村山富市元首相 死去 101歳 社会党で委員長など務める
2025年10月17日午後1時16分
(2025年10月17日午後6時30分更新)
訃報
かつての社会党で委員長などを務めた村山富市・元総理大臣が、17日、亡くなりました。101歳でした。
村山元総理大臣は大分市出身で、労働組合運動を経て、大分市議会議員や大分県議会議員を務め、1972年の衆議院選挙で、旧大分1区に社会党から立候補して初当選し、あわせて8回当選しました。
社会党では、国会対策委員長などを歴任したあと、1993年8月に社会党も加わった非自民・非共産8党派による細川連立政権が発足し、その後、党の委員長に就任しました。
続く羽田内閣では、社会党を除いた院内会派結成の動きに反発して連立を離脱しましたが、羽田内閣の退陣後、自民党は、さきがけも加えた自社さ連立政権の樹立を打診し、村山氏も受け入れ、1994年6月、第81代の総理大臣に就任しました。
社会党の議員としては、片山哲氏以来、47年ぶり、2人目の総理大臣で、自民党と社会党の連立政権により、いわゆる55年体制が終わりました。
総理大臣就任後、初めての所信表明演説で、自衛隊を合憲と認め、日米安全保障体制を堅持すると発言し、社会党の基本政策の転換を図りました。
戦後50年の節目にあたる1995年の終戦の日には、「とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明する」などと、過去の植民地支配と侵略に痛切な反省やお詫びを表明した、いわゆる「村山談話」を発表しました。
また、「人にやさしい政治」を掲げ、被爆者援護法の制定や、水俣病患者の救済に積極的に取り組みました。
一方、在任中は、1995年1月の阪神・淡路大震災のほか、オウム真理教による地下鉄サリン事件や、全日空機のハイジャック事件など危機管理が問われる場面が続きました。
そして、就任から1年半あまりたった1996年1月、突然辞意を表明し、自民党総裁だった橋本龍太郎氏が後任の総理大臣に就任しました。
総理大臣退任後は、閣内には入らずに党務に専念し、党名を変更した社民党の初代党首に就任したほか、1999年には、超党派の訪問団団長として北朝鮮を訪れました。
そして、翌年には、総理大臣在任中に亡くなった小渕恵三氏に対する追悼演説を行ったあと、衆議院の解散に伴って政界を引退しました。
長い眉毛や、庶民的で気さくな人柄から、「とんちゃん」の愛称で親しまれ、NHKの番組「チコちゃんに叱られる!」にも出演しました。
2015年に集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が成立した際には記者会見して反対声明を出すなど政治的な発言も続けてきました。
2022年6月には、党の存亡をかけて参議院選挙に挑んだ社民党の福島党首を「絶対勝たないかんで。頑張れ」と激励するなど、元気な姿を見せていました。
関係者によりますと、村山氏は17日午前、大分市内の病院で家族が見守る中、亡くなったということです。
死因は、老衰だということです。
総理大臣経験者の中で2番目の長寿
総理大臣官邸によりますと、101歳と7か月で亡くなった村山元総理大臣は、歴代の総理大臣経験者の中で2番目の長寿でした。
歴代の総理大臣で最も長寿だったのは終戦直後に務めた東久邇宮稔彦王で、1990年に102歳で亡くなりました。
次いで、
▽村山氏が101歳と7か月
▽中曽根康弘氏が101歳と6か月で、100歳以上はこの3人です。
また
▽鈴木善幸氏が93歳
▽清浦奎吾氏が92歳
▽西園寺公望氏が91歳と1か月
▽海部俊樹氏が91歳で亡くなるなど、90歳以上はあわせて10人となっています。
社民 福島党首「戦争反対 平和への思い強い人」
社民党の福島党首は記者団に対し「驚きだった。引退したあとも『社民党がんばれ』といつも言ってくれて、私にとってはパパみたいな存在で信じられない。『村山談話』は日本の政治にとって意義深いものだった。戦争反対、平和への思いがとても強い人だった」と述べました。
細川護煕 元首相「村山談話 大きな功績」
村山富市 元総理大臣は1993年8月に社会党も加わった非自民・非共産8党派による細川連立政権が発足したあと、党の委員長に就任しました。
村山元総理大臣が亡くなったことを受けて、細川護煕 元総理大臣がNHKの電話取材に応じ、「良い方だったが、政治的な立場が違うからしょっちゅう冗談を言いあいながらよく衝突していた」などと述べ当時を振り返りました。
その上で「戦後50年の村山談話では、過去の国策の誤りを率直に認められて、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明されたのが、村山内閣の大きな功績のひとつだと思う。ほかのことよりもはるかに大きな政治的な意味があったと思う」と話していました。
河野洋平 元衆院議長「訃報 残念でならない」
自社さ連立政権が発足した時の自民党総裁で、村山内閣では副総理兼外務大臣を務めた河野洋平・元衆議院議長はコメントを発表しました。
この中では「今から31年前、自民党総裁だった私は、社会党の委員長だった村山さん、さきがけの代表だった武村さんと何度も腹を割って相談を重ね、『自社さ』政権を樹立した。議席数に差があった社会党に総理の座を譲ることで当時は批判もあったが、第1党の自民党が譲ってこそ成立できた政権だと今でも確信している」としています。
その上で「総理になられた村山さんは持ち前の実直さと信念を持ちながら、政権発足直後の日米首脳会談やサミットも立派にこなされ、『村山談話』や『被爆者援護法』など数々の実績も残された。昨今の政治の混乱についてご意見をお聞きしたいと思っていたやさきの訃報であり、残念でならない」としています。
辻元清美 参院議員「私にとっての『政治の父』」
かつて社民党に所属していた立憲民主党の辻元清美・参議院議員は、NHKの取材に対し「戦後50年の節目にいわゆる『村山談話』を発表するなど村山さんにしかできない大きな功績を残された。権力にこびない姿が印象的だった。村山さんは私にとっての『政治の父』であり、とてもショックだ」と述べました。
【政治部デスク解説】(2分19秒)
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10月17日 午後1時台の特設ニュースで放送
《各党からも悼む声》
石破首相「大変に実直かつ誠実な方だった印象」
石破総理大臣は総理大臣官邸で記者団に対し「突然の訃報に接し驚きと悲しみを禁じ得ない。オウム真理教事件や阪神・淡路大震災に懸命に取り組まれ水俣病の解決にも大変尽力された」と述べました。
また「私は当時『自衛隊を認めてこなかった方が最高指揮官になるのはどうなんだろうか』という思いがあったが、村山氏が自衛隊を合憲として自社さ連立政権が続くわけで、政治がより現実的になっていくという意味で大変大きな転換点だった」と指摘しました。
その上で「大変に実直かつ誠実な方だったというのが私の印象で、み霊の安らかならんことを心よりお祈りする」と述べました。
一方、戦後50年の節目の1995年に発表されたいわゆる「村山談話」の評価を問われたのに対しては「立場を引き継いでいるということに尽きる。評価するというようなせん越なことはすべきではないし、評価は歴史がするものだ」と述べました。
自民 高市総裁「新人議員にも声をかけてくださった」
自民党の高市総裁は17日午後、党本部で記者団に対し「心からお悔やみを申し上げる。 私が初当選したよくとしに『自社さ政権』が発足し、村山総理大臣が就任したが、大変なことが次々と起きた。特に阪神・淡路大震災では大変苦しい思いをしながら対応していた。本当に優しい方で、私のような新人議員にも声をかけてくださった」と述べました。
その上で「『自社さ政権』の枠組みの中で、日米同盟を認めるかどうかなど非常に大きな政策転換をして党内を説得するのにも大変な思いをしながら、責任を持って国を率いた方だ。今、私自身、多くの国民の暮らしの安心を取り戻し、未来に希望を持ってもらうため、安定した政権をつくろうと考えて動いている。村山元総理の強さと優しさを思いながら哀悼の誠をささげたい」と述べました。
立民 野田代表「先輩の総理大臣としてリスペクト」
立憲民主党の野田代表は記者団に対し「先輩の総理大臣としてリスペクトの念を持っていた。連立政権で非常にご苦労があったと思うが、しっかりとこなされたことに敬意を表すとともに心から哀悼の誠をささげたい」と述べました。
国民 榛葉幹事長「大変な時代 乗り越えた総理」
国民民主党の榛葉幹事長は記者会見で「心からお悔やみ申し上げ、哀悼の誠を捧げたい。日本政治が混とんとしているときに、自民党の政局の中から、まさにウルトラCで社会党から総理大臣を出し、大きな歴史の転換点だった。『永田町の政治はドラマティックだな』と鳥肌が立ったのを覚えている」と述べました。
その上で「阪神淡路大震災など大変な時代を乗り越えられた総理だと思う。政局的、政治的にはさまざまな評価や賛否があることは承知しているが、1つの時代を生き抜いた国会議員の先輩だ」と述べました。
公明 斉藤代表「被爆者支援の道を開いた」
公明党の斉藤代表は国会内で記者会見し「安全保障政策の転換を含め、しん吟しながらも責任ある国家運営に努めていた。公明党が法案提出を重ねていた被爆者援護法が村山政権下で国家補償を含まないある意味、不十分な内容ながらも成立し、その後の被爆者支援の道を開いたことは非常に大きな仕事だったと評価している。心より哀悼の意をささげる」と述べました。
共産 田村委員長「こんにちに受け継ぐべき 大切な談話に」
共産党の田村委員長は記者団に対し「『村山談話』で過去の侵略戦争と植民地支配についてしっかりと反省の弁を述べた。こんにちに受け継ぐべき、大切な談話になったと考えており、心からの哀悼の意を表したい」と述べました。