冠湾は冬でも海氷に閉ざされない天然の良港で、沿岸には天寧(てんねい)や年萌(としもい)という集落があった[27]。11月20日、警戒と機密保持を任務とする先遣隊が到着し、天寧郵便局に電信電話回線の遮断を命じた[27]。11月22日朝には5、6隻の軍艦が目撃されたが、住民は湾を見ないよう指示され、学校でも話題にする生徒はいなかった[28]。夜はサーチライトが空に向けられた[28][27]。増えた艦艇は24日頃から出航し[28]、26日には朝靄の中を空母が岬を通過していくのが目撃されたが、住民はハワイ攻撃とは思わず、ソ連との戦争を噂しあっていた[27]。
また、日本海軍は攻撃に備えて真珠湾を調査するため、スパイとして吉川猛夫をハワイの領事館員として送り込んだ。吉川は現地の日系人を利用して真珠湾のアメリカ軍艦艇の動向を日々調査し、真珠湾のアメリカ軍兵力の詳報を作り上げた。他にも軍令部第3部の鈴木英少佐らが、仏印進駐による経済制裁(全面禁輸)によりアメリカ行き商船の最終便となった大洋丸に乗り込み、攻撃部隊の予定進路に沿って航海して気象条件やアメリカ軍の警戒態勢などの情報を収集している。鈴木らは1941年(昭和16年)11月1日にハワイに到着すると、安全を期して吉川との直接の接触は避け、日本総領事の喜多長雄から吉川の調査結果を受け取った。鈴木は無事に日本に情報を持ち帰り、源田らに真珠湾の最新情報を伝えることができた。吉川は攻撃直前まで真珠湾の艦艇の動向を調べ、その情報は暗号電文で総領事館から海軍に伝えられ、第一航空艦隊に伝えられた[29]。
特殊潜航艇
航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであったり、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想があったことを示している[30]。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年(昭和16年)1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了。搭乗員の練度も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員である有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。
9月初旬に原田と岩佐が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが、搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信して潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長するなどの研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11日 - 13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が選ばれた[31]。
Posted at 2023/12/08 07:08:46 | |
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